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4-1 【鑑真】

 
鑑真(がんじん)
 
【1.鑑真の人気の秘密】
 
鑑真は何故人気がある僧なのでしょう。ある新聞社が昨今の「仏教ブーム」もあり、名僧の中で誰が好きかアンケートをとりました。
結果は次のようになりました。
 
1.空海 2.鑑真 3.親鸞 4.一休 5.西行 6.法然 7.良寛  8.最澄 9.日蓮 10.雪舟 11.行基 12.道元
 
私は2位が鑑真となっていたことに少し驚きました。それならばきっと鑑真に関する書籍も多いだろうと国立国会図書館の蔵書や都内でも大きな書店を覗きました。
しかし人気の鑑真に関する書籍は他の僧侶に比べ余りにも少ないのです。
暫く考えましたが、私なりに理解し納得しました。鑑真は鑑真としての仏教を特別持っている人では無い。
むしろ僧として実践者で、その生き方に共感した人が多い為に、学者より一般人に魅かれる処をもった人なのだと考えました。
鑑真は中国の僧侶です。日本にきて正しく仏教を広めた人です。奈良の「唐招提寺」を建立した人です。鑑真自身が己の仏教感や説いたものがあるわけでなく、
教典研究があるわけでなく、有名な言葉が残っているわけでもありません。仏教研究者の立場としては研究する予知が無い僧侶だった為に研究書籍が少ないのだと思いました。
しかし、反対にその人生は誰でも真似のできるものでは無く、作家には魅力ある僧侶でした。井上靖の有名な小説「天平の甍」は鑑真の話です。
映画(鑑真・田村高弘)にもなりました。
後世、鑑真のことは当時の中国の文豪、淡海三船の書かれた「東征伝」が有名ですが。鑑真の第一研究者である安藤更生氏の本を中心にしてこの話を進めていきます。
 
【2.当時の日本仏教の実態】
 
空海が「唐」から日本に帰って来る50年程前のことです。753年「唐」の高僧「鑑真」は海を渡り当時66才で日本にやってきました。
現在のサラリーマンだったら孫の顔を見ながら余生楽しく暮らしていこうという年代です。ましてこの時代だったらとっくに現役を退いてもおかしくない年齢です。
何故鑑真は日本に来たのでしょう。日本の「仏教」はどういう時代だったのでしょう。
仏教の伝来は538年です。その後大化の改新あと、日本は仏教行政改革も進めていたのです。
もともと仏教は「文化」や「体制の統一」の為に中国から受入れ、上から下にもたらしたものでした。そこには「仏教」が何たるものか寺院も含め正しい理解と実践がありませんでした。
その為に鑑真がくる迄の約100年程の間仏教は大きく乱れていたのです。「僧」「尼」に対して政府からの税が免除されており、楽な職業と見えたのです。
100年の間に経を読めない農民や、でたらめな思惑で僧になった者が寺に出入りし、乱れていました。そして彼等は怪しげな説を唱えては人々を惑わして生活をしていました。
勿論政府もこれを問題として。自由に出家できないよう資格制度を作ったりしますが僧も含め不正は無くなりませんでした。僧侶の数は増加の一方で政府の税収入は減っていきました。
そして政府はこれ迄の法令規制よりも、釈迦の戒律としての制限が必要だ考えるにいたるのです。
「東大寺要録」によると元興寺の隆尊の案であったとされています。その為に「唐」から正式な戒律を伝えてくれる何人かの僧を受け入れることを考えました。
 
【3.鑑真と二人の留学僧】
 
そして日本の留学僧「普照」「栄叡」が正しい仏教を勉強した僧達を迎える為に「唐」に渡ることになりました。二人は遣唐使の一行となり中国に渡ります。
しかし適任者はおいそれと見つかりません。いても断られます。10年の時が経ちやっと揚州の大明寺で「鑑真和上」とであうことができるのです。
鑑真は688年中国「唐」の揚州の江都で生まれました。父は仏教信者で禅を学んでいました。鑑真は14才で出家します。当時、江都は運河も開発された一流地方都市です。
その為交通の盛んな交易都市となり、日本人も含む外国人が住む国際都市でもありました。ここが鑑真に国を超えた考えを持つ素地を与えたとしてもおかしくないと思います。

鑑真は20才の時に長安・洛陽に7年程留学します。ここも国際色豊かです。しかし時代は則天武后から韋后の暗黒政治があり、
712年に玄宗皇帝がクーデターを起こし権力を取るという目まぐるしい時代でした。留学後、鑑真は一旦故郷に戻り、多くの寺で戒律の講座を行います。
彼が受戒した人は4万人と云われます。これがやがて鑑真を誰もが認める大師させたのです。
 (受戒=仏弟子となるためには必ず道徳の基準となる戒め250項目を聞いて守ることを約束する。)
 

「普照」「栄叡」が「鑑真」にであった揚州の大明寺は1500年の歴史のあるお寺でやはり「鑑真」が戒律の講座を開いていたお寺です。
現在は中には鑑真記念館と塔があります。また上記唐招提寺の像と同じ鑑真和尚の像が安置されています。
742年、前述の日本の留学僧二人が紹介された大明寺の門前に立ち、鑑真との面会を許されるのです。
この時鑑真は「授戒の大師」と仰がれ「律僧」の第一人者であり、その弟子の僧侶は1000人と云われていました。しかしこの時年齢はすでに55才となっていました。
「普照」と「栄叡」は日本のありさまを話し「どうか大師様のお弟子様に日本にきて頂けないか」とお願いをします。
早速、「鑑真」は重要な弟子達を集め日本からの依頼について話をしました。しかし、弟子達は下を向いて黙ったままでした。暫くして1人の僧が海を渡るのを危険と困難を口にします。
しばらく沈黙があって鑑真は静かに口を開きました。
「これ法の為ならば、何ぞ身命を惜しまん。諸人ゆかずんば我則ちゆかんのみ」
老人の鑑真はそれでは私1人で海を渡るといったのです。弟子達は驚き、心が揺すられ21人の弟子が同行を申し出る結果となったのです。
「普照」と「栄叡」は驚き涙を流したことでしょう。
 
【4.鑑真の困難な旅】
 
当時「唐」では、国の重要人物に対して外国に行くことを禁じていました。この為、鑑真の渡航はもとより、仕度についても秘密裏に行う必要がありました。
最初の渡航の造船は揚州から外れた寺に分宿し作られました。日本への献上物や経典、仏具も用意しました。ところが弟子間のもめ事から密告者がでて官憲に暴露してしまいます。
船も何もかも没収され計画はダメになるのです。「普照」と「栄叡」も官憲に捕まり4カ月程拘留されました。
しかし二人はくじけず再度鑑真和上に請います。鑑真も自ら軍用船を一隻買い、再び準備をします。
この二回目の計画は弟子、造仏、画工、大工、刺繍工、など185人にのぼる同行者の大計画でした。
二回目の渡航は海賊や政府の船に捕まらないと考えて一度大板山にでて一路東に進むこととしました。しかし大板山までくると岩壁で船を着けることができないのが判明します。
天は味方となってはくれませんでした。季節風に吹きまくられ大板山をでて間も無く船は岩礁に乗り上げ難破してしまうのです。
翌年三回目四回目はまた密告者が出て不成功に終わります。その理由のひとつに弟子や地元民が、鑑真を中国から離したく無い気持ちから、官憲に計画を告げたとも云われています。

第1回 743年 密告者のため出航できず  失敗
第2回 743年 桑子山付近で暗礁に乗上げ 失敗
第3回 744年 密告者のため出航できず  失敗
第4回 744年 密告者のため出航できず  失敗
第5回 748年 東シナ海季節風にて漂流  失敗
第6回 753年 遣唐使船にて日本鹿児島秋目に上陸
 
三年後。鑑真は61才となります。「普照」と「栄叡」は揚州の崇福寺にいる鑑真和上を訪れ、また日本への渡航をお願いします。鑑真は二人の熱情に改めて方策を検討します。
五回目は、より信頼のおける僧侶14人、漕ぎ手18人、その他3人で出航しました。しかし今度も出航しますが季節風が襲い掛かりました。
風向きの変更を待つ為に小さな島で1カ月待つこともありました。やっと東シナ海まで出たものの船は14日間吹き流され船には真水が無くなってしまうのです。食べ物も生米を噛んでいる状態でした。
アホウドリの群れが襲ってくることもありました。飢えと渇きの地獄の内に海南島に打ち上げられます。

天の助けか幸い海南島にいた豪族に助けられ、鑑真は中国本土に戻ることができたのです。その後、鑑真は桂林を経てやがて揚州に戻ることができます。
但し、日本の僧「栄叡」は中国に戻る途中に病となり、志をとげることができないまま亡くなり、「普照」は鑑真和上と別れて明州の阿育王寺に行くことになります。
「普照」は日本に帰ることは許されていない留学僧です。また再度の鑑真を誘った罪は重く官憲が待っており、揚州に戻ることもできない立場でした。
掲載している絵は淡海三船著「東征伝」を基に後世描かれた「東征伝絵巻」の一部です。
鑑真は63才になっていました。老齢と漂流の為視力を失って行きました。アラビア人の医者が目の手術をしますが、白内障のようで良くはなりませんでした。
鑑真は再び戒律の講座の仕事に戻りました。
 
5.6回目の渡航のできごと】
 
第六回目の渡航計画はこれまでとは全てが違っていました。まず日本の第12回目の「藤原清河」を大使「大友古麻呂」を副大使とした遣唐使が中国に着いたことが発端です。
この遣唐使は東大寺の舎那仏用の金を買ってくることが使命でした。また帰りには中国にいた「阿倍仲麻呂」を乗せて帰る予定です。
この遣唐使一行着いた情報を明州の阿育王寺の「普照」が得ます。(この点は安藤更生氏の意見ですが)
「普照」は「藤原清河」にこれまでの鑑真和上の大変だったことを話し日本への渡航を要請します。
聞いたは「藤原清河」感激し「唐」に要望を出しますが、「唐」は「鑑真」でなく「 道教僧」を乗せて欲しいといい。意見が違い話は物別れとなります。
日本側は「鑑真」を遣唐使船で密かに連れて行くことを計画します。「鑑真」は了承します。渡航日まで4日ほどですが恐らく「普照」からの連絡はもっと前にあり用意はできていたと思います。
しかし出航前にちょっとした出来事がありました。大使「藤原清河」が鑑真と弟子たち24人を強制的に船から降ろしてしまうのです。
海上で「唐」の捜索船に大勢の僧侶が見つかりやすい危険があり、万一の場合「国」と「国」問題に発生し、自分に責任が係ることを恐れたのです。いかにも官僚の魂胆です。
しかし副大使の「大友古麻呂」は正義感のある人で一旦降りた鑑真と弟子たち24人を密かに「藤原清河」が乗らない第二船に乗せてしまうのです。
遣唐使一行の船に乗って揚州を出発します。もちろん鑑真が乗り込んでいることは公ではありません。この一行は四隻の船でした。
第一船には「藤原清河」と「阿倍仲麻呂」他第二船は「鑑真」と弟子達他、第三船には「普照」他、第四船にはその他の人や贈りものを乗船し一行は沖縄に着きます。
その後奄美大島に行くのですが、第一船だけは行方が解からず奄美大島には着くことはありませんでした。その後三つの船は日本の鹿児島県秋目の港に上陸ができたのです。
計画から12年目にして鑑真は日本の地に入りました。これまで六回の渡航で36人が亡くなり、200人程が脱落しました。
 
ここでわからないことがあります。最初と最後の渡航費用は基本的に日本側が負担していたでしょうが、
残り四回の莫大なこれらの渡航費用は何処から用意できたのかということです。違反の渡航ですから政府が出すことはありません。鑑真もこんな金は持っていません。
推理歴史作家の陳舜臣氏はこういっています。鑑真は華僑の元祖のように思える。持参に用意したものの中には「王羲之の書」などあり玄宗皇帝が欲かったものまで入っいる。
計算できない程のお金がなくてはできない。従ってスポンサーがいたに違いない。鑑真は有名な人物であり揚州の商人達は将来の日本市場も考慮に入れて協力したと思う。といいます。
私も氏の発想に賛成しています。
 
【6.日本は鑑真をどう見たか】
 
754年2月4日鑑真66才。鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着します。行く先々で熱烈な歓迎も受けました。
鑑真和上が「唐」から持参してきたものは、天台大師著の「小止観」や美術品、経典、医薬等々がありました。
当時日本仏教界の大物の「良弁」が目の悪い鑑真を奈良東大寺の大仏を案内した時です。良弁は「唐でもこんな大きな仏像は無いでしょう」といいます。
鑑真は普通の口調で「さらに無し」(さらさらこのようなものは中国に無い)と云いました。
そこに仏教はそのように大きなものを作ることに意義があるのではない。という意味もあったと云います。
 
その4月「鑑真」は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行ないます。
755年鑑真67才。常設の授戒施設(僧侶となる儀式場所)を東大寺戒壇院を建立します(画像は現在の戒壇院)。
戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めたのです。
これで誰でもかってに僧侶になることはできなくなりました。税を免除できていた乱れた仏教界の風紀は劇的に改善され、僧侶の規律ある生活と修行がはじまったのでした。
(受戒項目=例えば 人を殺してはいけない。盗んではいけない等々。加えて僧侶には酒を飲んではいけない、結婚してはいけない等々)
 
756年「鑑真」と「良弁」はともに大僧都(仏教の総括者)に任じられます。良弁はその後760年に仏教界の粛正のために、慈訓、法進の僧階を改めるよう奏上します。
しかし鑑真の努力のかいも束の間のことでした。細かな規律のことを不都合として、仏教界内部は動いていました。
次第に戒律もうわべだけ守った形となり、次第に鑑真は実質的な地位から見かけの地位に追いやられて行きます。鑑真はうるさがれたのでしょう。
僧侶が増えなくなり、身入りの少なくなった仏教界から邪魔者扱いされた感じです。
鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではありません。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりでした。
その為に鑑真は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた日本仏教に失望感が生まれた思います。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知ったと思います。
あの命をかけた渡航や「栄叡」の死は何だったのか。既に70才。海を渡って唐に戻る体力はありませんでした。
日本は形だけのひどい国です。仏教はまた乱れて行くのでした。
 
ところでその後「普照」は東大寺に入りました。また街道旅をする人が空腹になることが無いように果樹を植えることを上奏しました。
(唐で鑑真を見つける迄の旅の苦労があったのでしょう)
 
【7.奈良・唐招提寺】
759年、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれます。鑑真は私寺となる「唐招提寺」を開き戒壇を造りました。「招提」は[自由に修行する僧侶]という意味だそうです。
この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされませんでしたが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来ました。
さらに鑑真は悲田院(福祉施設)を設立し、鑑真は一人身の老人や孤児を世話するなど、貧民の救済に取り組みました。
 
鑑真の像は御影堂に収められています。この像には言い伝えがあり、ある日鑑真の弟子の忍基がある日、寺の講堂の梁が折れる夢を見ました。
これは体の衰えた鑑真和上の死の予兆ではないかと、忍基達は和上の肖像の作成にとりかかったのです。鑑真はその二カ月後この世を去りました。そして像だけが残りました。
763年、76才でした。
この像は現在一年に一度しか公開されていません。像としいも古いものであり、破損を進めない為にです。しかしファンにとってはどうしても見たい像である為。
唐招提寺は鑑真没後1250年を記念して、まったく同じレプリカを今年完成させました。木造で色彩も当時の色を再現しています。
本年(2013)6月7日に一般公開されるそうです。これからはいつでも見られるのではないでしょうか。
老齢の鑑真が危険を冒してまで日本仏教を救おうとした何故なのかその鑑真の心に応えられなかった日本は何が問題だったのか
その後名僧の最澄は鑑真がもたらした天台教学で研鑽を深め、後に比叡山に法華経の戒壇建立をします。
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