・言葉は実物の代替物としての機能も持っている。「このリンゴはまずい」という言葉は、実際にそのリンゴを食べてまずいということを発見しなくても、食べたのと同じような反応(すなわち、もう食べない等)を引き起こす。 ・(実物のライオンと、「ライオン!」という警告の言葉の関係と同様である。) ------------------------------- ・台風を事物として捉えようとすると、どこまでが台風なのかというような問題が出てきてしまうが、実は台風というのは事象について名づけたものなのである。まさに大風=台風だったのである。 ・匂いも、事物の性質と考えるより、空間における事象と捉えるほうが適当ではないか。 ・事象を事物の言葉で語ろうとするのが科学の方法なのではないか。 ・事物とは実は、事象を束ねるための方法(言葉?)なのではないか。例えば一人の人間というものも様々な事象の集合として捉えることができる。(集合以上のものではない?) 記憶、経験、行った全てのこと、体内で起きているあらゆること、細胞の行っている全てのこと、それを一つの塊として捉えるために一人の個人と言うのを想定、設定しているのではないか。 ------------------------------- ・自分の空腹は一つの事象として知覚されるが、その感覚された事象は、腹という事物が空であることに起因するという、事物的説明(事物に即した言葉による説明)が可能であることを人は知るようになる。このような例が積み重なるに従い、人は、事象は事物に即した言葉で語れるものであると考えるようになったのではないか。これは、科学への大きな一歩である。 ・そこから、例えば、悲しいというような事象についても、事物に即した言葉で語れるはずという発想が生まれ、感情に関する認知科学やら生理学やらが研究されることになるわけだが、果たしてそれは、科学と呼べることなのだろうか。 ・事象をどのように事物に即して語るかは、科学の方法論として極めて重要である。一方で、どこまで事物に即して語ることができるのか、語り得ないものもあるのではないか、ということは、哲学の重要なテーマである。 ・空腹も悲しみも、自らの状態として直接的に感じ取られるが、空腹は対応する事物の世界のできごとが自分の内部に比較的容易に見いだされるのに対して、悲しみの方はそうではない。 ・一方で、人間の気質を胆汁質等に分類しようとした試みもある。何とか事物で説明しようとする意思の現われと言える。 ・事象の原因を具体的な事物、存在物に求めるという点では、神話や宗教も科学と共通点を持っている。風の原因を風神に求め雷の原因を雷神に求めることは、科学的な態度と極端に隔たっているわけではない。古代西洋において海の神や空の神を想定したことも然り。 ・光同様に、闇を一つの事物/実体と捉えることも可能なのではないか。かつて、世界を光と闇の闘争という、象徴的な捉え方がされたのも、闇を実体と見たからであろう。 ・光という言葉は、「光っている」、「輝いている」、「(世の中が)明るい」等、事象について述べた言葉から発生したと考えられる。その事象の原因として「光」という、何か物象的なもの、事物的なものが考えられるに到ったわけだが、その前には、光を司る神というようなものも考えられたわけで、それは闇を司る神の対立概念である。 ------------------------------ ・外気が涼しいと感じることと、自分の体温、皮膚の表面の温度が低いと感じることは別の感覚として受けとめられる。外気の温度は、自分の身体が動くか、外気が自分の身体に対して動くこと(風)、いずれにしても、相対的に空気が自分に対して動くことによって感じられる面があるのではないか。空気の動きが全くない密室で自分の身体を全く動かさずにいたとしたら、外気の温度なのか自分の体温なのかの判別は、多少なりとも難しくなるのではないか。 ・この感覚は、皮膚に無数の毛がはえていることや、温点が無数にあって、ある高さの温度を認識する温点が順次移動していくことを脳がとらえる仕組みによって実現しているのではないか。 ・視覚像については、事物が自分に対して相対的に動いて初めて外の事物として認知されるのだというのは有力説である。外の事物が静止しているときにも、眼球は細かく動きを常に続けておりそれによって事物が知覚されるのだという。眼球を完全に固定してしまうと見えなくなってしまうらしい。 ----------------------------- 造物主がいたとすると、その世界の設計・製作には2通りのやり方があるのではないか。永遠に続く理想的な世界というものを描きそれを作る方法と、世界を変化していくものとして変化のルールのみ作る方法の2つである。前者はstatic、後者はdinamic。現在の世界がこのまま永続すべき理想的なものとして描かれたとはとても思えないから、造物主は、変化のルールのみ定めたと考えるべきであろう。 ----------------------------- ・一本の樹木と、一曲のシンフォニーに、構造の類似性を見いだすことも可能だろう。 |