1、茨城郡と茨城郷
では常陸の国の国府、郡家、郡寺そして国分二寺の置かれた茨城郡・郷はどの様なところであったのか。『常陸国風土記』茨城郡の条によれば、茨城郡の位置は「東は香島(かしま)の郡、南は佐我(さが)の流(う)海(み)、西は筑波山、北は那珂の郡なり」東は鹿島郡、南は佐賀の流海、西は筑波山、北は那珂郡である。としている(『常陸国風土記』茨城郡47ページ)。
また郡名の由来については「昔国巣(くず)、俗(くにひと)の語(ことば)に都(つ)知久母(ちくも)、又夜(や)都(つ)賀波岐(かはぎ)と云ふ。山の佐(さ)伯(へき)、野の佐伯在りき。普(あまね)く土窟(つちむろ)を堀置きて、常に穴に居(す)み、人の来る有れば、則(すなは)ち窟(むろ)に入りて竄(かく)り、その人去れば更(また)郊(の)に出でて遊ぶ・・・・・中略・・・・・此の時、大臣(おほのおみ)の族(やから)・黒坂(くろさか)命(のみこと)、出で遊べる時を伺候(うかが)ひて、茨蕀(うばら)を穴の内に施(い)れ、即ち騎(うまのり)の兵(つはもの)を縦(はな)ちて、急(にはか)に遂(お)ひ迫(せ)めしめき。佐(さ)伯(へき)等(ども)、常の如く土窟(つちむろ)に走り帰り、尽(ことごと)に茨蕀に繫(かか)りて衝き害疾(そこな)はれ死に散(あら)けき。故(かれ)、茨蕀を取りて、県(あがた)の名に着(つ)けきといひき。」また別に「黒坂命、此の賊(あた)を規(はか)り滅(ほろぼ)さむとて、茨(うばら)を以ちて城(き)を造りき。所以(このゆゑ)に、地(くに)の名を便(すなは)ち茨城(うばらき)と謂(い)ふといひき。」(『常陸国風土記』茨城郡47ページ) 黒坂命が山の佐伯・野の佐伯を穴に追い込み茨を穴に詰て、痛め傷つけたので死んでしまったとの説と佐伯を滅ぼすため茨の城を造った。それで此の地を茨城と言う、との二説の地名説話が述べられている。 茨城郡には和名抄によると郷は夷針、山前、城上、島田、佐賀、大幡、生園、茨城、玉余、小見、拝師、石間、安餝、白川、安候、大津、立花、田籠の十八郷があげられている。
茨城郡家の近くには信筑川が流れ、蛇行しながら高浜の入江に流れ行く様子を「郡より西南に近く河間(かは)有り。信筑(しづく)の川と謂(い)ふ。源(みなもと)は筑波の山より出で、西より東に流れ、郡の中を経歴(へめぐり)て、高浜(たかはま)の海(うみ)に入る。」と其の景観を『常陸国風土記』は記している。おそらく遠く西北には、一際高く聳える筑波の峰も望むことが出来たであろうと考える。
そして『常陸国風土記』は高浜の流海の様子を「それ此の地(ところ)は、芳菲(はな)の嘉辰(はる)、揺落(もみじ)の凉候(あき)、駕(のりもの)を命(おほ)せて向かひ、舟に乗りて游(あそぶ)」と、春には花が咲き乱れ、野のほとりで鶯の囀りを耳にし、秋には岸辺の紅葉が色づき、鶴の舞う姿を渚で目にする。若者達は浜辺に戯れ、商人は海に舟を浮かべて行き交う・・・省略・・・と人々が浜辺に遊ぶその光景を美しく描き、 「高浜に 来寄する浪の 沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば」と歌っている。
常陸国衙が造営され、国分二寺の置かれた石岡の台地は、関東地方の他の台地と同じように今から約十二万年前、最後の間氷期の海進で、出来た海底面を出発点として形成された台地である。其の後海退、海進を繰り返し現在の台地が形成された。石岡台地の特徴は、標高24・5メートルから30メートルの範囲が広く台地の大部分を占めていて平坦であるとされています。
国分二寺の北北西に石岡台地では唯一の山、龍神山がある。国土地理院製作二万五千分の一の地図に依ると196メートルの等高線が記入されているが、曾ては210メートルを記入された山であった。しかし採石場が出来、悲しいかな年々山頂を低くしている。龍神山は筑波山に連なる山々の東に位置し、各所に巨岩の露出が見られる。中腹には佐志能神社があり、龍神を祀る。龍神山麓、染谷の地には古墳群が並び、縄文時代の遺跡から奈良時代の遺跡に至る多くの遺跡が見られる。龍神山の麓50メートルの等高線には以前から「波付岩」と呼ばれている巨岩があり、別名「波止岩」とも呼ばれる。此の巨岩には昔表面に貝が付着していたと云われている。その周辺には多くの遺跡が存在し、石岡市史によって十二万年前の海進時代、等高線50メートルは波打ち線であり海岸線であったことが分かる。
『常陸国風土記』茨城の条に「郡より西南に近く河間(かは)有り。・・・(中略)・・・郡の中を経歴(へめぐり)て、高浜の海に入る。」とあり霞ヶ浦は当時流海であった。また信太郡の条では「信太(しだ)の郡(こほり)。東は信太の流海(うみ)、南は榎(え)の浦の流海(うみ)」と此処でも霞ヶ浦が入江であったことが伺える。何故なのか、現在の霞ヶ浦からは想像にも及ばない。地球上では奈良時代から平安時代に掛けて平安海進と呼ばれる海進の時期があったことが分かった。水位がどの程度上昇したかは調べても定かではないが、『更級日記』に「〈 京の旅 〉 昔、しもつさの国に、まののてうといふ人住みけり。ひきぬのを千むら、よろづむら織らせ、さらさせけるが家のあととて、深き川を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、川のなかに四つ立てり。人々歌よむを聞きて、心のうちに、【 朽ちもせぬこの川柱のこらずは昔のあとをいかで知らまし 】」と言うくだりがある(『更級日記』285ページ)。『更級日記』では、昔、下総の国に長者が住んでいて布を織らせ、さらしていたという家の跡を船で渡ると、川のなかに昔の門柱がまだ腐らず残って立っていた。此の柱が無かったなら、昔、人が住んでいたという事は分からないであろうと、昔、家が建っていた処が今は川になってしまった海進の光景を記している。
石岡台地は茨城県のほぼ中央に位置して、南東部に霞ヶ浦が水を湛え、西北に筑波の山々が連なる。この「石岡台地」は、筑波の峰から流れる恋瀬川と石岡市北部の龍神山麓から流れる山王川に挟まれ、霞ヶ浦に向かって南東方向に突き出た約7キロメートルに亘る狭く、長く形成された舌状台地をなしている。此のやや上平坦部、標高27・86メートルに国分僧寺跡が、標高25・34メートルの地点に国分尼寺跡が展開する。常陸国衙跡は標高23・31メートルの地点に存在する。
古く古国府、郡家の置かれた茨城郷については『新編常陸国誌』が其の位置を次のように記している。「和名抄云々、茨城按ズルニ、府中ニ茨城ト云フ處アリ、(府中ヨリ高浜ニ出ル間ニアリ)土人呼デ婆良幾ト云フ。相伝ヘテ茨城ノ本郷トス。コレ古ヲ忘レザルナリ(税所蔵天正年中八日記ニモバラキトアリ、サレバ古クヨリ婆良幾ト称セシト見エタリ云々)」(「茨城郷 牟婆良岐」73ページ) 郡家については、郡家は郡名と同名の郷に設置するのが通例であるから、茨城郡家は茨城郷に置かれたと考えられ、茨城郷の中心地は現石岡市茨城の周辺に求めるのが正しい考える。
石岡市茨城の、恋瀬川(信筑川)に向かって突き出た丘陵上の周辺には、縄文・弥生の遺跡も多く、高浜寄りには県下で最大の規模をもつ国指定文化財、舟塚山古墳群も存在する。そして『常陸国風土記』の示す郡家からの景観にもちかい。また此の一帯は古くから古代の瓦類が多量に出土することで知られており、廃寺跡の存在も多い。地名にも茨城を始め、古国府(国衙)、コンデイ坂(健児)、貝地(廨地、公廨)、兵崎(練兵所)、小目代(目代)、フンダテ(古舘)、カンドリ(香取)と官衙に因んだ地名も多く残っている。
茨城小目代に所在する茨城廃寺跡(小目代廃寺とも云われた)は、昭和五十四年より計画的な発掘調査が三回に渡って実施された。其の結果、塔跡、金堂跡、講堂跡が発見され、法隆寺式伽藍配置であったことが明確になった。また出土遺物も多く、瓦類の他に青銅製品や和同開珎、仏像が線刻された平瓦、火舎(香炉)等が出土しているが、この中で重要な出土品は、茨城廃寺が郡寺であることを決定付ける墨書土器の発見である。「茨木寺」、「茨寺」、「東房」、「西房」、「南院」など書かれたものが出土している。
茨城廃寺の近く外城フンダテ、カンドリの地が、現在古国衙跡、郡衙跡として故 豊崎 卓(元茨城大学教授)によって推定されている。そこで『常陸国風土記』を参考にして、国土地理院の二万五千分の一の地図を使用し、検証してみることにした。
『常陸国風土記』の茨城郡の条に「郡(こほり)の東十里に桑原(くわはら)の岳(おか)あり。昔、倭武(やまとたける)の天皇(すめらみこと)、岳の上に停(と)留(どま)りたまひて、御膳(みけつもの)を進(たて)奉(まつ)る時、水部(もひとりべ)をして新(あらた)に清井(ゐ)を掘らしめしに、出泉(いづみ)浄(きよ)く香(かぐは)しくして、飲喫(の)むに尤好(いとよ)かりしかば、勅云(みことのり)したまひしく、〔能(よ)き停水(たづみ)かな〕俗(くにひと)、与(よ)久多(くた)麻礼(まれ)流彌津(るみづ)可奈(かな)と云ふ。とのりたまひき。是に由(よ)りて、里(さと)の名を、今、田余(たまり)と謂(い)ふ。」(49ページ) とある。郡家跡と推定される外城フンダテを国土地理院の地図で位置確認をすると、北緯36度10分53・89秒、東経140度16分37・04秒である。標高は、現在畑に造成した時、幾分削り取られ平らにされたところもあり21・97メートルであった。次に桑原の岳を茨城県小美玉市上玉里の地に推定した。上玉里で比較的標高が高いところに大宮神社があり、近くに「玉ノ井」がある。此の「玉ノ井」は倭武の天皇が掘らせた井戸とされている。大宮神社の標高は、27・79メートル、北緯36度09分48・48秒、東経140度20分09・69秒である。大宮神社は桑原の岳と考えるにふさわしいと見た。茨城の地より高浜を経て桑原の岳へ登る道はやや坂をなし、坂の下道は標高2・5~3・5メートルの高浜の流海(霞ヶ浦)に沿った曾ては波打ち際であったろうと思われる道である。計算をした結果、茨城の外城フンダテから推定桑原の岳迄の距離は5・68キロメートル天平尺に換算して十里を5・4キロメートルとすると、おおよそ郡衙の位置は外城フンダテの地と考えて間違いないと思う。因みに外城フンダテより信筑川までの方位と距離は、計算の結果、方位217・2度、方向西南、距離は707メートルであった。前にも述べた『常陸国風土記』茨城郡の条の「郡より西南に近く川間有り。信筑の川と謂ふ。」から考えても方向、距離的に合っている。
一方国衙について考えてみると、「我姫(あづま)」と称された昔、茨城国は後の那賀郡にまで其の範囲は入り込んでいた。そして後の那賀郡の「茨城の里」に茨城国の政庁は置かれていたのである。しかし此の地が何時頃那賀郡に編入されたか解らないが、編入されたために「茨城の里」に置かれた政庁は移動のやむなきに至り茨城の外城カンドリの地に移転をしたと考えられる。
『常陸国風土記』那賀郡の条に「謂はゆる茨城の郡は、今那賀の郡の西に在り。古者、郡家を置ければ、即ち茨城の郡の内なりき。風俗の諺に、水依り茨城の国と云ふ。」(79ページ) とあり、『和名抄』郡名部にも「茨城 牟波良岐 国府」とあって国衙が置かれていたことが知られる。また『新編常陸国誌』には「茨城、那賀二郡ニ茨城郷アル由ヲ知ルベシ、其ノ故ハ此ニ茨城ハ古茨城郡郡家ニテ、今ハ那賀ニ入リ、其ノ西辺ニアルト云フナリ。是後国府ヲ置キシ茨城郡ハ此ノ頃已ニ那賀郡ニ入タル地ノ名ヲ移セシナリ」(73ページ) とある。続いて高浜の海の条でも「高浜ノ海ハ、即高浜以南ノ内海ヲ云フ、コノ辺ハ国府ノ傍ナレバ、古昔ハ盛ナリシ所ト見エタリ。土人呼デ婆良幾ト云フ」と政庁が已に茨城に移った事を知る。
其の後、律令政治の発展に伴い奈良時代中期以降になると、常陸国の国衙は、現在の石岡市小学校に新国衙として造営され、当然ながら国府も茨城の地より石岡市の中心へと移ることになった。
常陸国の新国衙については平成十三年から平成十八年の六カ年を掛けた調査によって千三百年前の其の姿を見せた。発掘調査の結果は、Ⅲ期の造営が確認され、第Ⅰ・Ⅱ期造営は掘立柱建物で、規模・構造ともに同一であった。第Ⅲ期は瓦葺きの礎石建物が検出された。
外城カンドリの古国衙と石岡の中心よりやや西方に造営された新国衙とはそれぞれ異なる空間に位置する。是等二つの国衙の造営とその位置は、新たな国家形成における駅路の整備と東北における蝦夷征討との関わりに因るものと考えられる。
玉乃井之跡 玉乃井之跡
大宮神社 大宮神社
国分尼寺中門跡から金堂跡を望む 国分尼寺講堂跡
現国分寺薬師堂(国分寺金堂跡) 常陸国衙・発掘調査 (現・石岡小学校校庭)