エティエンヌ・ドゥクルーとその時代——現代マイムの確立まで 及川廣信(舞台制作、マイム研究家) この書物は、おそらくバレエの「ノヴェールの手紙」に匹敵するマイムの古典として後世に残るであろう。また、ここに書かれた内容の苦悶の痕跡は、世阿弥の「風姿花伝」を髣髴させる。 エティエンヌ・ドゥクルーといえば、ジャン=ルイ・バローとマルセル・マルソーの師で、現代マイム(ドゥクルーはそれをコーポラル・マイムと名づけた)の礎を築いた人である。ただ、この現代マイムは、一般に考えられているようにローマ、ルネッサンスから一九世紀まで続いた西洋の伝統的なパントマイムに、そのまま連結したものではない。たとえば、一九世紀のロマンティック・パントマイムと比較してみると、そのフィジオノミー(顔面表情術)、形式的な大仰なジェスチュアとアクロバティックな動きに対して、ドゥクルーのめざしたものは、あくまでも身体と動きの科学的な分析を土台にしたものだった。また、「分節言語」のように身体を分節することによって意味性を表わすと同時に、動きを通してさらに人間の内部生命に触れようとするものだった。 これはドゥクルー自身の真摯な芸術態度によることはもちろんであろうが、当時の、または一九世紀末以来の芸術傾向と密接な関係があってのことでもある。 というのは、時代風潮として、演劇のうえで言葉に対する不信が叫ばれ、代わりに言葉で言い尽くせない部分を、身体が直裁感覚的に表現することを期待する傾向にあった。そのため「沈黙の演劇」などというものもつくられ、一九二〇年代には新しいマイム芸術が発生する下地が整ってもいた。 しかし、この基礎のうえにマイムがスタイルという新しい衣装をまとって形成されるには、二つの事象が大きく作用していたとも言える。それは、一九世紀後半からのシンボリズムの伝統と、二〇世紀当初の芸術の実験的行為である。 マイム芸術はシンボル形式の形態をとっていることは必然と思われる。ランボーやマラルメなどの文字のシンボリズムとは別に、演劇のシンボリズムは一八九二年のメーテルランクの「ペレアスとメリザンド」で初めて明確な主張がなされた。これは紗幕を通してみる曖昧性の中に、内面的な感覚の呼応を観客の心の中に生じさせたものだった。そして、言葉の意味よりも音色、色彩、またマイム的な身体の動きのコレスポンダンス(交感)を主とするものだった。 シンボリズムの発生をたどると、もとはロマン主義につながるものだが、ワーグナーの楽劇、特に「指輪」の連作は音楽を中心としたドラマティックな全体芸術であると同時に、内容は象徴的なものだ。しかし、作品の意図にそった演出がなされたのは、そのずっと後のワーグナーの孫のヴィーラントによってだった。彼は一九五一年にバイロイト祝祭劇を再興し、アピアの理念にそって新バイロイト形式の演出方法をつくり上げた。 そして、典型的なシンボリズムの作品としては、われわれはドビュッシーの音楽によるロシアン・バレエ団のニジンスキーの「牧神の午後」(一九一二年五月二九日)を思い起こす。 また、同じ躍りでもラバンによるモデルネ・タンツの運動もあった。ユングの元型説に通底した形で、象徴的なフォルムによって人間の心理の元型を描こうとするものだった。 一九二〇年代に、現代マイムが発生し、基本的にシンボル形式を受け入れたのは、この時代の傾向としてごく自然のことであった。しかし、ドゥクルーはこのシンボリズムから抜け出ることになる。彼は感覚的なものはよしとするが、曖昧なものを嫌う。そして、シンボリズムはとかく全体芸術に向かうが、彼が望んでいたのは純粋芸術だった。 実験的なものとしては、その典型的な一つは一九一二年七月四〜六日にドレスデンの近郊のヘレラウのサマーフェスティバルで行われた二つの作品である。一つは、アピアとダルクローズによる「エコーとナルシス」で、これはグルックの「オルフェオとユーリディス」の冥府の舞踊劇の場面で、作品全体は同じ二人の共同作業により一九一四年ジュネーブで行われる。もう一つはリュネ・ポー演出によるクローデル作「マリアのお告げ」である。これもアピアの装置で、ダルクローズの協力のもとになされた。 ダルクローズはリズムを身体の動きの中心的なものとしてとらえており、このダルクローズやラバンの実験的公演は、いずれもリズムによる全体的統一と、感情の凝縮と拡散のシンボル形態を通じて、人間性の根源的な原理を探ろうとする動きだった。 アピアもまた、総合芸術を統一するものとして音楽を考えており、このあたりがダルクローズと意見をともにする理由だった。しかし、アピアの本領は舞台美術と照明の空間配置による演出で、彼は一九世紀以来の平面的な書割りに代わって、人間の動きにそった立体的な舞台装置を考案し、また光に対する新解釈による照明効果も革新的なものだった。 この公演には多くの著名人が各国から集まり、その中にはロシアン・バレエ団のディアギレフや有名な演出家のマックス・ラインハルトの姿もあった。後にロシアン・バレエ団でストラヴィンスキーの「春の祭典」などの前衛的な作品が上演されるようになったのも、またラインハルトなどの表現主義やロシアの構成主義などの形式が起こるのも、この公演と前述の二人の「オルフェオとユーリディス」(一九一四年)、それにアピアのミラノスカラ座でのトスカニーニとの「トリスタンとイゾルデ」(一九二三年)やスイス、バーゼルの市立劇場での「ラインゴールド」(一九二四年)「ワルキューレ」(一九二五年)などのワーグナー(*1)作品の上演によるものとされている。 二〇世紀の舞台芸術の演出中心主義は、このアドルフ・アピアと彼よりも一〇歳若い英国のゴードン・クレイグによってつくり出された。 一九〇〇年頃からゴードン・クレイグは舞台装置のデッサンと演劇論(『劇芸術論』一九一一年)とその実践活動によって、すでにアピアより高名であった。彼は演劇を舞台装置中心に考え、演劇の中の理想的な俳優として「超人形」なるものを提示していた。それは劇中で俳優がマリオネットのように動くことを理想とするものだった。そしてその動きのうえに、言葉、リズム、色、線の統一的な総合化を図り、その中心的な任にあたる者を演出家とした。彼の実際の演出は一九一一年のモスクワ芸術座での「ハムレット」で、スタニスラフスキーやロシア構成主義に多大な影響を与え、ガストン・バティ(ドゥクルーは彼のもとで俳優となった)も、このクレイグの演出法に近い立場にあった。演劇を俳優中心に考え、俳優術の根幹を生身の身体と見るドゥクルーの演劇観と、このクレイグの演劇観とは相反する。しかし、クレイグのマリオネット観とドゥクルーの機械的な身体観とにはある種の通底するものがあり、ドゥクルーはクレイグを尊敬し、晩年には師として交友を保った。 歌舞伎の演技は文楽の人形の動きを取り入れることによって形成されたのだが、これらの動きはそれと同じ経路をたどろうとしていたことを示している。ドゥクルーはクレイグの「超人形」を仮定としてとらえていたようだ。 この人間以上に純粋に内部感情を表出する人形の動きに対する着眼は、既にそれ以前にもあって、一八九六年にリュネ・ポーの制作座で初演されたアルフレッド・ジャリの「ユビュ王」はそもそも人形劇のためにつくられた台本だった。しかし、この人間による人形劇の上演は、象徴主義の抽象理念を飛び越えて現代演劇に導くものであった。それは、あらゆる蔽いを取り払って露呈するスキャンダラスな上演だった。 もう一つ、実験的なものとしてアントナン・アルトーの主張する「残酷演劇」の実現として一九三五年に公演された「チェンチ一族」についても触れたい。これは上述の「ユビュ王」とともにアヴァンギャルド演劇史の記念すべき公演である。 この「チェンチ一族」の表現形式は直線による幾何学的記号の方法に特徴づけられていたという。それはオペラやバレエに利用された理念的なユークリッド幾何学とは違って、直線的にその根源に迫ろうとする指向と、内奥の記号的構造の直感的な洞察だった。 それは、アルトーが「チェンチ一族」の公演の不評の後、メキシコに旅した時の経験をもとに書いた「タラフマラ族」を読むとアルトーが透視していたものがよく理解できる。また、視覚的にはアルトーの信頼を受け、この「チェンチ一族」の舞台装置を一任されたバルテュスの絵画作品の技法によってもそれを推測できるだろう。 ところで、この「チェンチ一族」の公演にバローが出演するはずだったが、一人の出演女優と折りが合わず、アルトーを尊敬し兄事していたにもかかわらず、役を降りることになる。そして、当日のプログラムの出演者欄を見て驚くことは、その中にエティエンヌ・ドゥクルーの名前が載っていることである。 バローがドゥクルーとアルトーの二人からマイムと演劇の真髄を受け継いだことを、彼の著書『回想』などで公言しているが、アルトーとドゥクルーの二人はあたかも接触がなかったかのように互いに相手のことを語らない。 しかし、エティエンヌ・ドゥクルーのシステムの中には、明らかにこのアルトーが感じた指向的な幾何学的記号と同質のものがある。それは直接的に固定したフォルムで元型を描こうとしたラバンなどの象徴とは違うものである。 ドゥクルーは幾何学を取り入れるためにクラシックバレエ(*2)の技法を応用した。瞬間的に角度を変え、または直線的に変形する幾何学的なアティチュード(態度、心理的または状況的ポーズ)は、人間のその時の精神的な在り方に迫ろうとする幾何学的な記号法であった。そして、ドゥクルーはこの幾何学的技法を単なる抽象として使うことを嫌った。生身の身体の中に見え隠れして作用する指向の線として、実体構造の骨組みとして、また、空間に乗り出す精神の働きとして使おうとしたのだ。 フランスのジャック・コポーは一九一五年に、ジュネーヴにダルクローズを訪ね、そのあと一緒にアピアの住むグレロールの城を訪ねる。そして、アピアが語る演劇理念に感動し、その方向ですすむことを決意する。 エティエンヌ・ドゥクルーのマイム経歴は、一九二三年にこのジャック・コポーのヴィユ・コロンビエ座の学校に入ることから始まる。その後マイム研究の模索を続けながら、ガストン・バティの劇団の後、シャルル・デュランのアトリエ座に所属する。一九三〇年にサール・ランクリィとともにマイム作品「原始生活」を上演。一九三一年に同研究所に入所したジャン=ルイ・バローと出会う。そしてバロー一人を相手に本格的なマイム修練に入る。 この二人の修練と実験の成果がはじめて公に認められたのは、一九三五年六月に行われたバローの公演だった。フォークナーの小説「死の床に横たわりて」を翻案した「母をめぐりて」の上演である。それは、皮肉にも「チェンチ一族」の一月後のことだった。だが、アルトーは『新フランス評論』誌の劇評でそれを絶賛する。アルトーは間もなくメキシコに旅立ち、バローはその後「セルヴァンテスのニューマンス」(一九三七年)、「飢え」などのマイムとせりふの混合劇を上演の後、しだいにクローデルの全体演劇の方向に向かってゆく。 以後のドゥクルーの活動については、次のジャン・ドルシイ氏の論を参考にされたい。ドゥクルーのマイム教育について言うと、一九四一年にマイムの学校を設立する。またパリ大学での特別講座のほか、アメリカのアクターズ・スタジオでの長期滞在の客員講師や、ミラノ・ピッコロ座での講師などがある。 マルセル・マルソーはドゥクルーの学校に学ぶ。そのあと現代風のピエロの「ビップ」というキャラクターをつくり、「スタイルのパントマイム」によって象徴的なコレスポンダンス(交感)を演じ、また多数の出演者による「ミモドラム」というドラマ形式をも生み出す——「暁に死す」(一九四七年、ドビューロー賞)、「縁日」(一九四九年)、ゴーゴリによる「外套」「モンマルトルのピエロ」(一九五二年)。マルソーの世界巡演とその人気も手伝って、現代マイムはこのあたりで確立する。 マイム運動の旗手、ドゥクルーの理論と実践の内容は、この著書によって詳細に知ることができる。そして、彼の演劇との、ダンスとの、あるいはマイムとの対話は上述した歴史的状況の中で語られている。 すべてを物理学に、あるいは筋肉に還元する傾向があり、また、ダンスについての意見は、その頃とは違って、今では日常的、または自然さに近づいているが、これらは避けられない時代の傾向によるものである。しかし、よく読むとドゥクルーは頑なに主張しながらも、それに反する立場、あるいは未来をも想定しているようだ。この本の特徴は、いまではもう求められない新しい芸術への熱意と、胸をつくような真実の粒々が読みとどまるごとにたくさん見出されることである。演劇の人、ダンスの人、マイムの人、そして一般の人にも、読みようによっては尽きない泉をこの本は与えてくれるでしょう。 最後に、長年の苦労のあとにこの書物を訳出された小野暢子さんに、讃辞を表します。また、監修者である並木孝雄氏の冥福を祈ります。 (初出:「マイムの言葉——思考する身体」/ブリュッケ(星雲社)/1998.06.20) 採録者註 *1 原文では「ワグナー」 *2 原文では「バレー」 *2009年6月現在、すでに当該図書の入手が困難になっている(たとえば紀伊国屋書店BookWebでは「入手不可」と表示されている)ため、その価値を考慮し、採録した。 |