Paddling ラップランドでパドリング


スウェーデン最高峰、ケブネカイセ山の裾野をパドリング

シーカヤックを始めて体験したのは、1995年のクリスマス、夫と小笠原へ旅行した時だった。何しろ生まれて始めての経験で、その半日ほどのパドリング中は、ガイドに付いて行くのが精一杯で、小笠原の海を楽しむまでの余裕はなかった様に記憶している。ただ、クルーザーに沿って泳いでいる数え切れないほどのイルカの群れをデッキから目にし、入江の真白な砂浜を散策すると、小笠原の自然を海面レベルで体験するのに、シーカヤック程最適な道具はないだろうという強い印象を持った。

 

その五年後、夫の母国スウェーデンに帰り、私達がシーカヤックを始めるまでに長い時間はかからなかった。スウェーデンは、かつてバイキング達が世界の海に向かって漕ぎ出したように、生活の場が直接何万という群島や湖、河川に繋がっていて、パドラーの夢を誘う自然環境に恵まれている。2004夏、私達が選んだパドリング・フィールドは北部山岳地帯、ラップランド。ヨーロッパ最後の荒野と呼ばれ、夏は山岳トレッキング、乗馬、急流下り、釣り、冬はスキー、犬そりなど、アドヴェンチャー旅行者にとっては打って付けの地域だ。Nature´s Best 参照

86年製の古いトヨタの屋根に二隻のシーカヤックを載せ、首都ストックホルムの自宅を北へ向かって出発した時から、雨になるかもしれないという予感はあった。1000キロ以上の道程をひたすら北上し、北緯6633分の北極圏を通過したときも、空はどんよりしていた。天気は悪くても夏は白夜のお陰で、暗くなる前にテントを張らなければとか、目的地に着かなくてはというストレスがない。知人の農場で一泊してから、いよいよ出発だ。出発地は、王様の野道(Kungsleden 山岳トレッキング・ハイキング参照)と呼ばれる450キロの山岳トレッキングコースの基地となっている、ニッカルオクタ(Nikkaluokta)。最初のキャンプ地に予定しているヴィスタス川(Vistasalven)沿いの「リサの山小屋」(Lisas Stuga)までは、流れに逆行することになる。集落から少し離れた一般駐車場に接する岸から、私達はゆっくりとパドルを漕ぎ始めた。本流に入った途端、雪渓を抱いた緩やかな美しい山並みが私達の目前に広がった。「素晴らしいね!」という夫の一言に、私は感動で言葉もなくただ頷いていた。前を行く夫のパドルが、気のせいか活気付いたように見えた。

 

ヴィスタス川は、スウェーデンの最高峰、ケブネカイセ(2111メートル)や周辺の1500-2000メートル級の山々の間をぬうように流れる全長28キロのゆったりした流れの川だ。私には、川というより湖にしか見えない。連日の雨の所為で、水位が上がっていたが、流れを逆行していることも忘れ、次々と目の前に展開する山々の景色に導かれるように、飽きることもなく、ただ黙々とパドルを山に向かって漕ぎ続けた。ふと我に帰り時計に目をやった時には、すでに二時間が過ぎていた。パドリング初日でもあり、腕の疲れもなく、私達と周りの雄大な自然以外、人の気配もない。山から落ちる滝の音と、鳥のさえずり、そしてパドルが立てる水の音以外何も聞こえない。前日まで過ごしていた都会の生活が、パドルひとかき毎に遠のいて行く。日本人にとっての心象風景は、やっぱり山にあるのだ、などと、森と湖に囲まれた平面的な日常の自然環境から離れ、自分勝手ないいとこ取りの解釈を心の中でしている。夫にとっても、水面から目線を常に上向きにさせる山々の風景は、私同様に心踊る対象のはずだ。山にかかる雲は、雨の予感を示しているが、まだ雨は降り始めていない。

 

前を行く夫との距離が徐々に開き始めた。夫がはるか前方の水面に浮かんだ水鳥のように見えてくる。北方少数民族サーメ人が、白樺の木で組んだコータの支柱に、わずかに人が立ち寄った跡を残している。はるか後ろを行く私を気づかってか、夫がその岸にカヤックを寄せている。ここで休憩をするつもりのようだ。喉の渇きは、川の清らかな水が潤してくれる。陸に上がった途端、待っていましたかのように蚊が私達を取り囲んだ。幸い、ネット付きの帽子や蚊よけのオイルのおかげで、思ったほど気にならない。それでも水面をパドリングしている時の方が、蚊は絶対的に少ない。二十分もしない内に、私達はまたカヤックに戻った。それから三時間、私達は、憑かれたようにパドルを漕ぎ続けた。山並みは、徐々に川幅を狭め、うねりも多くなってきた。ワイドスクリーンの山岳映像が、両脇を滑るように移動していく。私達はその真中でパドルだけを無意識に動かしている。水面の穏かさからは見えないが、漕いでも漕いでも先へ進まないほど、川の流れが強くなってきた。自分ではまだ続けられると思っていたが、私のペースが落ちたのは明らかで、予定のキャンプ地に着く以前に夫の判断で早めのテントを張ることにしたのは正解だった。逆流を五時間も夢中で漕ぎ続けた疲れが、テントの中にもぐり込んだ途端どっと出てきた。夫が、テントの外でストーブに火をつけ、食事の用意をし始めたらしい物音がしていたが、私はその夜、夕食も食べないで着の身着のまま、翌日の朝テントを叩く激しい雨音で目が覚めるまで、倒れこむように眠りこけてしまった。


YouTube「スウェーデンDalarnaのパドリング教室風景」ビデオ