外延化する壁の音楽

外延化する壁の音楽
豊島重之

ベルリンの壁が崩壊しプラハの石畳が躁めいている。一九一〇年代、この二都に共鳴する微細な音に明澄な聴力を示したカフカ。そして、一九八九年、前衛作曲家・高橋悠治がその耳と壁に挑んだ。「カフカ・プロツェス」(11月18日、23日。東京有楽町朝日ホール)。このコンサートを「国際カフカ・フェス」の主催者である豊島重之氏に論じてもらった。

——片手のうごきを両手にわける。ふぞろいな、つまづく線ができる。(高橋悠治「カフカ/夜の時間」)

 ベルリンの壁が崩壊しはじめた。そのさまはまさに、“支那の長城”だ。プラハの路地が大きく蛇行し、ワツラフの石畳も一斉に内破しはじめた。ブルタヴァにかかる“橋”さえ動転する勢いだ。壁と路地と長城と橋をもたらしたもうひとつの共鳴音とは、六百通もの手紙を時には日に四通もフェリーツェに書き継いだ一九一〇年代のカフカと、壁が築かれて間もなくのベルリンで六八年の地殻変動を告知した二作を発表し、それを近年プラハの路地へと噴流させた新たな二作を展開する高橋悠治、という実に示唆的な対置であろう。
 カフカにとって吊り橋のような小部屋のプラハの壁は、フェリーツェが微かな寝息を立てるベルリンの壁と少しも違わなかった。書けば書くほど狭まりを増す手紙魔の独房にあっては、便箋も文字も余白もみるみる退縮していき、もはや手紙自体がペン先のように鋭くうねる路地と化す。そのことで逆に明澄さを増す夜の夜をかいくぐって、寝返りの衣ずれやのど笛のかすれ、汗ばむ壁の軋みさえたぐり寄せることができる。あたかも晩年の短編「穴巣=バウ」で壁に頭打ちの苦役を愉しむもぐら(モル)が、壁ごしに空耳ともつかず漂う微分子状(モレキュラー)の躁めきに戦慄と喚起をかきたてられる有様なのだ。あるいは電話の信号に子供の喃語や間遠な歌声を、教会の鐘の音に別種の旋律を聴きつけてしまう「城」のK。さらには「家長の心配」の階段生物オドラデク、その木製のだんまりと枯葉でできた笑い。こうした病的なまでに明澄な聴力に満ちた作品群の基層には、壁にいくつもの隘路をうがつ手紙の一方性、二都の隔たりを一挙に蒸発させてしまうゾンデの如き手紙の寄生性があったのではないか。
 高橋悠治もまた、微細な物音に魅かれるカフカの特異な耳に注目する。のみならず、手紙や日記、ノートやメモの類いのとりわけ小さな断片や放置、中断や反復、罫線の引き方や“引っ掻き”といったカフカ独特の書く手と聴く耳を架橋する。こうした姿勢は既に壁沿いの二作、ピアノ曲「クロマモルフ II」とヴァイオリン曲「六つの要素」に嗅ぎわけることができよう。句点と読点の強度と稼働、そして線分と破線の脈流と変位は、私には今なお鮮烈だ。それから二十年、フロッピーディスクを用いたサンプリング・シンセサイザーによる「カフカ・フラグメンツ」と「ヨゼフィーネ」。そこでは「或る犬の探求」に登場する過剰な身ぶりがそのまま静謐である音楽犬や、希薄な身ぶりが不貞の哲学を奏でる空中犬、掟の門番同然の猟師犬と断食犬の会話が発する圧倒的なコロラトゥーラ、それに咳やいびきやくしゃみに変位した鼠鳴きが、支那の築城法さながら寸断・放置されていて、確かに壁と耳の溶解・石畳と手の内破を心地よく兆すものだ。時折り思い出したようにヒョイと指先を動かすだけの高橋の演奏に、私は「決意」と題されたカフカのアフォリズムを想起しないわけにはいかなかった。脱却の良策とは全てを甘受すること、獣の視線をもつこと、一切の生を圧殺し、静謐のみを存立させること、そしてそのための動作とは、小指でそっと眉毛をなでることだという。
 この二作は八九年三月、八戸の「国際カフカ・フェス」でも演奏されたが、“カフカは演奏する”“鳴くひとカフカ”“実存者カフカから実験者カフカへ”と銘打った我々の主催意図を、高橋悠治は図らずも実現してくれたように思う。その彼がジョン・ゾーン、三宅榛名と組んでカフカを全面展開したのが「カフカ・プロツェス」、いわばカフカ工程・カフカ奏法と名づけられた“カフカの耳のための”コンサート(十一月末・朝日ホール)である。

——ただ、向うではちいさな事物があり、ここでは咆哮する物質の嵐がある。(W・ゴンブロヴィッチ「コスモス」工藤幸雄訳)

 私はカフカに反音楽とか沈黙の音楽、不条理や不可能性の音楽とかをふりあてるのは好まないし、どだいノイズ・ミュージックやミニマリズムとも全くの別物だと思う。けれど、小ささや遠さ、薄さや細ぎれをカフカから方法化してみせる高橋の切り口は明快である。これまで、語る演劇ならぬ書く演劇、観られる演劇ならぬ視る演劇、その平行性の演劇をかの二都でも試行しつつ、いくぶんかカフカの目とはなっていても耳になり損ねてきた私にとって、“紙の上に紙のように書く”スリリングな二夜となった。三宅の研ぎ澄まされたリテラリズム、あるいは入れ子状の「寓意」、指の一本はここにいなくてはならない鍵盤の「夜」。が、チャン・ジンリンのことらに美しい中国語と巻上公一の貧寒な日本語以外に、どんな異語や死語も演出してこなかったのは何故だろう。「カフカ・フェス」にも来八・公演してくれた三原弟平京大助教授による“カフカにとって壁こそが音楽であった”という論及を、高橋が並行的にモジュレートしていく畳語法的な営為もまたカフカと呼応するところだ。というのも、東西を分断してきた境界の消滅において露現するものは、宿望された内外の融合ではなく、むしろ内なき外と外なき内という、さらに濃密化した平行性の事態なのだから。ゴンブロヴィッチの「コスモス」において、酷薄なまでに平行化してやまぬのは、カオスとコスモスではなく、ミクロカオスともう一つのミクロカオスなのだ。手紙のカフカがこのパラタクシスの方法の先駆であるのは断るまでもなかろう。
 ジョン・ゾーンは「訴訟=プロツェス」と「城=シュロス」という二大長編に取りくんだ。形態1・2と称する二夜の四作とも、風景がめまぐるしく変転する前作「ゴダール」の手法と同じだ。細部まで過剰に視ることが聴くことを出来させるカフカは、ここでは見事に転倒されて、過剰に聴くことが視ることを乱立させることになる。違いがあるとすれば、ピアノ音を主調とした「訴訟」ではゾーン自身が登場して、三人の演奏家に最小限のサインを送ってサウンドスケープの切断と転位を促す。コンダクターというよりプロンプター、影ゼリフというより即応者といった出でたちだ。それが不在の「城」では、ターンテーブル・スクラッチ(クリッツェルン!)のC・マークレィと高橋・三宅が多彩な音色を駆使する一方、三人各様にゾーンの機能を強いられる。つまり一対三対応という点では二作に変りはないが、それが内的に褶曲する点では「城」のほうが平行性の強度を増すわけである。このことは、まさしくカフカの両作にも翻って吃水するところであろう。果たして二夜の二十日鼠一族は、カフカの手たちに対してカフカの耳たちでありえたろうか。
 これが音楽の新しい動向か否かは判りようもないし、およそ現代音楽とかその突破口とか、高橋がカフカならこっちはキャロルだとか、私にはどうでもよいことだ。ただ、ひたすら手紙のように外延化し、どこまでも遠隔化していく長城的な思考だけが、その次元にはない静謐を召喚することができるのではあるまいか。

(初出「図書新聞」1989年12月9日(土)」

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