獄舎跡碑
安芸郡奉行所田野学館跡碑
道場跡碑
1853年 安芸郡奉行所に藩校田野学館が併設された。
夏は朝6時から10時まで、冬は朝9時から正午まで、漢学、習字、弓術、砲術、槍術、剣術、柔術、練兵の授業を行っていました。
生徒数は50人ほどであった。田野学館は、高知の致道館と並び土佐の藩校として栄え、清岡道之助、清岡治之助、中岡慎太郎等、数多くの人材を輩出した。
1854年に入学した中岡慎太郎は、1855年に武市半平太(後の武市瑞山)が田野学館に出張したおりに、剣術などを学んでいる。(中岡慎太郞については、中岡慎太郎館(北川村)のホームページをご覧ください。)
後に、武市が吉田東洋暗殺の件で投獄され、1864年清岡道之助ら田野学館出身者を中心とした野根山に集結した二十三士が、談判状を提出するが捕らえられ、ほとんど審議を受けることもなく奈半利川の河原で全員斬首される。 処刑前、一時的に投獄されていた跡地に獄舎跡の碑が建っている。
明治維新とともに田野学館は閉鎖された。(碑はすべて中芸高校敷地内)
昭和23年5月、田野・羽根・奈半利・北川・安田・馬路の6か町村の人々の、「地元に地域の青年のための高等学校をつくろう」との熱意により、高知県安芸郡中芸高等学校が設立された。昭和23年7月1日、高知県指令第878号により、高知県中芸高等学校となり、同日開校式が行われた。昭和24年9月1日、高知県立安芸高等学校中芸分教場となる。昭和25年3月31日、高知県立中芸高等学校となった。木造二階建ての本館校舎は昭和24年12月に着工し、25年3月31日に竣工した。
土佐藩は嘉永六年安芸郡奉行所を田野村岡地に設け、政治軍事を行わせることになり、此処に東西145米南北109米の場所を造り、役所、武道館、舎宅、獄舎等を建てた。
田野学館は、安政元年に建立され高知の致道館と並び土佐の藩校として栄え、清岡道之助、清岡治之助をはじめ中岡慎太郎,新井竹次郎、石田英吉、仙石貢、村木雅美等、数多くの人材を輩出し、中芸高等学校の源流となった。
昭和51年3月20日
撰 清岡清
書 安岡辰雄
中芸有志建之