常陸国風土記・総記

「常陸国風土記」は堂本一成・前島寿子が主宰するサイト同好会です。

 今回此処に『常陸国風土記』を取り上げたのは、平成22年度「ふるさと探勝会」の企画として、藤原宇合の編纂とされる古代常陸国の国ぶりを書いた『常陸国風土記』を通してこの中に収められた古代常陸国の九つの郡をシリーズ的に歩き、古代の景観、伝説、そしてそこに生きた人々の風俗習慣、環境などを読み取り学び、古代の常陸国に対する知識を少しでも多く得ることを目的として始まったものです。(前島寿子)
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(常陸国の起こり)

「常陸の国の司(つかさ)、解()す。古老(ふるおきな)の相伝ふる旧聞(ふること)を申す事。」国司の報告。古老の語り伝えてきた、古い言い伝えによる事。

  常陸国の地は、古老の伝えとして、昔は相模足柄の坂から東にある国はすべて「我姫(あづま)の国」と呼び、その内は新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂と称して、それぞれに国造を派遣して治めさせていた。其の後、「我姫(あづま)の国」を八つの国に分けて、其の一つが常陸国となったという。

 常陸国の国名由来には諸説有り、「往来(ゆきき)の道路(みち)、江海(かはうみ)の津済(わたり)を隔(へだ)てず、郷郡(くにこほり)の境界(さかひ)、山河(やまかは)の峰谷(をたに)に相続ければ、直通(ひたみち)の義(こころ)を取りて、名と為()せり。」また別には「倭武(やまとたける)の天(すめら)(みこと)、東の夷(えみし)の国を巡()()りて、新治の県に幸遇(いでま)ししに、国造・(ひな)良珠(らすの)(みこと)を遣わして、新たに井を掘らしむるに、流泉(いづみ)(きよ)く澄み、尤(いと)好愛(うるは)しかりき。時に、乗()輿(こし)を停(とど)めて、水を翫()で、手(みて)を洗ひたまひしに、御衣(みけし)の袖、泉に垂()りて沾()ぢぬ。便(すなは)ち、袖を漬(ひた)す義(こころ)に依りて、此の国の名と為()せり。風俗(くにぶり)の諺に、筑波岳(つくはね)に黒雲掛り、衣袖漬(ころもでひたち)の国と云ふは是(これ)なり。」と記されている。即ち陸路を以て往来が出来る「直道」の意味と、もう一説は倭武天皇の故事、天皇が手をお洗いになったところ袖が泉にぬれてしまったので「漬す」をとって常陸国の名の由来としている。では、その常陸国はどの様な国振りであったのだろうか。『常陸国風土記』では「それ常陸(ひたち)の国は、堺(さかい)は是れ広()()く、地(くに)も亦(また)緬邈(はろか)にして、土壌(つち)沃墳(うる)ひ、原野(はら)肥衍(こえ)たり。墾()()きたる処(ところ)、山海の利(さち)ありて、人々自得(ゆたか)に、家々足饒(にぎは)へり。設()し、身を耕耘(たつく)るわざに労(いたつ)き、力を紡蚕(いとつむ)ぐわざに竭(つく)す者あらば、立即(たちどころ)に富()()を取るべく、自然(おのづから)に貧窮(まづしさ)を免 (まぬか)るべし。況(いはむ)や復(また)、塩と魚の味(あじはひ)を求めむには、左は山にして右は海なり。桑を植ゑ、麻を種()かむには、後(しりへ)は野にして前は原なり。いはゆる水陸(うみくが)の府臓(ふぞう)、物産の膏腴(かうゆ)といへるものなり。古(いにしえ)の人、常世(とこよ)の国といへるは、蓋(けだ)し疑ふらくは此の地(くに)ならむか。但(ただ)、有るところの水田(こなた)、上(かみ)は少く、中の多きを以ちて、年に霖雨(ながあめ)に遇はば、即(すなは)ち苗子(なへ)の登(みの)らざる歎を聞き、歳(とし)に亢陽(ひでり)に逢はば、唯穀実(みのり)の豊稔(ゆたか)なる歓(よろこび)を見む。」常陸の国は、土地は広大で耕地はよ よりく肥えており、山海の幸に恵まれ、家々は豊かでにぎわい、あたかも楽園のようである。昔の人が「常世の国」と呼んだ神仙境は、よもや此の地のことではなかろうか。と『常陸国風土記(総記)37ページ)は記している。(前島寿子)