古文書が決め手になった

10月28日。4年生は社会科で、郷土の開拓や発展に尽くした人たちの学習をしています。教科書では倉橋ため池をつくるために田畑だけでなく資金を提供した堀江和三郎や、白川ため池をつくるために反対する人たちを説得した吉本利平が取り上げられています。
まずは、そういった「ため池が使われている地域が残っているのは、なぜだろう?」と問いかけ、水不足が大きな原因であることを理解させていました。

ところで、わたし(校長)が住んでいる都祁の水は清らかですが、水量はさほど多くありません。ですから、ところどころにため池がつくられています。甲岡池(こおかいけ)もその一つ。かつて沼地であったところに甲岡の人たちが池と水路をつくり、水を溜めるようになりました。

水を巡って、いざこざが起きるのは今も昔も同じ。その昔、この甲岡池の近くにある友田(ともだ)の人たちが水利権を主張したので、甲岡の人たちと争いになりかけたことがありました。それを解決したのは江戸時代の古文書。おそらく200年か300年前のものでしょう。そこには、池をつくるのに尽力した甲岡の北さんが小山戸(おやまと:わたしの住んでいるところです)の北さんから分家するときに「水をもってきた」ということが書かれていて、これが決め手になって争いにならなかった(甲岡の人たちの主張が通った)そうです。
北さんというのは都祁地域一帯の管理を任されていた豪族(都祁の直:つげのあたい)の末裔にあたり、『日本書紀』にも登場します。そうなると、今から1300年も前の話になります。

甲岡池の水利権を巡る逸話は、わたし(校長)の手元にあった資料(昭和47年7月25日の毎日新聞の奈良版「大和の水辺」⑦)からの抜粋・要約。これを放課後、担任にも渡しながら校長室で研修をしました。

次の時間、研修したことや現地に行って見てきたことなどを子どもたちに話すそうです。楽しみです。

登録日: 2021年10月28日 / 更新日: 2021年10月28日