アルトーの肖像/穴を穿たれた顔 The face of Antonin Artaud/Vents and apertures wear the face 及川廣信 OIKAWA, Hironobu(Directors of “Château d’Artaud, Tokyo”) 1. 器官なき身体 “器官なき身体”ということばがアルトーの後期論説のなかにでてくる。それを、ドゥルーズ/ガタリは社会的な制度を器官に見立て、いちどその関係を無に帰してシステムの改革を行おうとするばあいのキー概念とした。 いま、それとはべつに、アルトーが語っていた“器官なき身体”ということばのベースとなっている、ナマの身体的な構造原理をここでさぐってみたい。 アルトーのばあいは、人間の器官は神がつくったものとしている。それを無にして、つくり変えるということは神に反抗するということである。 アルトーの初期に、肉体の価値を強調していたが、肉体と精神を比較したばあい、結局、精神を上位に置かざるをえない、といっている。精神のための肉体だったのである。が、肉体はあくまで精神と密着していた。 彼にとって精神とは、いったいどういうものだったのか。厳密にいうと日本での魂に、それは近いものだったような気もする。彼はサムライに関心をもっていて、かれの書いた戯曲のなかに登場させている。 魂は、神とか魄ではない。中国の古典『生気通天論』によると、魂という文字は云(言葉)と鬼(死者)からなっている。ユングの人類の記憶の集合体として の、集合的無意識にちかく、生命活動が終わると身体から遊離する。それは、背後から声により語りかけてくる霊的存在である。 ただ、アルトーのばあいは、この魂としての精神が身体と密着している段階に価値を置いているように思われる。根源的な思惟機能と自我が永遠性をもって意識され、中心的な精神のあり方を問題にしている。過去や未来へではなく、只今への、現在時にのみ関心をもっていた。直接感じとる感情は“怒り”であり、五臓のなかの肝臓においてである。 ところで、この“器官なき身体”の器官という語を定義することから始めたい。臓器だけではない、知覚、行為のための道具というだけでもない。 五世紀ころの学者イーシュヴァラクリシュナの著作『古典サーンキア体系概説サーンキア・カーリカー』と、サーンキア学派の学説を組みこんだパタンジャリの『ヨーガ根本聖典』を参考にして以下に述べてみたい。 2. 『サーンキア・カーリカー』 最初に、『サーンキア・カーリカー』(長尾雅人、服部正明:訳)の中の図式を借りて、下に提示することからはじめよう。 【諸原理開展の秩序】 精神原理 −思考器官 −十一器官− −知覚器官(耳・皮膚・眼・舌・鼻) 原質−理性−自我意識 −行為器官(発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官) −五粒子 五元素 (音・触感・色・味・香)(虚空・風・火・水・地) まず、宇宙の根本原理として、精神原理(プルシャ)と原質(プラクリティ)が挙げられる。二元論である。 神は存在しない、としているが、先に述べたアルトーの精神に近いものが、物質(肉体)から分離されたかたちで純粋に精神原理として存在している。そしてこの精神原理(プルシャ)なるものが、自然の質量因としての原質(プラクリティ)の展開に影響をあたえるのである。 上図では、11の器官が数えあげられている。五臓六腑がその中に入っていないのは、それは基本的な生命器官であって、世界における人間の秩序展開のための 器官とは異なるからであろう。からだを発生器官と生活器官とに、また、表皮の外界との接触器官とを区別して考えられたものであろう。 思考器官というのは、思考(マナス)が知覚器官と行為器官に密着しているので、これも器官として数えられている。十一器官と五粒子の2つが対立しているのが分かると同時に、思考器官と自我意識と理性とが連結しているのも理解される。自我意識とは、知覚し、思惟したものを自己に関係づけて意識化すること。理性とは、自我意識が対象に対して自分の意志を決定する働きである。 「理性」というとヘーゲルなどの「理性」を連想し、なにか西洋的な感じがする。東洋的な訳の段階では、“覚 buddhi”の働きをもつ<大いなるもの>とよばれる思惟機能を指す意味で「大」と命名されていた。 原初的物質としての<原質>は、三つの「存在様態」を有しており、この三様態が原質を変化、進展させてゆく。そのような属性を「グナ」という。 3.「ヨーガ・スートラ」 グナとは、1.純質(sattva サットヴァ、浄化作用、明)2.激質(rajas ラジャス、活性化、力)3.暗質(tamas タマス、活動停止、暗)の3様態である。 さて、この十一器官に対する3つのグナの働きはサーンキアとヨーガの説では若干の差があるのだが、いまヨーガの立場から述べると、純質のサットヴァの浄化作用は十一器官のすべてを浄化させる。また、激質のラジャスの活性化は十一器官を、とくに行為器官を活性化させる。 暗質のタマスのばあいは、サットヴァの浄化作用と対立する下降意識、また、“怒り”の感情によって器官の通路が閉ざされる。いわゆる“器官なき状態”とな るのだが、ただしこの際、音・触感・色・味・香の五が働くことになる。これがまた、虚空・風・火・水・地と相対して関わってくることになる。 要するに、からだの内部器官が無の混迷状態となり、耳・皮膚・眼・舌・鼻の知覚器官が皮膚肉の表面へかえり、感覚が表層化し、空腸動物のように宇宙空間とちょくせつ接することになる。 発生学的にいうと、神経は大脳とか背柱から始まったのではなく、からだの表面の皮膚下からはじまっている。いまでは、顔に五官の窓口としての知覚器官が集まっているが、もとは皮膚が五官の用をなしていた。 アルトーの神経と音色の重要視は、たぶんこのあたりから来ているのだろう。 以上、“器官なき身体”をヨ−ガの観点から述べたが、アルトーの“器官なき身体”はこのような生理的、または心理的段階を超えて、観念化し、形而上学の次元にまで達していることは勿論であるが。 4. 母音 ジャン=ルイ・バローの著作『演劇についての回想』の中にアントナン・アルトーの話術論が紹介されている。以下、母音についての項を意訳する。 「書く人は5つの母音を知っている A E I O U 話す人は15の母音を知っている。 書く人の5つの母音に対して、それぞれ 開かれた母音 半開きの母音 閉じた母音 がある。 声は、また、この15の母音を4倍にして使われる。 ことばの15の母音の響きが、それぞれつぎのところに置かれる。 下唇 のど 上口蓋 上唇 下唇は 消化の中枢に応じている のどは 欲望の 〃 〃 上口蓋は 知性の 〃 〃 上唇は 神経の 〃 〃 母音が下唇、のど、上口蓋、上唇などの上でひびくようにさせるのは横隔膜の振動によってである。 母音は呼気に音の振動が加わったものである。 声の基本的な4つのサ−クルをもとに、15の母音を変化させることによって、 音階のように、一連の訓練を仕立てることができる。 母音は呼吸から生ずる一種のひびきの破片である。 人間が呼吸のなかに誕生を見い出すということ。 生命の基礎的宣言。 いきのひびく証し。」 アルトーはタラフマラに発つ以前、バローに話術のメソッドを密かに教えてあった。 ところで、なぜ 下唇は 消化の中枢に応じている のどは 欲望の中枢に応じている 上口蓋は 知性の中枢に応じている 上唇は 神経の中枢に応じている のだろうか? その疑問に次の章で応えよう。 5. 内丹術 “器官なき身体”について語ってきたのに、なぜ、ここで突然に声のことに触れるのか? しかし、アルトーの晩年の声の録音を聴いたことのある人は、そのつながりに不思議を持たない筈である。また、同時期のアルトーのデッサンを見たことのある人は、表情に対してもおなじような直観力をもつことであろう。 最終的に、声と表情はアルトーにとって、いちばんの関心になっていた。人間と宇宙とが交感するための器官のなかで、顔と声は、自己主張することのできる、細密な穴で穿たれた面であり、精気のエネルギーの射出であった。 また、表現器官であると同時に、もっとも人間の精神深部をさぐることのできる器官であり、存在の様態の色合いを感じとることのできる対象でもあった。 問題事項に入ろう。 下唇は 消化の中枢に応じている これは単なる消化の問題でない。消化を目的としながらも、からだの電流の配置を行う電源板の役割をになっている“胃”と、下唇が関係していることをいっている。 分子生理学ではまだ十分に証明されていないが、“気功学”では、人間が生まれた時からもっている「先天の気」はお腹の丹田にある。“地”から吸収する気は腎臓に精気として保持され、丹田と直接むすびついている。 一方、外気と食べ物を口からいれる「後天の気」にはからだを養う“営気”がある。この配分を行っているのが、胃のはたらきであるが、それを下から動かしているのは腎臓である。胃は消化したものを体内に循環させるために血管へ回す。と同時にホルモン、リンパなどの粘液系も配分する。それに食物に含まれていた空気を肺にまわし、血流と関係の深い経脈の網の目の出発点は胃である。 のどは 欲望の中枢に応じている 食べ物は口から入り、肛 門から排出する。生殖器が膀胱から分離して枝別れするに及んで、肛門と生殖器の間に“会陰”という下部の中心点ができる。これと上部の頭頂の中心、“百会 ”とを結ぶと垂直軸となる。人間は直立姿勢をとった結果、魚とちがって口が頭部の先端でなく、顔の前面に位置することになった。したがって、会陰よりからだの前面をのぼって下唇までの経脈が“任脈”、会陰からからだの背面をさかのぼって、頭頂の百会を通って上唇までの経脈を“督脈”という。 会陰 と尾てい骨、(性器とつながる)仙骨が、精気と欲望のエネルギーを腎臓に蓄積させる。さらに、その気が背柱を上昇して声門に達する。声門とその上部は喉にあたる。口蓋垂(ノドチンコ)のところは咽である。呼吸は肺から空気を送りだし、また吸いこむ。送られた空気は声帯によって振動させられ、声を生じる。音色の源流は、まずこの声帯の緊張度によって生じる。 6. 上口蓋は 知性の中枢に応じている 声帯の振動によってつくられた母音は、口腔、鼻腔などの共鳴腔によって音色が与えられる。また、唇、歯列、歯茎部、口蓋、口蓋垂、舌などによる調音運動で子音がつくられる。母音は生命的なもので、子音はその流れを遮るものと考えられる。 上口蓋の前半部は硬口蓋、後半部は軟口蓋で、その先端の口腔垂が咽頭に垂れさがっている。 漢代の『霊枢』には発声機構としての咽喉について次ぎのような説明がある。 「気管は気が上下するところである。 口頭蓋は発声するときの戸口である。 口唇は発音するときの扉である。 舌は発音するときの<ばね>である。 口蓋垂は発音するときの留め金である。 後鼻孔は分かれた気が出てゆくところである。 舌骨は霊妙な気が舌を発動させる働きをもつ。」 上の命題の上口蓋は、明瞭にひびく硬口蓋をさしている。両鼻翼の下サイドに“仰香”というツボがある。脳幹から前頭部、眉間から鼻腔を下がって仰香にいたる。仰香から硬口蓋へ、それから喉の中心部へ、さらに気管を下って肺から臍を過ぎて丹田に至る。 上唇は 神経の中枢に応じている このばあいの神経とは、おそらく感受性のことをさしていると思う。 私は東洋、西洋に共通する客観的な身体定義、知性地帯/感覚地帯/官能地帯の3分割と、主観的な精神面の3要素、知/情/意の表裏をそのまま、発声、発音器 官に当てはめたものと思う。すなわち、上口蓋は知性地帯、上唇が感覚地帯、下唇(と舌)が官能地帯。顎は意志を。そして喉が欲望を。 ルネサンスの画家レオナルド・ダ・ヴィンチは、顔を上・中・下の三つの層に区別けして(その区別けは、髪の生え際から眉間までの上部、眉間から鼻の下までが 中部、鼻の下から顎先までが下部とした)上部を知性地帯、中部を感覚地帯、下部を官能地帯とした。ダ・ヴィンチは、科学者であると同時に、当時のネオ・プ ラトニズムの影響を受けて神秘主義者でもあった。また、同じルネサンスの画家、アルブレヒト・デューラーもこの三区分を考えたが、鼻の下と耳の下を線でむ すんで、顔の側面測定のための基準線とした。これが“デューラーの水平線”とよばれる。 19世紀末にはアンドレ・デル・サルトーが“デルサティズム”を主張し、この3区分を身体の全体と各部に当てはめた。その理論がヨーロッパ全体に普及し、演劇、ダンスにも強い影響を与えた。 7. 気と経絡 私は、この『アルトーの肖像/穴を穿たれた顔』への前提となる“器官なき身体”を述べるにあたって、無意識に、事の道筋をたどる演繹的な手法と、複合的な要素の上に立つ総合的図式を描く方法をとっていたように思われる。 しかし、ここまで読まれた方はたぶん最新の科学的な発見と技術に触れることなく、旧い気功学の用語を使って述べているので、いささか不満を感じられるかもしれない。伝統的な直観的な経験に立って述べているだけで、綿密に科学的に証明しようとしていないからである。 しかし、以下のアルトーの『演劇とその分身』の中の「感性の体操」の文を読まれると、身体の内部の筋道を演繹的に語ろうとする当面の私の意図は、そんなに的はずれでないことが分かっていただけると思う。 “気”とか“陰陽”という概念で描く世界は、旧いようでいて、じつは最新の分子生理学、または分子生物学がめざしている対象とかなり近似しているように思 われる。この20年来、大木幸介氏などによってそのことが科学証明されつつあるが、その成果を利用することは、今回は避けよう。 「人間が重いものを持ち上げるのには腰を使う。腰を曲げることによって両腕の力もさらにいっそう補強できる。面白いのはその逆に女性的で落ち込んだ感情、たとえば嗚咽とか、嘆きとか痙攣的な喘ぎとか恍惚状態とかがその虚脱感を表すのがまさに腰の高さのところだと認められることである。そして、その同じ場所に中国の鍼術の腰のツボが散在している。それというのも中国の医術はすべて虚と実によって行われるからである。凸と凹、緊張と弛緩、<陰と陽>、つまり男性と女性である。 また、別の放射点、それは怒りや攻撃や非難の部位で太陽神経叢の中心にある。頭はその精神的毒液を投げつけるためにそこを支点とする。 ここでは、この技術的な小論の主題である実りある諸原則をめぐっての幾らかの実例を挙げるにとどめたが、別の機会があれば他の論文によってこの体系の完全な解剖を行いたい。中国の鍼術には380のツボがあり、そのうち主だった73の点が通常の治療に用いられている。それに比べて我々人間の感性の出口は粗雑で遥かに数少ない。したがって、魂の体操の基盤として指定できる力点も遥かに少ないだろう。 秘訣はこれらの力点に、筋肉から皮を剥ぎとるような激痛を与えることである。 あとは、叫び声がすべてを完成してくれる。」(安堂信成訳) 8. 叫び “胃の消化”を解明することが、からだ全体の機能を知る基盤となったが、それ以前は声とからだの位置との関係を知ることが重要なことだった。 たとえば、空海の「声字実相義」と「吽字義」では、アエイオウのからだの位置とその色会い。また、吽(hum)の発声によって、自己が宇宙と一体となる、ことなどを説いている。 一方、中国に三千年前から伝わる気功の“六字訣”のばあいは、音と内臓との関係は次ぎのようになっている。 肝臓(シュー)心臓(コー)脾臓(フー)肺臓(シャワー)腎臓(チュイー)三焦(シー) アルトーの叫びは、彼の前文を読むと推測できるように、存在の基底の確認なのだろう。かって青年期に、演出家のシャル・デュランに芝居の役を振られた際、四つん這いで演技をはじめたというが、それと同じ意味をもつものか。 昨年、2000年の2月にプランBで行われた、アロン・ウィリアムソン(Aron Williamson)のアンチ・スピーク(Anti-Speak)という公演は、この叫びと身体の動き、または表情とのつながりを知る上で大いに参考になった。 ウィリアムソン氏はロンドンに在住し、『アントナン・アルトー伝』の著者、スティーブン・バーバー氏の友人である。氏はある時期から聴覚を失ったらしいが、以後、パフォーマンス・アーティスト、コレオグラファー、ライターとして、聴覚を失った者の立場からパフォーマンスとインスタレーションの仕事を行ってきた。これらは、アルトーの理論への共感からはじまった。 彼の公演のテーマはアンチ・スピーク(Anti-Speak)ではあったが、ある興奮度に達するたびに、叫びのボイスを発し、その振動のリズムに乗って動きと表情を展開していっているように思われた。 それは、意味とか記号の世界とはちがって、身体が追い込まれながら、危うい境地で、かすかなバランスを保っている、怒りと撹乱の持続帯であった。 ウィリアムソン氏とは公演の前、短時間だが喫茶店で会って話したが、かれはその時、身体は皮膚に包まれた袋のようなもので、シェーカーのように中身を振動 させることから始まる、と言っていた。まさしく、それは器官なき身体の状態のことだろう。そして、“唯識論”でいう、主観と客観が「能記」「所記」として意識のなかに対峙し、二つのせめぎあいから声を発せざるを得なくなり、それが細分化されたとき言語が生ずる、という原理のうえに立っている。 9. 顔面表情 顔面表情については、フランスのエルミニアンヌによって29対の表情筋の快、不快、感情、意志、コンプレックスの表出の役割が解明された。また、表情筋の時間の継続と、凝縮による状態の固定化の法則が定義された。その全体の様相によって、複合する無意識層も推測できるのである。 しかし、無意識層の下にはいったい何が存在するのか。その時、大乗仏教と禅がひらいた“空”、“無”の観念が重要な意味をもってくる。 そこには、生体をつくる働き、既につくられた組織の隙間に穴を穿って再創造しようという生の動力がある。それは、生命のエネルギーと、発射と同時に配置される数による構造である。 以上述べてきたことは、アルトーの晩年に書かれた『俳優を狂気にする』の中に凝縮されているのを、ここに至って、知る。その最初の文を掲載しよう。 「 演劇は 状態 場所 点であり そこでは人間の解剖学を捉え、またそれにより生を回復させ、かつ、統治するのだ。 そうだ 熱狂と いななきと 腹鳴りと 空の穴と 掻痒症と 赤斑と 循環の停止と 血の混じった大渦巻と 血液の刺激に敏感な急突進と 体液の交点と 継続と 躊躇とである生 それら全ては肢体の上で見分けられ、方向を決め、探究させられ解明されるのだ。そして活動状態におかれる。つまり私が言いたいのは、全肉体がこのすばらし い生命力に満ちた崇拝物の手足のように、全くひとりの俳優の手足を激烈な発作を呈する活動状態におくことであり、それによって人々は透明性の中に、あるい は最初に生じた力や利用されていない力の存在の中に、あからさまに生を見ることができるということなのである。」(坂東光之訳) (初出:「ICANOF Media Art Show 2001」/2001.09) |