モレキュラーシアター『HO-koriの培養・Ⅱ』のためのノート

モレキュラーシアター『HO-koriの培養・Ⅱ』のためのノート
八角聡仁
YASUMI Akihito(theatre critic)

 (1)

 「映画では、私たちはみな〔  〕であり、残酷なのだ。」
 一九二〇年代のアントナン・アルトーが映画をめぐるアンケートに答えて記した右の一節をどう読むか、「フィルミスト/皮膜の人」とアルトーを呼ぶのはそこに由来すると豊島重之は言う(本誌前号「フィルミスト・アルトー」)。そのエクリチュールの表層に裂開した「空隙」には一体どんな言葉が選ばれようとしていたのか。豊島はいくつかの可能性を提示した上で、最後にその問い自体を退ける。空隙はいずれ充填されるべきなにものかの不在なのではない。それは「非在 - イマージュ」ではなく「物質 - イマージュ」として文字どおりに読まれなくてはならない。すなわち、そこには一対の括弧、アルトーの別のテクストに読まれる二枚あわせのmembrane=薄膜こそが見出される。

 「あの滑らかな膜が空中に漂い続けるだろう、滑らかで腐食性のあの膜、あの二枚合わせの、多様な段階と無限の裂け目をもった膜、あの憂鬱な、ガラス状の膜、しかし実に敏感で、完全な適合性をもっている膜、その裂け目、感覚、麻薬、浸透する毒性の灌流の燦めきをもって、自らを増殖し、二重化し、反転することに長けた膜が」(『神経の秤』)。さらに、それは二枚あわせのフィルムであり、光面から剥がれた切片なのだと念を押す豊島は、アルトーの提唱する「眼差しの実質そのもののなかから取り出された対立からドラマが生まれるような映画」として、サミュエル・ベケットの『フィルム』(一九六四年、アラン・シュナイダー監督)を取り上げるのだが、ここではアルトー/ベケットの重合については留保しつつ、ひとまずもう一つの「空隙」を指し示すことによってそれを裏打ち(doubler=ドゥブレ)してみよう。

 冒頭のアンケートへの回答とまったく同じ時期、アルトーはラフカディオ・ハーンによる「耳なし芳一」の物語を翻案し、そのシナリオ化さえ企てている。そこにはアルトーと映画を結ぶ主題がほぼ出揃っていると言っていい。「哀れな楽士の驚異の冒険」と題されたその翻案で、平家の亡霊の呼びかけは「あたかも事物の本質から立ちのぼって来た声」のように盲目の琵琶法師をとらえる。その声に従い、「金属の手」に導かれて平曲を語りに出掛ける芳一が「強烈な光線の感覚」に触れて体験するのは、まさしくアルトーが言う「直接脳の灰白質に働きかける」ような、麻薬にも似た映画の作用にほかならない。「すると不幸な歌謡唱者には視覚が戻って来たような気がした。まるでもうまぶたがないかのようであり、手足が全部ガラスになったようだった」。

 続いて芳一は自ら語る声を聴くことによって映像の中へと誘われる。「そして映像は彼のまわりに、海の底で見る夢のように美しく不思議に立ち現れるのだった。彼は見た、多くの美しい行列が消滅し、驚くべき花々がしおれ、そして伝説的な処女たちの顔が異様な焔の中に消え去るのを」。ハーンの原文では、芳一の聴覚による想像的な映像と、翌日その場面を目撃する僧の視覚による描写との対比が、物語の妙となっているのに対し、アルトーにおいて逆に芳一は盲人であるがゆえに「映画」を見る、あるいはむしろ「映画」そのものとなる。そして、芳一を連れ戻した僧は言うのだ、「あなたは生の外に出たのだ」と。

 周知のように、怨霊から守護するために僧は芳一の肌に経文を写し取るが、耳にだけは書き忘れる(だが、それは本当に忘れたのか?)。全身に纏ったはずの文字の衣に残された「空隙」。身体を包み込んだ般若心経という「法」の亀裂。それはあの映画をめぐる言葉の膜面に生じた裂け目とまったく同じものではなかったか。ただし、芳一を迎えに来た亡霊にとって、それはネガのように反転し、「空隙」だけが可視的なものとなる。それぞれ見ることと聴くことによって互いの存在を知覚する亡霊と芳一は、ここではその境にある耳を通じてのみ相対する。もちろん、空中に浮かんでいる二つの耳は未だ、身体なき器官にすぎない。「肉」としての自分の耳が引きちぎられる音を、芳一は「膜」としての耳で間近に聴き取る。その残酷の体験において、芳一の二つの耳は二枚あわせの薄膜として露呈し、反 - 器官と化す。「肉」を失って、「膜」となること。それが映画に、あるいは写真に撮られる(取られる)ということにほかなるまい。

 一九九四年、豊島重之とモレキュラーシアターは、俳優の顔に装着した漏斗(ジョーゴ)と、舞台の前面を覆うブラインドを二枚あわせに用いて、「目の映画」を「耳の演劇 Secretary/Secretory」へとパサージュする。前述の『フィルム』についての豊島の言葉をそのまま使えば、漏斗は「世界の遠近法/世界という遠近法を根底から狂わせてしまうパララックス=視差の失効」をもたらし、ブラインド(blind)は文字どおり盲目を見せる/盲目が見ることにおいて、「見ることの不能をまるごと〝見ないことの不能〟に全面転回」する(反)装置となるだろう。

 念のため付言しておけば、モレキュラーシアターはそこで「見えないもの」を可視化しようとするのではない。「見えないもの」は「見えるもの」の「外部」にあるわけではなく、見ることを通して、「見えるもの」の内側に折り込まれて出現するのであり、問題は「見ること」そのもののマテリアルな具体性なのだ。そして、身体を二枚あわせの皮膜として見出すために、「顔の演劇 Façade Firm」と「脚の演劇 Footnoted」が併置される。すなわち、ひとまず顔面と足の裏という一対の括弧にくくられることで、〔身体〕は芳一の耳となるのである。

 身体に書かれた文字=法は、芳一にも亡霊にも見えない/読めないものでありながら、芳一の声の奔出を禁じ、亡霊のまなざしを遮断する。そして同時に、芳一は文字に対する「不能力」そのものにおいて、文字=法の表層に亀裂を走らせ、亡霊の視線の権力をそこに交錯させる。文字を書くことは、何かを書くこと以前に、書くことと書かないことの境にある皮膜そのものを書くことにほかならなかった。文字はそこに裂け目が生じないかぎり、亡霊と交わることがない。だとすれば、文字は人間に取り憑くもうひとつの亡霊、いわば亡霊のネガなのだ(それとも、文字の裏側にはつねにゴーストが張りついていると言うべきか)。文字は器官に損傷を与えることなく、身体=精神に取り憑く。ペストのように、あるいは「心に刺青をするように・・・」。

 (2)

 モレキュラーシアターにおいて、上演されるテクストは内容以前にまず文字の書かれた膜面としてあり、演劇はそれと二枚あわせになった皮膜として上演される。あるいはその事態を、上演がテクストに寄生(parasite)すると言ってもいい(同じことを別の言葉で言い換えることによっても「空隙」が生じるだろう)。舞台でつねにテクストが翻訳と二枚あわせに、つまり一つのテクストが二つの言語で発話され並列されるのもそのためだ。上演そのものがテクストの「再現」ではなく「翻訳」なのであり、その折り重なった皮膜に生じる襞や折り目によって、そして内容に還元されることなく皮膜を透過する「名」や「数」において、多様な「空隙」が口を開ける。それを文の意味によって塞ごうとするのが一般的な翻訳であるとすれば、モレキュラーシアターの上演はベンヤミンが言う「逐語訳」である。

 「一つの器の破片が繋がるためには、それらが互いに細部に至るまで噛み合なければならないが、破片が同じ形である必要はないように、翻訳は、原作の意味に自身を似せるのではなく、むしろ愛をこめて細部に至るまで原作の意味の様式を自らの言語のなかに形成し、そうすることで原作と翻訳の両者が、ひとつの器の二つの破片、ひとつのより大いなる言語の二つの破片と認識されるようにしなくてはならない」(『翻訳者の使命』)。注意しておくべきなのは、起源としての「器」=「大いなる言語」は最初から存在しない、あるいは到達不可能だということだろう。つまり、「大いなる言語」(ベンヤミンはそれを「純粋言語」とも呼ぶ)とは、ボルヘスの「バベルの図書館」のようなものであり、われわれの前にはつねに断片としてしか現れてこない。そして翻訳=上演は、覆い(cover)としての文=意味という皮膜の側方、切断面を発見(discover)することによって、原作=テクストがすでにして不揃いの破片の連続、「絶対」的な断片であることを露呈させる。

 たとえばフラ・アンジェリコの『最後の審判』に見られる「空地」、そこに穿たれた「空洞」と、その上に散乱する板状の破片を思い浮かべてもいい。一点透視図法で描かれた均質な「空間」に、あるいは一つの有機体としての「建築」に、口を開けさせ、切り口を見出すこと、そこにおいて、「耳の演劇」はまた「口の演劇 Funneled」へと転移するだろう。断片の断片としてのL字型の舞台は、「耳の演劇」の折れ曲がりであり、また、舞台の四面をブラインドに覆われた「脚の演劇 Footnoted」のトポロジカルな反転でもある。そして、床面と壁面からなる舞台の「空間」は、足の裏と顔に「翻訳」されることによって絶えず切片化されるのだ。

 さらに文字どおりネガからポジへの反転、すなわち潜像から現像、印画へのプロセスを、舞台に/舞台としてそのまま露出(expose)することで、「写真演劇」としての「HOの演劇」が一九九六年にスタートする。HOとは、GHOSTの中に潜んでいたHO=法であるかもしれず、「HO-58」「HO-59」「HO-60」と続いていくシリーズは、その不在の起源として「HO-1」=芳一を持っているのかもしれない。そこでは写真が何らかの外部の表象として用いられるわけではない。

 「演劇は演劇である」というのが豊島重之のかつて標榜した「絶対演劇」のテーゼだが、同様に、写真は写真である。にもかかわらず、写真がそのレフェランと繋がっているのは、いわば空隙を穿たれた厚みのない薄膜によって結節するからであり、つまり写真はすべて本質的に「写真を撮る」ことと「何かを撮る」こと(この二項は様々に変換することができる)の「二重写し」なのだと言える。「暗室」という時空間そのもののdevelopとも言うべき「現像劇」と、撮るものと撮られるものが二枚あわせにされる「撮影劇」の隣接によって切り出されるのは、その極薄の膜面の切片にほかならない。

 写真は三次元を二次元に置き換えることによって、空間から1を差し引く。たとえば建築を写真に撮るとき、それは決して「全体」を捕捉することなく、つねに断片しか写すことはない。鈴木了二の「物質試行39 バベルの図書館」は、いわばボルヘスの「バベルの図書館」の「写真」である。そして、建築が時間を伴った「映画」であると考えれば、われわれが見ることのできる建築は、そのつど映画の一つのショット(plan)にすぎない。アンジェリコの絵画を図面(plan)に起こして立体化した上で、それを再び二次元のフィルムにうつしかえる「物質試行35 空地・空洞・空隙」が、そうした同語反復的な行為によって開示しようとしているのは、建築が内包しているそのショット間の断層なのだ。すなわち、それは建築=映画を、ショットのサンタグマティックな繋がりとして「読む」のではなく、パラディグマティックな関係において「書く」ことにほかならない。

 すでに書かれたものをもう一度書き直すこと、書きなぞること。あるいはルビをふること、傍点を打つこと、字幕を重ねること・・・。いわば水平に流れる映画の時間/物語に対して、垂直な場所を見出すことで、映画から1が引かれる。その様態を鈴木了二に倣って「零年」と言い換えることもできるだろう。もちろんそれは「何もない」ことでも、何かの「紀元」でもないと鈴木は言う。「『零年』とは、漠然と水平に流れてきた『歴史」がいきなり垂直になる瞬間であり、『時間』が闇雲な前進運動であることをやめ、その気になればどこにでも、またどこまでも散逸可能な『拡がり』に置き換わる臨界点、ちょうど重力に拘束されてきた水が解放されて拡散上昇可能な蒸気に変異する『相転移』の絶対的境目のことである」(鈴木了二「建築零年」『建築文化』一九九六年五月号)。

 映画のショットを垂直に切断するのは、端的には一秒間に二十四回切り出されるフィルムのコマ(フォトグラム)である。言うまでもなく、映画を構成する「見えるもの」の最小単位はあくまでショットであり(だからこそ映画は時間の持続に、あるいは「物語」に否応なく関わるのだが)、断片の断片であるフォトグラムは、決して断片を超えることなく、上映においては「見えないもの」となることで映画を映画として成立させる。映画にとってフォトグラムとは「部分」ではなく、「分身」なのだ。そして、モレキュラーシアターにおける「写真」の「演劇」に対する関係も同様に、互いに表象関係を持たず、断絶しつつ隣接する絶対的な「分身」にほかならない。

 演劇から1を引くこと。nマイナス1の演劇。モレキュラーシアターのオペラ(opera)は、そのための「手術(operation)」である。「物語」も「建築」も「空間」も1であるならば、切除しなければならない。あるいはテクストも身体も切り刻まれ、言葉の抑揚も俳優の表情も除去されるだろう。それは1というイデオロギーを解除することによって、安定した構造の内に不均衡な運動をもたらし、一つのものの中にある絶対的差異を、絶対的分身を開示する作業であり、単に複数のメディアの総合が、1の累積がオペラなのではない。

 まさしく「書く演劇」としての「GOZO-OPÉRA : san'naï」は、オペラがラテン語の原義において内包している複数性、つまり多種多様なオプス(opus)=作品の断層を顕在化すると同時に、吉増剛造の詩の裏地に潜んだゴーストを、もしくは「分身」を(詩人自身が文字の書かれた銅板を打刻するのと同じように)揺り動かし、引き剥がし、折り返すオペレーションとなる。「私たちの劇場に来る観客は、精神だけでなく感覚も肉体も関わっている本物の手術に身を晒しに来るのだと知っている。これ以後観客は、外科医や歯科医のところに行くように劇場に行くことになるのだ」(アルトー「アルフレッド・ジャリ劇場(第一宣言)」)。

 (3)

 モレキュラーシアターによる「HO-koriの培養・Ⅰ」は、一九九八年十一月、東横学園女子短大の公開講座の一環として、豊島重之によるレクチュアと同時進行で上演された。保養所として設計された建築物が「映画館」となり「撮影所」となるのと同じように、仮設の「劇場」となった階段状の教室には、平台が運び込まれ、脚立が設置される(脚立とは「階段」であり、こう言って良ければ、二重化された「純粋階段」であるだろう)。それを豊島に倣って「colonial theater / colloquial theater」と考えてもいいし(だが、そうだとすれば、植民地化されていたのは教室だろうか、劇場だろうか)、また「parasite theater」、あるいは「dis-locational theater」と呼んでもいい。

 ゴダールのインタヴューを延々と引用しながら視線とイメージの政治をめぐって語る豊島の背後には、前日「立川芸術祭」で上演されたばかりの「GOZO-OPÉRA : san'naï(五千年ゴースト)」の記録映像が、つまりその二次元化された断片が映じられる。一方、俳優たちはハンディ・クリーナーを手にして教室中の埃を採集しはじめる。言うまでもなく、それはひとまず物の皮膜を、あるいは「薄いヴェール」を、「ゴースト」を、引き剥がす作業であるだろう。レクチュアの声はしばしばクリーナーのノイズによって曇らされ、やがてモニターの映像がリアルタイムで教室の各所を映し出すとともに、ビデオやテープレコーダーから流れる様々な声、音が並置される。

 レクチュアを続ける豊島の(あるいはそこに引かれるゴダールの)言葉は、隣に座った安英愛によってそのつど韓国語に翻訳されるのだが、ときおり通訳から投げ返される質問はそのプロセスを絶えず不透明なものにせずにはおかない。「高くつく」とは何が高くつくのか、「ドイツの人々は死骸じゃなかった」とはどういう意味か・・・。言葉は翻訳を通すことによって(もっとも、すでにそれは翻訳の翻訳なのだが)、文字どおりの意味と比喩的な意味との亀裂を露呈し、散文化する。翻訳というオペレーションは古典的な意味での「詩」を切除するのである。

 豊島はゴダールの発言から「plan」の一語を掬い上げ、この上演の主題もまた「plan」であると明言する。その間、俳優たちは、採集した埃を現像液に浸して印画紙に焼き付け(「粒焼き・・・」)、埃は再び平面へとうつしとられる。そしてさらに、豊島とオーディエンスの間には、船の甲板(plage=プラージュ)のような舞台(planches=プランシュ)が設けられており、その上を、プロジェクターを乗せた二台のワゴンが左右に交叉しながら横切っていく。教室の左右の壁面に投射される映像は、プロジェクターと壁との距離の変化に伴って画面の大きさが変わること以外、客席(?)からほとんど確かめることができない。われわれの視線が向けられているのは、主に投射光の側方(そんなものがあるとすればだが)ということになる。

 映画史の初期において、物語と空間の構成が複雑化していくのに伴い、カメラのフレームによって切り取られた平面(plan)を指す言葉が、それに向けてカメラが作動する時間的持続の単位としてのショット(plan)の意味に転じられる。すなわち、クローズアップ(le gros plan)から全景ショット(le plan d'ensemble)にいたる無数の切断面の連続が、いわばそれと垂直に交わる時間軸において積分化され、分節化されることになり、空間的なフレームが時間的なフレームへと屈曲したのである。一つのショット(plan)は、映画の基本的な構成単位として文字どおり一撃で与えられるものでありながら、同時にそこには無数の切断面(plan)が内在している。

 つまり〈一〉にして〈多〉というplanの両義性のうちには、時間と空間の折り目が畳み込まれているのである。投射される光の方向と垂直に交わるわれわれの視線が探り当てようとするのは、まさしくその折り目だったのではないだろうか(唐突なようだが、冒頭に触れた豊島の論考でアルトー/ベケットを接合する場所にあるのも、おそらくそれと同じ折り目なのである)。

 終演時間に差しかかると、豊島のレクチュアが終わらぬうちに、俳優たちは舞台を慌ただしく解体しながら退場し、あからさまに「劇場」の「バラック」性が示される。劇場という「建築」が歴史的に解体した後の演劇において、演出家のplan(計画、筋書き)も当然また、両義的なものにならざるをえないだろう。オペレーター(operator)とは、操作/手術の主体、そして演劇という乗物の「操縦士」であると同時に、没主体的な中継点としての「交換手」であり、またリスクを冒して投機を繰り返す「相場師」でもあるのだ。

*付記
 本稿は「レヴュー」の欄に掲載される予定とのことだが、筆者は一九九八年十一月末、瀬戸内海の佐木島コテージで催されたモレキュラーシアター「HO-koriの培養・Ⅱ Culture of Dust・Ⅱ」の公演/ワークショップに立ち会っておらず、したがって編集者による、観ないでもいいから書けという、かなり強引な、そして挑発的な誘いに応じて書かれている。それがどこまで実際に行われたものと交叉、隣接しているかは知るべくもない。言ってみれば、きわめて無責任に作られた映画の「予告編」のようなものだ。もっとも、本編が上映された後に予告編がまったく存在価値を失うというものではあるまい。そして実際、その理不尽で困難な条件(?)をポジティヴなものに反転させること、すなわちネガとポジをめぐるプロセスの顕在化こそ、本稿のモチーフではなかったか。
 依頼の文面にあった「オーヴァーラップ」という一語が気になりはじめていた(「モレキュラーシアターと鈴木了二氏の仕事をオーヴァーラップさせて/・・」云々)。それは単に両者を比較し、共通点と差異を摘出することではあるまい(そうすることはある意味で非常に容易である)。ならばそれは、異質なものの遭遇というドラマについて語ることだろうか。ミシンとこうもり傘の不意の出会い? だが、ここで問題にしてきたのは、その下方にあって出来事を乗せている「手術台(table d'opération)」のほうであったはずだ。スクリーン上の光の戯れと、そこに現れた形象が「同じもの」の差異としてあるように、モレキュラーシアターはつねに「同じこと」しかやらないだろうし、同時にそれはまったく異なる作品として現れるだろう。
 なお、アルトーやベンヤミンの引用にあたっては、清水徹氏、篠沢秀夫氏、宇野邦一氏、坂原眞里氏、野村修氏による既訳を、文脈上の多少の改変とともに使わせていただいた。

(初出:「sagi times 02」スタジオ・マラパルテ刊/1999年8月1日)

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