・哲学は、世界を把握しようとする営為の一つであり、特にその方法を吟味しようとするものである。 ・言語は、世界を把握するための一つの方法である。 ・言語は、世界の中で対象を定め、その対象について表現し、また、対象同士の関係について表現する。 ・・ここに対象とは、世界の中の事物、事象である。 ・言語は、固定し安定させた相のもとに、世界を類型化して把握しようとするものである。 ・科学は、日常言語の限界を押し広げた上で、世界を把握しようとする言わば「拡大言語」である。 ・科学が言語の拡大である限り、科学も言語の限界を完全には免れ得ない。 ・世界について、言語、拡大言語では把握し得ないことがある。「対象」、「関係」という捉え方そのものにも限界があるのではないか。非言語的世界把握の可能性が検討されねばならない。 ・「対象」と「関係」の表現こそ、言語機能の中心に位置するものである。 ・一方で、世界を「対象」と「関係」によって表現しようとするところに、世界と言語で表現されたものの乖離が始まるのではないか。 ・言語は、人が生きることに役立つものとして生まれ、発展したものである。 ・今置かれている状況にどう対応することが生きる上で最も適切か、そのことを知らせることが、言語の大きな役割であった。 ・そのための一つの方法が、名前をつけることである。これは、名前を付ける対象を定めることから始まる。 ・色やにおいの形容の多くが、物の名前を借用してなされていることは、人が、色やにおいによって、対象とするものが「何であるか」を知ることを重視していたことの現れである。 ・しかしこれらのことは、言語が初めから対象を明示していたということを意味しない。動物の仲間に向けての発声は、対象が何であれ該当するような警告音として、まずは発せられたと考えられる。それは、「何かが近づいてくるぞ」という状況の記述と、「逃げろ」とか「身構えろ」といった指示とが、未分化のまま発せられていると考えられる。 ・その警告は、近づいてくる動物が何であるかによって、声の高さや大きさが異なったかもしれない。大きな動物であったり、近づいてくる速度が速かったりするとき、警告は、より高い声、より大きな声になるだろう。従って、仲間の動物は、警告の発声から、何が近づいてくるか、どんな速さで近づいてくるかなどを、ある程度推量可能である。 ・人間の乳児の泣き声で、眠いのかお腹がすいたのかオムツが濡れているのかを母親が聞き分けることと、同じ原理である。その場合、ある調子の泣き声は、「眠い」という言葉と機能的には近いといっていい。泣き声は、言葉の領域に入りつつある声であると言える。 ・警告は、音声のみでなされるのではなく、多くの場合身振り等を伴うものであることに注意が必要である。樹上のサルを想像せよ。 ・警告は、意図して行われるとは限らない。状況に対する一匹の動物の反射的反応が、他の動物にとっては警告となる場合も多いだろう。 ・状況に対する反射的反応から、意図的な警告音声の発声へ。そしてそこから、対象を名指す言葉の発声へ。これが言語の発生の一過程と考えてもおかしくないだろう。 ・対象を名指すことは、対象を意識において捉える、対象を自分の意識において浮かびあがらせることを前提とする。わけの分からない恐怖感だけを感じているのではなく、近づいてくるものを一つの対象として捉えた時に初めて、対象を名指すことが可能になる。 ・言語とは、まず、意識における対象の把握(生成?)である。 ・対象化(と仮に呼ぼう)は、人類がなしとげた巨大な成果である。一方で、対象化のみに偏ることにより、失うものも出てくる。 ・状況に対する反射的反応としての発声に含まれていた情緒的と呼ぶべきものが、対象をとらえ名指すことのみでは失われていく。 ・樹上にセンサーを置き、近づいてくる対象を判別して警告音声を出させることは技術的に可能である。いかにもコンピュータ的な音で「ライオン」と発声させるなど。しかし、その機械的な音は、聴く者に強い警戒心を抱かせない。そこで、コンピュータ音声を様々に加工していく。それは、情緒を取り戻す過程といえる。 ・(マリア・カラスの魅力は、彼女の声に含まれるこの情緒にあるのだろう。ただし、それは、反射的反応としての声と同一ではなく、意識的にコントロールされたものである。) ・警告の言葉(例えば、「ライオン!」)は、元来、その言葉が発せられる状況をそこにいた皆が共有している中で用いられる言葉である。言葉の使用が広がる に従い、状況を共有していない中でも、言葉は発せられるようになる。一部の者が置かれている状況の中で発せられた言葉が、時をおき空間をを隔てて他の者に 伝えられる、というようなことが生じてくる(例えば、遭難船からのSOS信号)。 ・このような言語使用の拡大により、ある言葉が何を指しているか ということについての理解にも、人によっての違いが生じてくる。例えば、目の前の物を指して「こんなに大きい」と言えばその大きさは皆に共有されるが、時 空を隔てての「こんなに大きい」はどの程度なのか分からない。 ・言葉の指し示すものを、時空を隔てても共有できるようにしようという方向で、言語は進化してきたと言える。例えば、長さや重さの単位を定めるなど。これは、科学への一歩でもある。 ---------------------------------------------- ・何を対象とするかには、色々な観点がある。日常言語は、主としてわれわれが日常生活で出会う事物、事象を対象とする。宇宙物理学の対象は主として天体サイズの事物、事象である。素粒子物理学の対象は素粒子サイズの事物、事象である。 ・原子を対象として、世界を把握、記述可能と、かつて考えられたことがある。宇宙の全体をあまねくカバーする空間、時間の座標を設定し、全ての座標値についてどんな原子があるかを記述すれば、それが世界全体の記述である、と。空間を3次元x,y,z、時間を1次元tとすれば、世界は座標(x,y,z,t)にある原子Aの総体である。世界=ΣAn(xn,yn,zn,tn) ・しかし、われわれは、このような世界の記述を仮に得ることができたとしても、それで満足はしない。この世界表現には「なぜ」に対する答がない、というのが大きな理由の一つである。なぜ、に対する答がない世界把握は、未来に向けて生きる我々にとってあまり有用ではない。「なぜ」に対し答えようとするとき、我々は、個々の対象だけではなく、複数の対象間の「関係」に着目する。 ・ある原子の運動を、他の原子の運動と関係づけてとらえて初めて、われわれには、それが世界把握にまがりなりにも迫ったと見える。t1からt2に移る際に、空でない(原子のある)座標の一つが(xn1,yn1,zn1)から近傍の(xn2,yn2,zn2)に変わったとするとき、われわれはそれを時間にともなう原子の移動と見ることをする。その原子aの移動を、原子bの衝突等から説明しようとするのが原子物理学である。(もちろんそこでは、衝突等についても定義がなされる。) ・対象とする事物、事象のサイズによって、世界は様々なレベルで把握され記述される。あるレベルでの世界把握、記述は、他のレベルの世界把握、表現を説明することができない。たとえば、素粒子レベルでの世界記述は、分子レベルでの世界把握をもたらさない。宇宙の全ての陽子、中性子、中間子等の位置を、時間軸にそって、空間座標によって記述できたとしても、それは、t1において塩素分子とナトリウム分子だったものがt2において塩化ナトリウム分子となったこと等々を記述していない。 ・塩素分子という概念は、素粒子レベルでの世界記述には存在しない。人の顔のデジタル写真を構成するドットの位置と色をいくら記述しても、その記述は人の顔であることを意味することがないのと同様である。 ・・(ある円を構成する点の座標を全て記述できたとしても、それはそれらの点が中心から一定の距離にある点の集合であることを直ちには意味していないこととの類似性について、考察必要。) ・・(そもそも、われわれが初めて円、というより「丸」という形を判別できるようになったとき、われわれは、その図形上の全ての点が中心から同距離にあることを認識しているわけではない。我々は丸を線の集合として把握しているのではなく、一つの形として捉えている。部分の集合としてではなく、一気に全体を捉えている。(部分と全体という関係すら意識されていないのだから、全体という用語は不適切かもしれない。)丸かそうでないかは、見て分かっている。そして、丸について、数学的な円としての特性を後に学ぶのである。) ・・・(円を点の集合として捉えようとすると、その点は無限にある。無限にあるものを列挙することは不可能である。一方で、特定の円上の全ての点が解となる方程式は、1個の式として記述できる。方程式は、われわれが部分からでなく一気に全体(「全体」という表現については、前述理由により留保)を把握している際にその全体を表現する有効な方法の一つである。) ・・(普遍的な座標上の点の集合として対象を捉えることに、そもそも限界があるのではないか。) ・・(量子が粒子でもあり波動でもあるということ(あるいは、そういう見方が成立するということ)は、おそらく、世界把握の本質に深く関わったことなのだ。) ・・(顔の把握も、円同様、部分の集合としてではなく、初めから顔を一つのものとして(全体として?)捉えているわけである。 ・同様に生物の細胞についての記述を可能な限り行っても、ある種の動物のオスとメスの生殖により子が誕生することの記述にはならない。 ・(AIが長期間深刻な行き詰まりを経験したのは、この、対象の捉え方において、人と同じことをコンピュータにさせることに大きな困難があったからにほかならない。) ・(そうではあるが、われわれは、あるレベルでの事象について一つ下位レベルによる記述と関係づけがうまくいくと、上位レベルにおける事象の理解が進んだと感じる。) ・あるレベルにおける個々の対象を群としてとらえることが、根本的に重要である。 ・いや、実はわれわれの世界把握においては、上位レベルの対象は下位レベルの対象の群として捉えられているわけではない。生物の個体はまず個体として捉えられているのであり、器官の群、細胞の群として捉えられているわけではない。円は、一つの図形として捉えられているのであり、点の集合として捉えられているのではない。 ・ある原子の群れを、一つの生命体として捉えたとする。しかし、その生命体を構成する原子は実は常に少しずつ入れ替わっており、一定の時間の後には、全て別の原子に置き換わっているのである。それでもわれわれは、その生命体を、以前の生命体と同一のもの、少なくとも連続したものと捉えている。 ・結局われわれは、特定された原子の群を生命体という対象と捉えているのではないということになる。もしそうしようとすると、特定された原子一つ一つは宇宙のあちこちに散らばってしまうから、生命体は消えてしまうことになる。 ・(質料と形相)(行く川の流れ) ・WINDOWSやANDROIDのようなOSを、一つの対象と見ることもできる。それらは、一つの記号体系ないし関連づけられた多数の文の総体として、特定することが一応可能である(Linuxになると、ある時点におけるLinuxが何であるかを特定することは困難なのかもしれない)。操作できることも、対象としての一つの特徴である。 ・「りんごは赤い」型の表現が言語には多数ある。これらを一括して「Aはpである」、さらに記号化してA|p型と呼ぶことにしよう。A|pを、一つの事物である対象Aは、pという属性をもった事物の集合に属する、と解釈することができる。目の前の一個のリンゴは、赤い事物の集合に属している、というわけである。 ・一方で、A|pという記号は、それ以外の様々なことを意味しうる。(われわれは、一つの記号に、多様な意味を持たせることができる。) ・対象は、言語においては、主語や目的語として表現される。 ・言語における対象は、必ずしも実在する事物ではない。幽霊も共産主義も、言語においては対象として扱われる。 ・おそらく、ここから様々の混乱が生じてくる。言語において主語や目的語になるものが全て同じような存在であるわけではないからだ。 ・対象とは何なのかという概念規定が問われることになる。 ・アメーバのような単細胞生物にとって、対象とは何なのか。そもそも、自らが接するものを、対象として捉えているのか。アメーバが何かに触れて触手を伸ばしたり縮めたりするとき、それは、対象を認知しているようにも見えるが、アメーバ自身にとっては、世界全体と今触れている個物とは、差がないのではないか。アメーバは、対象に対して反応しているのではなく、世界ないし全体的な状況に対して反応しているとも言えるのではないか。 ・生まれたばかりの人の子の場合も、初めは、世界の中に個々の対象が浮かび上がっているわけではない。彼は特定の対象に対して反応するというのではなく、やはり全体的な状況に対して反応するのである。(全体的な状況には、自分自身も含まれる。空腹であること、眠いこと等も全体的な状況の中のものである。自己と他者も未分化である。) ・その未分化の世界から、徐々に、いろいろなかたまりが浮かび上がり、対象として把握されるようになる。この段階ではまだ言語は用いられていない。一方で、このように対象が浮かび上がって捉えられるようになっていることが、言語を用いることができるようになる前提である。 ・なぜ、どのようにして対象が浮かび上がるようになるのか。おそらく遺伝子には、そのような発達がプログラムされている。そのプログラムは、生物の進化の歴史の中で獲得され強化されたものである。なぜ獲得され強化されたかと言えば、その方が生きる上で、あるいは子孫を残す上で、有利だったからということになるのだろう。 ------------------------------------------------- ・「関係」の発見は、人類の偉大な知的到達である。一方でそれは、知的混乱への入り口なのでもないか。 ・我々は、様々な関係を認識する。認識していると考えている。例えば、因果関係、空間的共在関係、時間的前後関係、支配・被支配関係、等々。 ・世界において生起する事象に因果関係を見いだしそれを言語を用いて表現したこと、これは日常言語が科学へと拡大していく決定的な契機である。 ・では、因果とは何なのか。(→因果関係) ・「関係」という概念は、世界把握にとって不可欠、決定的なもののように思える。しかし、これこそ、吟味を要するものなのではないか。 ・「関係」という相の元に世界を見ないとしたら、我々は世界を把握できなくなってしまうのだろうか。 ・言語以前に、人は世界を把握している。というより、世界の中で生きている。世界の中で起きることを常時捉え、それとの相互作用を繰り返しながら(相互作用を繰り返すことによって)、生きている。 ・そこに、世界の中で起きることを捉える機能として、感覚の存在が措定されることになる。我々人間だけでなく、言語を持たぬ生物もまた、感覚を持っていると考えられている。 ・感覚で捉えたものを言語で表出する、という見方が通常なされる。「言語以前」と言った時には、この見方に対応する形で、感覚で捉えたものを言語を用いずにvする(vに何を入れるかまだ決まらない)という見方が考えられる。 ・しかし、この見方は果たしてどの程度妥当なのか。 |
事物と事象
・台風を事物として捉えようとすると、対象はどこからどこまでなのか、しかも常に変動しているのに、という問題が生じる。台風は事象と捉えることが適当である。もともと日本語では大風だったわけだが、それが出発点だろう。
・このような例は多々ある。
・個物には、生命体と非生命体がある。
・非生命体である個物には、多くの人工物が含まれる。建物や、機械なども。
・それらのどこからどこまでを個物というのかは、見る者の見方による。
・個物の群を、さらに一つの個物的に扱うこともある。ショッピングモール、住宅団地、等々。
・科学は、事象を事物の言葉で記述しようとするものである。