及川廣信氏とは?


現在、公式サイトによれば、下記のように書かれています。

プロフィール


アルトー館主宰。Scorpio Project(現after scorpio)代表。
ダンサー。演出家。プロデューサー。
舞台芸術学院、エチエンヌ・ドゥクルー「エコール・ド・ムーブマン」、レオ・スターツ「コンセルヴァトワール・コレオグラフィック・ド・パリ」出身。


さらに、

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研究

   
ダンス・演劇・マイムの技術と東洋の身体メソッドを横断的研究。 
アルトー館研究所でその研究成果をワークショップ形式にて発表。
アスベスト館「アイコン」・藤原オペラ研究所の元講師。
日本マイム研究所元所長。

プロデュース
   
ヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバル、第2回東京アートセレブレーション、いわきアートセレブレーション、環境アート展、豊島重之「モレキュラー・シアター」、劇団 解体社、THEATER PLAN TERA など。
大野慶人、勅使川原三郎、ケイ・タケイ、石井満隆、田中泯、岩名雅記、玉野黄市、居上紗笈、大西小夜子。

海外からの招聘
   
ベルリン・ダンス工場、ラインヒルト・ホフマン、ハンク・ブル、ダニエル・ジェラルド、ヤドヴィガ・コシツカ、ピエール・シャペールなど。

ディレクター
   
表参道シュウ ウエムラ ビューティ ブティック(第1号)、シュウ ウエムラ アートシアター(第1回東京アートセレブレーション、ヤン・ファーブル『劇的狂気の力』、パリ・オペラ座GRCOPなどの招聘)、ダンス フェスティバル イン シアターX (第1〜第3回)。

アート・コンフェランス

TOKYO ART CONFERENCE in Theater X、赤羽会館での連続「アート コンフェランス」、「桐生芸術家会議」(2回)、スティーヴン・バーバー(「アーツ・バースディ」)。

演出
   
土方巽・大野一雄・ラインヒルト・ホフマンの作品。『江戸マンダラ』。シュウ ウエムラのメイクアップショー。『アートは症状である』。

編集/著作
   
『アントナン・アルトー特集』『パフォーマンス』(肉体言語舍)
『シアターブック(第3号)』『Jam』『Art Conference』(スコピオ・プロジェクト)/『シュウ ウエムラ』(七月堂)など。


ともあります。

ただし、上記にも収録されていない広範かつ膨大な活動歴をお持ちですので、追々追記していきます。

たとえば、そもそも氏が医学の道を志して順天堂医科大学に進まれたことや、(TVドラマの俳優を含む)演劇、バレエなどを経てマイムや舞踏、ダンスに関わり、そしてパフォーマンスのムーブメントを組織しリードされた流れなどについては、ほとんど記録がありません。一部については、氏による回顧的なテクスト「60年代をふりかえる」をご参照ください。

長くシュウ ウエムラとの交遊があったことについては比較的知られています。氏がシュウ ウラムラ化粧品のアートディレクタを勤められていた時代については著書「シュウ ウエムラ」(七月堂)を参照いただきたいところですが、すでに入手はほぼ不可能でしょう。ごくまれに日本の古本屋で検索すると見つかることがあります。

舞踊・舞踏の分野に限ってみても、たとえば下記のような記録があります。

前史

1957.01 バレエ東京             「白の組曲第1番」「バラの精」「森の歌」
1957.10 トーキョー・コメディ        「パントマイムの基本」「くさりを離れたプロメテ」「ピエロ」
1958.01 バレエ東京             「白の組曲第2」「エレクトラ」「ハンガリアの夜」
1958.05 バレエ東京             「スペイン交響曲」「異邦人」「森の歌」「エレクトラ」
1958.05 トーキョー・コメディ        「生田川」「ピエロ」
1959.06 トーキョー・コメディ        「ドン・ベルリン・プリンとベリサの恋」ほか
1959.11 バレエ東京             「血の婚礼」「背徳」ほか
1961.03 マイム・シリーズ・リサイタル(1)   「白い男と影」
1961.04 マイム・シリーズ・リサイタル(2)   「競馬のあと」
1961.05 マイム・シリーズ・リサイタル(3)   「病・苦悶・死」
1965.01 グループVAV           「傾斜の存在」
1966.03 アルトー館             「爆弾」「部屋」
1966.07 ミモ・サピエンス          「ハムレット」ほか
1967.04 アルトー館             「ゲスラー・テル群論」

(肉体言語9号収録の國吉和子編「舞踊・舞踏公演年譜」/1979による)