(まつおか たかやす)
社会をよく知るために統計学は必要です。社会は複雑で、家計や企業などの様々な経済主体からできています。「家計や企業」と一口に言っても、2020年の「国勢調査」によると日本には家計(一般世帯数)が約5,570万世帯、2021年の「経済センサス」によると企業が約368万社あります。これらの膨大な数の家計や企業がどうなっているか、今の状況をどう見ているのか、これからどう動くのか、について調べることで日本の経済の様子が見えてきます。
回答していない調査でうちの様子が分かるのはなぜ?
例えば、家計の様子を分析したいと思ったとき、総務省統計局の「家計調査」が使えます。その調査結果は5,570万世帯の様々な特徴を明らかにするものです。日本にあるすべての世帯の特徴をとらえるための調査ですが、この調査に皆さんは回答したことがあるでしょうか。「はい」と答える人はおそらく少ないと思います。答えたことのない調査で皆さんの家計の様子が分かるというのは不思議に思えませんか?
統計データの調査方法には「全数調査」と「標本調査」の2通りあります。上の例でいうと、「国勢調査」は「全数調査」、「家計調査」は「標本調査」で作られています。「家計調査」で調べられた覚えがないのに、自分の家計を含めた日本のすべての家計の特徴が分析できるとされるのは、それが標本調査の仕組みに基づいているからなのです。統計データの多くは標本調査ですから、標本調査の仕組みを知ることは、自分で統計調査を行ったり、すでにある統計データを使って分析したりする上でも重要です。
昔であれば、データ分析のために大規模な施設が必要で、データに触れるのはごく一部の専門家だけでした。ですが、今では状況が変わっています。企業でも政府でもデータが山のように蓄積され、利用する手段も使いやすくなっています。だれでも工夫次第で意義のあるデータ分析ができます。技術の進歩でデータは加速的に蓄積されていますが、それを分析する側のスキルが追いついてない状況が生まれているように思います。統計学の講義や少人数教育でのデータ分析の実習でこの状況が少しでも改善できればと願っています。
データを使って意義のあることをするには、問題の領域や専門分野で何が意義あることなのかよく知っている必要があります。つまり、データを扱う技術に加えて、問題の場やデータが生まれる背景の知識が大切です。経済学と経営学はデータが生まれてくる背景の知識を教えてくれます。これらの専門知識とデータ分析の知識が組み合わさると、相乗効果が大きくなります。経済・経営の専門知識を深めるためにも、統計データを使って興味深い分析をするためにも、統計学をしっかり学んでください。
計量経済学は統計的手法を使って、経済や経営に関するさまざまな現象を解き明かす学問です。統計学がベースになっていますが、分析に使われる手段(モデル)には経済・経営ならではの特徴が含まれます。
計量経済学の目的は、ある変数がどういった要因で変化するのか、という問題に答えることです。要因となる変数を説明変数といい、それによって結果的に変わる変数のことを被説明変数といいます。ある人が現象Yを説明するためにXという要因を思いつき、XによってYを説明する仮説Aを立てたとします。もしこの仮説Aを検証するために必要な変数XとYが手に入れば、計量経済学の手法を使って仮説Aが成り立つか否かについて答えを出すことができます。
回帰分析の結果、説明変数Xが被説明変数Yに影響しているという結果が得られたとします。普通ならここで仮説Aが成り立つとして分析を終えるのではないかと思います。しかし、計量経済学を学ぶと、いくつかの点で出てきた結論が十分ではないかもしれない、という疑念が出てきます。例えば、使っているモデルが妥当ではないかもしれませんし、X以外の説明変数をモデルに加えると結論が変わるかもしれません。適切にモデルを選択し、適切に要因をコントロールして妥当な分析を行うために計量経済学が必要となるわけです。
ここで計量経済学を使って行った私の研究を紹介します。経済学にはリスクの高い仕事に対し高い賃金が支払われるという仮説があります。しかし、日本では労災リスクの高い産業で賃金が低くなる傾向があると言われてきました。日本の2010年代の労働市場のデータ使って分析した結果、(1)産業間の比較では労災リスクの高い産業で賃金が低くなる傾向、(2)産業内の時点間の比較では労災リスクが高くなるときに賃金が高まる結果が得られる可能性があることが分かりました。
詳しくは以下の論文をご覧ください。
松岡孝恭「労災リスク削減の価値-コーホートパネルデータによる分析-」(経済論叢第195巻第4号、2021年)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/276104
論文を読んでいただくと、データを使って分析を行う際、モデルと説明変数の選択によって仮説の検証結果がかなり変わってくることが分かると思います。分析のモデルに応じて結果が変わることは、社会科学のデータ分析ではよくあることです。これは一見難しいことのように思えますが、前向きにとらえれば、データからの結論には懐疑的になる必要があるということ、それから、新たなモデルとデータの出現によりこれまで得られていた結果が覆される可能性があるということでもあります。新たな知見を得ることに興味をもって取り組める人に計量経済学は向いていると思います。
他の講義については、下記から検索してください。