Scandinavian trip 北欧の旅先にて


内容

キャンピングカーの楽しみ

ノルウェー北端の港町キルケネス

ウォッカベルトからの文学作品

国境経済

ノール岬

ロフォーテン諸島の鱈

道路の哲学

創造するライフ・スタイル

 

 

キャンピングカーの楽しみ

北欧の夏の夜は暮れない。北緯六十六度三十三分、私達はキャンピングカーでフィンランドの北極圏に入った。キャンピングカーの窓を通過する薄紫の空が、すでに夜であることを忘れさせ、自分達が気に入るキャンプ場に出会うまで、もうちょっと先へ、もう少し北へと、時間を忘れて車を走らせることになってしまう。ちょっと疲れてきた頃、目に飛び込んでくるキャンピング場の標識、矢印が示す方向に沈まない太陽の光を受けて輝く美しい湖が見える。「ここだね。」と微笑みながら、夫が車のハンドルを軽快にきる。六日前、スウェーデンのストックホルム郊外にある自宅を出発した後、二十年前にプロポーズを受けたフィンランドのヘルシンキまでの豪華客船で想い出の船中一泊の旅、気分は五万九千トン級だ。ヘルシンキではかつての夫の上司との再会、作曲家ジャン・シベリウスの生家のあるハメーンリンナでのサイクリング、静かな湖畔のキャンプ場での心安らぐサウナの一時、一週間はあっという間に過ぎて行った。

 

私達は三年連続でキャンピングカーによる夏のバカンスを過ごしている。豪華インテリアが施された大型キャンピングカーはもう少し年を取ってからにして、私たちが手に入れたのは、フォルクスワーゲンのカリフォルニアコーチ。天井部分を持ち上げると、小窓付きのベッドルームに早代わりというスポーツ感覚に溢れたキャンピングカーだ。これを中古で購入した三年前は、スウェーデン北部のラップランド地方へ、そして去年は、デンマーク、ドイツ、ベルギーを通過し、二十年前に私達が出会ったフランスへの郷愁の旅。そして、今年は、フィンランド国内を北上し、国境を越えてノルウェーの最北端、ノール岬へ、さらにローフォーテン諸島を巡り、スウェーデンとの国境を越えて自宅まで南下するという、ヨーロッパ最北地域の旅である。

 

熟年カップルとキャンピングカーという関係は、若い頃欲しくても手に入れられなかったバイクを、時間と金銭的な余裕の出てきた熟年層がグループで乗りまわしている姿と重複する。日常からの脱出、自由さと精神的な若さへの憧憬と言えるだろうか。ヨーロッパでも、キャンピングカーによる熟年層の旅行が増えている。北欧のキャンプ場に並んだキャンピングカーのナンバープレートを見てみると、ドイツ、オランダ、フランス、イタリア、最近ではポーランドからなど、ヨーロッパ各国からの車が見られる。もともと長い夏休みを取る習慣のあるヨーロッパのご夫婦たちが、子育て後或いは定年後さらに時間の余裕を得て、気楽にゆっくりと旅先を回れるキャンピングカーを旅の手段として選ぶのは自然なことだ。子育てに忙しい頃は、田舎の別荘で毎夏を過ごした時期もあったろうし、キャンピングカーほど値段が張らないキャラバンを自家用車で引いて自分達が住む町の自治体が経営する近場のキャンプ場を陣取った時期もあっただろうが、各段に便利になったキャンピングカーは、人生後半期の遊び心を満たすちょうど良い移動手段なのかも知れない。キャンピングカーの機能性や質が高まっている上、以前はレンタルするのが難しかったキャンピングカーだが、去年当りから大手のレンタルカー会社がキャンピングカーを貸し出すようになり、手軽に利用出来るようになった。物騒なニュースの多い昨今、飛行機による移動をさけ、キャンピングカーで近隣の国々へという旅行者も多いことだろう。自動車産業の発展によって、一九五〇年代の旅行移動手段の六〇%がすでに車によるものであったというスウェーデン統計局の数字が出ている。一九六〇年代初めに数千台の登録がなされていただけのキャンピングカー台数は、その後十年間に十倍増えている。それに伴い、キャンピング場の数も増えており、六〇年代に百余りしかなかった整備されたキャンプ場の数が、現在では七百余りに増えている。一九三八年に年間ニ週間の休暇が法律で国民に保障されたのを最初に、五一年には三週間、六〇年代に四週間、現在は五週間まで延長され、政府の余暇政策も国民の余暇傾向と呼応している。キャンピングカーで各国を回っていると、キャンピング場の施設の充実度は勿論、福祉、ゴミ処理まで見えてくるから面白い。北欧のキャンプ場は、どこも清潔で世界トップクラスの充実した施設を誇っている。キャンピングカーの窓から、北欧の人々のレジャーライフが見えてくる。

移動の日の朝、夫はキャンピングカーのキチン用タンクに水を満たし、コンロ用ガスボンベや、冷蔵庫の電源を点検し、車のバックドアに設えた自転車用ラックに私達のニ台のマウンテンバイクを取りつける。私はその間、食料や水回り、寝具等の整理をする。誰が決めたでもない、出発前の夫々の担当分野だ。さあ、これから行く先に何が待っているのだろう。北極圏の沈まない太陽が、私達の好奇心を眠らせない。(スウェーデンのキャンピング情報はこちらでも。)

 

ノルウェー北端の港町キルケネス

キルケネスは、フィンランドとロシアの国境に隣接するノルウェー北端の港町である。一週間かけてフィンランド国内を北上し、イナリ湖畔のキャンプ場で雨をしのいでニ泊した後、国境を越えてノルウェーに入り、二百キロあまりの道程を、ゆっくりと窓越しの景色の変化を楽しみながら車を走らせた。イナリ湖を呑みこむように広がるフィンランド北部の低木大地が、雨を含んだ重たげな雲を抱くノルウェーの高い山並みに変わり、海は両岸に絶壁を残しながら切り込むように陸地に迫るフィヨルドの地形に移って行く。バレンツ海に抜けた後、海岸沿いの道を東に取りノルウェー北端の港町キルケネスに入った。ロシアの旗を掲げたコンテナ船とノルウェー沿岸を航行する沿岸急行船、フッティグルーテンが並んで港に停泊している。キルケネスの港は、冬も凍らない。ここはノルウェー沿岸を五泊六日で北上する沿岸急行船の終着港であり、出発地、ベルゲンへの折り返し点でもある。 沿岸急行船の利用率がこの夏二十五%も増加したと聞いている。早く遠くへの旅から、時間はかかっても船上からの眺めをのんびりと楽しむスローな旅に旅行者はより魅力を感じ始めているようだ。

 

町の観光案内所の前に五台の日本製バイクが並んでいる。スウェーデンナンバーだ。黒皮のスーツに身を包んだ大柄の中年男性四人と同じ位大柄の中年女性一人が、観光案内所で宿を探している。北欧を旅行中良く見かけるバイク集団は、日本のように若者のグループではなく、時間と金銭的余裕が出来た中年、熟年グループだ。別のドイツ人らしき観光客は、第二次大戦中ドイツに占領されていたキルケネスがいかに壊滅的な空爆をソ連から受けたかの話を観光案内所の職員としている。車で町に入る前、ロシアのムルマンスクまで三百キロという標識を見た。第二次大戦中、不凍港であるムルマンスクの港は、ドイツ軍による侵攻を阻止する米英の重要な軍事物資の供給拠点になっていたのだ。一九四四年にソ連軍が来た時、キルケネスは、ドイツ軍によってほとんど焼き払われた状態だったという。その後三十年間の冷戦期に、キルケネスは、復興需要で鉄鉱山の採掘による黄金期を迎えるが、価格高騰で徐々に規模を縮小していた採掘鉱山はやがて1996年に閉山される。この小さな港町がいかに歴史のそれこそ荒波に洗われて来たか、ちょっと考えただけでも感動的だ。私達二人は、今夜車の中で読む観光資料を抱えるほど取り込んで、早速町を散歩して見る。北欧や他のヨーロッパ諸国からの観光客に混じって、東洋系の顔も見かける。キルケネスの住民は六十ヶ国からなり、外国系住民の最大グループはロシア人で、ボスニア人とフィリピン人がそれに続くと観光資料にある。ロシアはお隣だからこの町にロシア人がいてもおかしくないが、どうしてこの最果ての地にボスニア人とフィリピン人が多く住んでいるのか、旅行中ずっと気になっていた。旅行後Eメイルで、キルケネスの観光局に問い合わせたところ、2日ほどで丁寧な返事が返ってきた。理由はノルウェー政府の難民政策の結果だということであった。キルケネスから一番近いロシアの町ニケルまでは四十キロあるが、バスが定期的に運転されており、そこから日本海に面したウラジオストックまで鉄道で繋がっている。そう言えば、町でムルマンスク行きのバスを見かけた。マイナス五十度にも気温が下がる荒涼とした冬のキルケネスを想像しながら、例外的に暑く三十度を越える日が続いたこの夏、沈まない太陽の下、夫と二人で歩いているこの大地は、シベリアを経由し日本海に繋がっている。そして目の前のバレンツ海は、北極海を通じて日本の太平洋側に繋がっているのだと考えると、なんだかヨーロッパの最北端の地が急に身近に感じられてくる。そう言えば、バイキング達もかつてノルウェーの沿岸を北上し、バレンツ海から白海まで遠征してきていた。彼らが現在のように航海技術が発達した時代に生きていたら、そこに留まらず、後のスウェーデンの探検家アドルフ・ノルデンショルドがそうしたように、さらに北極海を目指し、ベーリング海やオホーツク海を経由して日本の太平洋岸に至っていたに違いない。北海油田で潤うノルウェーから、石油や天然ガス資源が北極海航路を通じて日本へ海上輸送される日が来るかもしれない。大型客船による北極海航路が通じるかもしれない。北極圏の海は、旅人の想像力をバイキング時代と変わらず掻き立てる。

 

ウォッカベルトからの文学作品

二〇〇三年九月スウェーデンで、ユーロ導入の是非を問う国民投票が行なわれた。投票日の三日前に、賛成の論陣を張っていたアンナ・リンド外相が刺殺されるという事件があり、この事件以前に大勢を占めていた導入反対派からの同情票が予想されてはいたが、結果は結局ノーと出た。導入賛成と出ていれば政府は、二千六年にユーロ導入を予定していたが、この次は二千十年までお預けと言うことになる。この結果に関して、相反する二つの解説が新聞に載っていたのが興味深かった。反対票が過半数を超えるという結果が出たのは、千九百年代初めに国民運動に発展した労働運動以来のスウェーデンにおける民主主義の伝統によるとした肯定的意見が一つ。もう一つは、民主主義とは国民主権のことであり、責任を伴わない国民の希望や意思表示にのみ終ったとする批判的意見だった。共に説得力のある解説だったが、根本にあるのはヨーロッパの北端に位置する小国家が経済力を持つ大陸国家に呑み込まれてしまうのではという恐れではないかと思う。都市部より、地方で反対票が大勢を占めたのも、伝統的な中央体制、権力に対する懐疑心の表れで、この点では北方文学の原風景が再現された格好になっている。

 

土地の景色や文化が作家やその作品に与える影響は大きい。スウェーデン北方文学は、雄大な北部の自然をたたえ、愛国心を煽るロマンティシズム溢れる一八〇〇年代の作品群から、森林や炭坑労働者の間から生まれた一九〇〇年代初期のプロレタリア文学、貧困や病気、厳しい自然条件と闘いながら宗教や人生の意味を問う戦後のリアリズムに富んだ作品群まで、時の権力と時代の流れに翻弄されながらも、北方地域の自然と文化を背景にスウェーデンの文学界の中で特にユニークな位置を占めてきた。それまでは貴族、軍人、牧師、市民階級層のものであった著作活動に、新しく農民、労働階級が加わり、階級闘争としての労働運動が一九〇〇年代初めに北から全国に広がった。国民皆投票権、八時間労働、兵器削減を要求した労働運動を通じて、労働者達はスウェーデンの福祉国家の基礎を築いたのは自分達だという自負を抱くようになる。北方文学を生んだ原風景は、生き残りをかけ中央権力に挑んだ権利闘争だった。ストックホルムに住む人達を電話の市外局番である08のスウェーデン語で「ノルオッタン」と呼び、何かにつけ比較対照し嘲笑する傾向がある北部住民の心理にはこんな歴史的背景がある。

 

スウェーデンとフィンランドの国境近くにある北極圏の町パヤラを舞台に、ロックンロール・ミュージックに魅せられた六十年代の少年時代をいきいきと描き、二〇〇〇年度のアウグスト(ストリンドベリ-)賞を受賞したミカエル・ニエミ氏の「ヴィッツラからのポピュラーミュージック」という本がある。邦訳はされていないが、「ポピュラ-ミュージック」というタイトルで英訳されている。(注 「世界の果てのビートルズ」というタイトルで、日本語訳(岩本正恵訳)が新潮社クレスト・ブックスから発売された。)英語版が出版された際、新聞の批評欄に登場したタイトルが、「ウォッカベルトからの文学作品」であった。スウェーデン語の本の裏表紙には次のように紹介されている。「マッティと彼の無口な友達ニイラは、ヴィッツラ(フィンランド語で女性の性器と低湿地という意味の言葉の合成語で、子沢山なこの地方を揶揄したもの)と呼ばれる、子沢山なパヤラの一画で子供時代を過ごす。時代は一九六〇年から七〇年代、道路が舗装され、小規模農家は衰退し、ロックンロール・ミュージックが流行り出す。古い世代は、新しい流行を受け入れ難く、三〇年代の遺産に固執し、レスタディアニズム*が深く根付いている。マッティとニイラはトルネダーレン地方の境界線を越えた別の人生を夢見ている。幼すぎて自力では到達できない分、ファンタジーの助けを借りて。」

 

*レスタディアニズムは、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、ロシアの北部に多くの信仰者を持つ、国教ルーテル派プロテスタントの一宗派。創始者のラース・レヴィ・レスタディウスは、一八〇〇年生まれ、二十六歳でスウェーデン最北の教区、カレスアンドの牧師となった。当時教区の住民のほとんどは北方少数民族のサーメ人で、生活は貧しく、子沢山で、飲酒によるモラルの退廃が目についた。そこでレスタディウスは、飲酒の習慣を止めさせるため、厳しい生活規範による意識改革に取り組んだ。レスタディウスの影響は、特にラップランドとトルネダーレン地方(スウェーデンとフィンランドの国境を流れるトルネ川流域地域)に強く残されている。ミカエル・ニエミの本が、ウォッカベルトからの文学作品と表現されたのには、このような文化的、地理的要因がある。

 

「ヴィッツラからのポピュラーミュージック」の中で、ミカエル・ニエミは無口なはずの友達ニイラを、エスペラント語の達人にしてしまった。フィンランド語、サーメ語、スウェーデン語の文化圏が交差する多国語地域の言語環境を彼一流のユーモアで描写している。2000年にスウェーデンのマイノリティー言語としてサーメ語、トルネダルスフィンスカ(トルネダル地方のフィンランド語でメエンキエリと呼ばれ、標準フィンランド語と区別している。)とフィンランド語の使用がノールボッテンの5コミューン(キルナ、パヤラ、イェリヴァレ、ハパランダ、エーヴェルトルネオ)で認められた。)

著者が地元で撮影するという条件でこの本の映画化を承諾し、スウェーデン在住のイラン出身監督の下、撮影が行なわれた。これまでの北方文学は、暗く激しい怒りの文学だったが、ここにきて育った環境を客観的に捉え、皮肉やユーモアで前向きに表現する新しい文学が出てきたようだ。それでも北方文学を生んだ自然や文化や歴史の遺産は、スウェーデン文学の底流として確実に受け継がれている。

 

国境経済

ノルウェーの物価は、高い。食料調達のため、スーパーマーケットでバターやパンなど基本的な食料品のまとめ買いをすると、スウェーデンより二、三十パーセントは高くなる。夫は、「ノルウェーにはオイルマネーがあるから。」ですべてを説明しようとする。EUのメンバーにならなくてもオイルマネーがあるから、EUの補助金を必要としないというわけだ。EUには加わっていないノルウェー、EUにもEMUにも積極的参加のフィンランド、そしてEUメンバーではあるけれど国民投票でEMU参加に反対の結論を出したスウェーデン。歴史を振り返っても、国の政策の違いにより、国境付近では何時も何かがうごめいていた。ノルウェーとの国境に沿いにある人口百五十ニ人のスウェーデンの小さな町ストールリーエンに関するレポートが日刊紙に出ている。この町の食料品売上の九十五パーセント、ホテルの宿泊料金の八十パーセントがノルウェー人によるものだという。国境から車で一時間半の距離に、人口三十五万のノルウェーの町トロンハイムがある。食料品や宿泊のみならず、専売公社で販売されているアルコール類やサマーコテージ、ガソリンの販売などにも、ノルウェー人たちの買出しツアーの影響が出ている。ノルウェーがEUに参加すれば、価格格差もなくなり、この国境経済も破綻する事になるのだろうが、それまでには少なくとも十年はかかるだろうとスウェーデン側の店の経営者は見ている。週末には、ノルウェーナンバーの長い車の列が、ノルウェーと国境を接しているスウェーデン側の大抵の町で見られる。夏の休暇は、物価の安いスウェーデンでと言うノルウェーのキャンパー達も多く見かけた。

 

そう言えば、私達がフィンランドのイナリ湖沿いに北上し、ノルウェーとの国境を目指していた時、フィンランド側で最後に立ち寄った小さな集落にあったスーパーマーケットの品揃えには驚いた。おそらく集落住民の必要量の何十倍はあったろう。店の前のパーキングには、ロシアからのバスや、ノルウェー、ポーランドからの車のナンバーが並んでいた。レジでの支払いは、ユーロでもノルウェー・クローナでもよかった。ノルウェー人たちが、スウェーデン側国境と同様に、フィンランド側にも国境を越えて買い物ツアーに出かけているのだ。食肉が一人十キロを限度に売られていた。これは勿論ノルウェー側への持ち込み制限で、フィンランド側の売り手の都合ではない。私達もここでローストチキンを買い込み、ノルウェーに入った後、フィヨルドの美しい入り江に車を止め、車と同色のダークブルーのテーブルとイスを取り出し、ブルーと白の縞縞クッションにブルーのテーブルクロスでコ-ディネートして、ちょっと遅めのランチを心行くまで楽しんだ。

 

面白いことに、スウェーデンと国境を接しているフィンランドの人達もスウェーデンへ買い物に来ている。ボスニア湾に至る国境沿いのスウェーデンの町ハパランダでは、一足早く既にユーロが通用している。ユーロ導入を問う国民投票で、導入反対票が地方で大勢を占めたのと対照的に、都市部と北部ではこのハパランダだけが賛成票を多く投じた。スウェーデン人は、結局自国内で安上がりな休暇を過ごすことを選び、ノルウェー、ドイツからの観光客の伸びにも助けられ、観光産業の目安となる国内ホテル等の宿泊率が、夏の時点で既に前年の記録を更新する勢いだと日刊紙が報告していた。2002年はテロ、イラク戦争、感染症等の影響で、スウェーデンへの遠来の客が減ったにもかかわらず、近隣諸国デンマーク、ノルウェー、フィンランドからの観光客が十九パーセント増加するという記録的な結果を得たとある。政治経済情勢による影響を受けやすい短期的な観光産業の景気動向にしても、国連やEUが提唱する長期的視野に立った持続可能な観光開発にしても、安全圏内のターゲットは、国内旅行を選択する自国民と国境を接した近隣諸国からの観光客ということになるようだ。

 

 

ノ-ル岬

フィンランド、ノルウェー、スウェーデンの北極圏地域は、ヨーロッパ最後の荒野として観光パンフレットなどに紹介されている。その中でも、旅行者たちが自家用車、キャンピングカー、沿岸急行船、或いは自転車など思い思いのスタイルで目指すのは最北端の岬、ノースケープだ。実際には最北端の岬はさらに一キロほど先にあるが、古くはバイキングや北極海航路を目指したイギリス人探検家、中世にはイタリア人宣教師なども訪れた、古典的観光地だと言える。五月から七月にかけての七十七日の間に、北海にそそり立った三百七メートルの高さの断崖から沈まない太陽を見るのがこれら観光客の目的だ。私達も魚が採れなくなり、ちょっとうらぶれた感のある最寄りの港町ホーニングスボーグを後に、早速ノール岬を目指した。荒涼とした丘陵地をぬって延々と北に続く国道を、地図を見ながらたどって行く。地図上では、ノール岬は島の上にあるので、フェリーで島に渡るものと思っていたら、トンネルが通じていて、車は写真で見覚えのある地球のモニュメントが立つノール岬に何時の間にか辿り着いていた。大手のホテルチェーンによって経営され、ノール岬の断崖の中に埋め込むように建設されている観光客用の施設は、ヨーロッパ最後の荒野と言うには余りにもモダンだ。ホテル、カフェ、バー、レストラン、映画館、結婚式が上げられる教会まである。沿岸急行船を利用しているヨーロッパからの観光客がホーニングスボーグから大量にバスで輸送されてくる。英語、フランス語、イタリア語が飛び交う地下の郵便局で私達もノール岬の絵葉書を投函した。海の上を走る高速道路やトンネルの傍で、バイオリンを弾いて日銭を稼ぐしかなくなった海の男の寂しげな姿が描かれた船員組織の告発ポスターを、ノルウェーのあちこちで目にした。国連が提唱している持続可能な観光開発やエコツーリズム、ユネスコによる世界遺産など、これまでの観光開発のあり方やマスツーリズムを見直し、自然環境の保全や限りある資源を次世代に受け継ぐための利用法など、経済一辺倒の開発から自然や文化への配慮も含めた開発が奨励されているが、これまでにすでに開発されたこれら大型施設に与える影響など、皮肉にもヨーロッパ最後の荒野と称される北極圏のノール岬で考えさせられた。

 

 

ロフォーテン諸島の鱈

ストックホルムを出発してからニ週間目にノルウェーのロフォーテン諸島最南端の小さな町オーにたどり着いた。北海で取れる鱈を寒風にさらして乾燥させたルートフィッシュが名産で、自転車で五分もあれば回りきれてしまう町の中心にこの乾燥鱈のミュージアムがある。いやかつては漁業を生活の基盤としていた漁村自体が、今は観光客相手のミュージアムになっている。国道はこの町のはずれで終わっていて、駐車場は町に一つあるキャンプ場から溢れたキャンパー達の停車場にもなっている。と言うより、規則違反にもかかわらず、キャンプ場の宿泊料をも節約するワイルドキャンパー達の溜まり場にもなっているようだ

 

私達は、午前中にキャンプ場に入ったので運良く海を見下ろす絶好の場所を陣取ることが出来た。こんなに眺めの良い場所に一泊だけというのは勿体無いので、結局ここで三泊して、最初の日は、地元の漁師さんの船で鱈の糸釣りに挑戦、二日目はキャンプ場の目前に迫っている千メートル程の山へのハイキングに出かけた。釣りの方は、潮の関係でお昼の十二時に港をゆっくりと出発。全長八メートル程の漁船で日本製のレーダーが付いている。風が強い日で、一時間程沖へ出た後私達が釣りを始めてからずっと、船は右に左に大きく揺れていた。ノール岬に入る前立ち寄ったホヌングスボーグで、町の魚屋さんの窓ガラスに魚不足のため閉店しますという紙片が張られていたのを思い出す。何隻もの漁船が港に長期間停泊したままになっているらしく、錆びれが目立った。スウェーデンとバルト三国の間に横たわるバルト海のニシンや鱈の捕獲量が大幅に減量されていることもあり、最初は船上の私達も果たして魚が釣れるのか不安げに糸をたれていたが、スイスからの観光客が大きなセイを釣り上げたのを皮切に、船のあちこちで歓声が上がり、私たちも三十センチほどの大きさの鱈を一匹ずつ釣り上げた。船の持ち主の漁師さんは、白髪で頬から顎にかけて薄く延びた白髭が良く似合う好男子だ。町に一軒あるキオスクで手に入れた地方新聞にこの漁師さんのインタビュー記事が大きな写真入で載っていた。代々漁師を仕事としてきた家に生まれたが、観光客を漁船に乗せるようになったのは、彼の世代からだそうだ。

 

さてこの日の夕食メニューは、勿論夫がさばいてくれた、たらのバターソテー。フィンランドのワイナリーで買い求めた白ワインが冷えている。鱈の残りはトマトとブイヨンで骨まで煮込んで保存した。キャンピングカーの冷蔵庫がこんなとき有り難い。

 

道路の哲学

ロフォーテン諸島から船で三時間余り、ノルウェー本島に戻りそのままスウェーデンの国境を目指した。国道が首都へ首都へと繋がっているのは何処も同じようなものだが、この地域はかつての主要交通路であった海へ海へと出る道が多い。私達がノルウェー側からスウェーデンの国境を超え、たどって来たシルバーロードもその内のひとつだ。ボスニア湾岸のシェレフティオまで通じている。北海から、ボスニア湾にぬけ、フィンランドとの国境沿いにあるハパランダを経由し、フィンランドの国境を超えさらにロバニエミへ、そしてバレンツ海に面したロシアのムルマンスクまでを結ぶバレンツロードも、このシルバーロードを一部経由している。国境を越えるといっても、道路沿いの標識で国境を通過したのだと確認出来るだけで、税関があるわけでも、パスポートの提示義務があるわけでもない。シェンゲン条約(ルクセンブルグで一九八五年、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの間で交された自由往来の条約。二〇〇一年からはスウェーデンも条約に加わり、条約参加国の国籍所有者は、入出国の際パスポートの提示義務がなくなった。現在は、ノルウェー、デンマーク、フィンランド、アイスランド、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、イタリア、オーストリアも参加している。)で通関手続きは簡素化されているが、北欧三国のパスポート所有者はそれ以前から北欧三国内の移動の際、空港でもパスポートを提示する必要がなかった。夫と一緒に北欧を旅行すると、通関は通過するだけでいいスウェーデン人の夫を羨ましく思ったものだ。日本と近隣諸国がそのような関係になるのは何時のことだろう。

 

道路といえば、日本の新聞社の通訳としてスウェーデンの国路庁を取材したことがある。交通事故による死亡者をゼロにするのを目的として、国路庁が推進している「ゼロヴィジョン」に関する取材だった。印象に残っているのは、国路庁交通安全課のディレクターが熱を込めて説明してくれた道路の哲学だ。人間が道路上で誤った判断やハンドル操作で事故を起こすことは避けられない。それに重い刑罰をかけることによって交通事故を減らすことは出来ない。人間は誰でも間違いを起こすのだから、その前提にたてば、交通事故の削減対策はシステム、制度面で人間を補足するやり方でしかないというのが彼らの哲学だった。そこで、道路の安全なデザイン、車の安全装置、全席シートベルト着用の義務付け、子供用シートの取りつけなど、安全が制度面で強化されることになった。「ゼロヴィジョン」が特に力を入れているのは、シートベルト着用の徹底だ。国路庁は、一九九七年からニ〇〇〇年の五八六件の交通事故死を調査し、シートベルト着用が事故死を半減出来るというデータ結果を得ている。スウェーデンのシートベルトの歴史は次のようだ。

 

一九六九年 全ての新車のフロント座席にシートベルト装備が義務付けられる。

一九七〇年 全ての新車の全席にシートベルト装備が義務付けられる。

一九七五年 フロント座席のシートベルト着用が義務つけられる。

一九八六年 後部座席の大人のシートベルト着用が義務付けられる。

一九八八年 全席のシートベルト着用が義務付けられる。

 

世界的な賞を獲得した日本のアニメーション映画を、スウェーデンの映画館で見る機会があったが、後部座席に座っていた主人公の少女がシートベルトを付けておらず、妙な所で日本の安全面での後進性を感じ居心地が悪かったのを覚えている。

 

 

創造するライフ・スタイル

スウェーデン語で余暇活動はフリールフツリブ(Friluftsliv)と言い、直訳すれば自由空間の生活という意味になる。時間的拘束や日常空間から解放された、自由な、出来れば自然の中で過ごす余暇時間ということになる。余暇は自然抜きには考えられない。自然は植物学者リンネに代表される観察対象に留まらず、歴史の中でフィンランドが、スウェーデンが、そしてノルウェーが夫夫の自然環境を国家的、精神的象徴とする心象風景として捉えてきた。やがて自然は、青少年の健全な肉体と精神の育成を目的とした活動空間となり、千八百年代後半から千九百年代前半にかけてボーイスカウト(一九十二年設立)をはじめ、スポーツ振興を目的とする団体、現在の野外生活推進協会(一八九ニ年設立、日本支部は一九九二年発足)が組織された。また、北部地域への鉄道敷設を契機に「祖国を知ろう」のスローガンの下、旅行者連盟(STF、一八八五年)が設立され、山岳部各地にユースホステルが建設された。ノルウェーで旅行者連盟が組織されたのは、これより十七年早い一八六八年のことで、北欧の人にノルウェー人の国民性を尋ねると、ハイキングや山登りが好きな人達という回答をする人が多いのはこんなところからきているのだろう。工業化によって都市部の生活や労働環境が悪化したのを反面教師に、精神、健康面で自然の中での余暇の必要性が再認識され、限りある資源として自然が捉えられるようになった。国民が余暇を取る権利は八時間労働を要求した労働運動で政治問題となり、やがて社会民主党政権による福祉社会建設の政策となった。産業革命、労働運動、近代化、都市化、IT革命、産業のグローバル化と都市部で新しい産業による社会構造の変化が起こっている時、その都度バランスを取るように浮上してきたのが自然回帰現象だった。自然に対する愛着や自然保護に対する国民意識の高さは、このような歴史的背景の中で繰り返し育まれ、今世界をリードする自然環境保全政策やエコツーリズム促進活動に反映されている。余暇は、社会的、文化的現象であると同時に政治であり創造だというのが私の印象だ。

 

最近小泉首相が外国人観光客を日本に誘致するため、テレビのコマーシャルに出演することになったというニュースを読んだ。ヨーロッパ各国の観光局が繰り広げる力の入ったプロモーション活動に比べ、日本政府の観光誘致の無策さを長年諦めの境地で眺めていた私にとって、やっと腰を上げたかの感が強い。自然環境だけでなく、過去の豊な文化遺産を持続可能な観光資源とし、美しい景観作り、販売促進活動、旅行業界や地方自治体との連携などで、やるべきことは山ほどある。観光は、これからも伸びる産業だ。近隣のアジア諸国が経済成長によって自国の生活水準を上げ、国民の関心が福祉や余暇に向けられるようになると、観光客が、空路のみならず、海路で自家用のヨットを操って、或いは豪華客船によるゆったりとした旅を楽しみながら、日本各地を沿岸に沿って訪れる日が何時の日か来るに違いない。日本は素晴らしい景色を誇る日本沿岸各地に設けられたゲストハーバーで彼らを受け入れ、日本の自然環境を壊すことなく楽しめる受け皿を地方自治体が中心になって整備し、一方で日本を縦断する自転車専用道路を敷くなどして、レジャーの選択肢の幅を広げることが、新しい余暇産業の基礎となる。利用者にお金を使わせる機会を提供するだけのような、似通ったテーマパークを乱立させるより、個人個人が主体的に活動出来るよう、その選択肢を拡大するためのレジャー活動を奨励することが、結局は観光産業を促進する政策になる。自然環境保全のための教育を受けたスポーツインストラクターやガイドの養成、エコツーリズム手配業者の支援など、ソフト面の充実も必要だ。各地方自治体は観光案内所の充実を図り、日本語や英語は勿論、韓国語や中国語によるプロモーションパンフレットの作成に力を入れなければならない。そしてなにより、それらの施設を心から楽しんで利用する国民の意識作りに時間をかける必要があるだろう。休みを取ることに肩身の狭い思いをする必要はない。余暇は福祉であり、日本の自然環境は国民の誇り、健康生活と余暇活動の実践空間、そして青少年の精神及び肉体鍛錬の場でもある。自然環境への意識を高めることは、新しい余暇産業のあり方を模索する切っ掛けにもなる。自然環境や文化保全を視野に入れた新しい余暇文化を創る時期に来ているようだ。