全校遠足でふるさと先生にガイドをしていただいたお話と『兵円のあまんじゃく いなば西郷伝説集』、『郷土副読本 高山』をもとにしています。
木漏れ日の中、曳田川のせせらぎをききながらゆっくりと歩きます。夏になると多くの人が川遊びに訪れます。
湯谷と牛戸の間にある三枚岩は、その名の通り大きな岩が三枚かさなっています。もとは一枚の岩でしたが板状節理によって三枚の岩が重なって見えるようになったのではないでしょうか。
この三枚岩にはこのような伝説があります。
昔、長者の美しい娘のもとに、夜な夜な若い男が通ってきていました。その正体を確かめるために、男の着物に糸をつけて後をたどっていくと、糸は三枚岩に続いていました。岩の下には洞窟があり、その中では糸を通された大蛇が苦しんでいました。
このような伝説は全国にたくさんあるそうです。一番近いところでは「洗足山の鬼」の伝説がそうです。
現在の湯谷温泉は昭和51年、せせらぎ食堂は平成2年に建てられました。温泉の性質は、食塩アルカリ性炭酸泉で、特に皮膚病によく効くということです。地域の方の憩いの場となっています。
湯谷という地名は江戸時代初期にはすでにあったようですが、温泉として知られるようになったのは江戸時代中期ごろです。
この源泉は今から285年前の江戸時代(元文2年:1737年)に掘り当てられました。掘削重機などない頃なのですべて手作業で行われたそうです。湯船をのぞくとぽこぽこと泡が上がっていて、温泉が今でも湧いていることが分かります。温度は30℃くらいで白濁したお湯です。手をつけてみるとしっとりすべすべになりました。
湯谷温泉は鳥取藩指定の温泉地(岩井・勝見・吉岡)と並ぶ温泉地として昔から有名です。幕末の頃、桜田門外の変を起こした水戸藩と鳥取藩は密約を結んでいました。そのつながりで湯谷に水戸藩士が湯治に来ていたという記録もあり、日本の歴史が変わる瞬間に湯谷温泉が関わっていたと思うと、歴史の重みを感じます。
【すべすべになります。】
【庭にも温泉が湧き出ています。】
左手に薬壺を持った薬師如来は、怪我や病気を治してくれる仏様です。唱えるお経は「おんころころ せんだい またおきそわか」です。
湯谷温泉にはこのような伝説が残っています。
昔、弓河内に谷長治郎左衛門というとても信仰心の篤い人がいました。ある晩、治郎左衛門の夢に薬師如来が現れ「我は秋里村盧山寺の薬師如来なり、我をなんじの家に招きいれよ」とおっしゃいました。治郎左衛門がそのお告げを信じて盧山寺の木の下を掘ってみると、薬師如来の仏像が埋まっていました。治郎左衛門はその仏像を持ち帰りました。しばらくして、治郎左衛門の夢に再び薬師如来が現れ「湯谷に温泉が湧く。この温泉は万病に効く温泉であるから、温泉を掘り、病気に苦しむ人々を助けなさい。」とおっしゃいました。早速、治郎左衛門が教えられた場所を掘ってみると、本当に温泉が湧きだしました。その後、治郎左衛門は、温泉を誰でも入れるようにし、薬師如来のお堂も近くに建て、自分の家も湯谷に移しました。
この伝説とほぼ同じ内容で、江戸時代の1796年に書かれた由来が、温泉を開いた谷長治郎左衛門の子孫の家に伝わっています。
【薬師堂】
【薬師如来像】
小畑にある首塚には恐ろしい由来があります。戦国時代、因幡の国主山名豊国(やまなとよくに)と、玉津(たまつ)の鵯尾城(ひよどりおじょう)の武田高信(たけたたかのぶ)との間に大きな戦がありました。討ち取った敵の首級を埋めて供養したのが首塚だと言われています。
背筋が寒くなる話ですが、本当に首が埋まっているのでしょうか?100年ほど前に調査した人がおり、首は埋まっていなかったそうです。 この首塚は「首から上の病気を治す」と言われています。
このしだれ桜は、昭和30年に県の天然記念物に指定されました。根元から5メートルほど上の方で5つの大きな枝に分かれています。そこから小枝が出て、それがしだれ糸のように細く長く垂れ下がって、かさのようになっているのが特長です。
目の高さの周囲が2.4メートル、木の高さ13メートル、枝張り東西15メートル、南北8メートルもあります。200年以上の樹齢でしかも、過去3回の台風で、高さが15メートルあったのが、今では、13メートルになっています。
4月の中頃になると、しだれ桜が満開になります。地上まで糸を引くように咲きこぼれるようすは、とても見事です。
昭和37年まで北村に西郷小学校北分校がありました。校舎は取り壊され、当時の面影を残すのは校庭にあった木のみです。
本堂の真ん中にご本尊の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)、右に弘法大師(こうぼうだいし)、左に薬師如来(やくしにょらい)がいらっしゃいます。薬師如来の近くには県指定保護文化財の勢至菩薩立像(せいしぼさつりつぞう)が安置されています。
粟谷橋(あわたんばし)から向こうには「歯むき坂」の姥捨て伝説が残っています。
むかし、歳をとって働くことができくなった年寄りは、若い者に背負われて粟谷の山に捨てられていました。ある時、一人の若者が、年寄りが二度と村に戻ってこないように、粟谷の入り口の坂に、年寄りの首から上を出して生き埋めにしました。埋められた年寄りは、そこを人が通るたびに、歯をむき出してじっとにらみつけました。しばらくして行ってみると年寄りは歯をむき出して死んでいました。それから、この場所を「歯むき坂」と呼ぶようになり、年寄りを山に捨てることもしなくなったということです。
【粟谷橋】
【橋の向こう側に見える歯むき坂】
新田井出は北村、弓河内、小畑の田んぼに水を引くために作られた用水路です。
延長:4㎞ 関係水田面積:約20ha 幅約:1m 高さ:約1m
江戸時代末期(安政1854~1860)に、高草郡玉津(現:鳥取市玉津)の近藤浅右衛門という人が、新しく水田を開くために鳥取藩の池田の殿様の許可を得て、弓河内村の与左衛門と共に私財を投じて水路を作りました。
当初は、「上手くいくはずがない」という村人たちの理解を得られなかったり、北村神社の用地を横切ることに反対されたりして、工事は難航しました。しかし、浅右衛門と与左衛門の熱意と説得により、難色をしめしていた村人たちも次第に協力してくれるようになりました。また、池田家の家紋である揚羽蝶の紋がついたついた幕を北村神社がもらえることになったことで用地を横切ることに同意が得られ、とうとう用水路は完成しました。
今から160年も前に作られた用水路が今でも現役で使われています。当時の人々の熱意と技術の高さに感動します。
【奥に見えるのが浅右衛門堰】
【下原一帯の新田】
地元の人々から「権現さん」の名で親しまれている高山神社は、かつては三徳山の奥ノ院のさらに奥ノ院として高山(標高1054m)の頂上にありました。今のように山麓に神社にをうつした経緯についてこのような言い伝えが残っています。
ある時、賀露の港では不漁の時期か続きました。困った漁師たちは、これはきっと高山の神様が高いところからにらんでいるからだろうと考えました。そこで北村の人々に高山神社をもっと低いところにおろしてくれるよう頼みました。北村の人々はその願いを聞き入れ、神社を現在の場所(杣小屋と落河内に行く別れ道)にうつしました。それ以降、賀露では魚がたくさん獲れるようになったということです。
【現在の高山神社】
【山頂の高山神社跡】
【遠くに日本海が見えます。】
太い幹にびっしりと苔を生やして見上げるほどに大きな大カツラが持つ神秘的な雰囲気に圧倒されます。この大カツラは昭和40年に県の天然記念物に指定されました。周囲が12.9メートル、枝張り東西36メートル、南北35メートル、総面積130平方メートル、木の高さ25メートルの大木です。地元の人々から「山の神」と信仰されているものうなづけます。