<あらわれ>としての声 <あらわれ>としての非場所

プレTATAカタローグ

<あらわれ>としての声
<あらわれ>としての非場所

如月小春
豊島重之(聞き手)
1986.06.02収録 於:東麻布・NOISE事務所

(1)都市的な身体性——綺畸からNOISEへ

豊島 私の場合、60年代後半のネオダダ・ポップ・ハプニングとか所謂、行為のアートから迷い込んで、次第に演劇に傾斜していった経緯があって、如月さんの場合はどうだったか、その表現の前史といった辺りから伺いたい。

如月 私も最初に興味をもったのは演劇よりも美術とか音楽、特に70年代前後の現代音楽のムーブメントでしたね。それも現代音楽のコンセプトを読みこむのが好きで、色々と触発もされたし、思考も鍛えられたけど、そのコンセプトを支えている身体性までは当時は読み込めなかった。そんな時に、唐さんとか寺山さんの演劇に実際に触れて、なんて具体的な世界なんだろうと、まぁ当然なんだけど、演劇のもつ具体性、祝祭性に衝撃をうけて、で、私も劇団綺畸を始めるんだけど、もうその頃は劇状況の中心が唐さんからつかさんに移っていて、言葉を書く事、叙情を物語る事とかが演劇工程の中心になってた頃でしたね。

豊島 一本きりですが、綺畸当時の舞台を観てまして、確か、「ファクトリー・ロマンス」だったと思いますが、SF調の。

如月 実は、あれが綺畸最後の作品なんです。

豊島 今でこそSF演劇ばやりですが、あれもソイレント・グリーン風の未来都市演劇っていうか、一家団欒と一家心中を畳み込んだ、今から言えば先取り的な舞台でしたね。

如月 今の社会がストーリー性を失いつつある事は当時から分かっていたし、それを敢えて形にするためにSF的な意匠が必要だっただけなんですが。それでもそれ以上の意匠を手にできず、俳優達は棒立ちとなって科白を吐く事に必死の余り、肉体が痙攣してしまうまでになったけど、当時は〝痙攣性の肉体はそれ自体で、日常の肉体への批評性となる〟って処を意識的に採り出す事はできなかったし。それとは別な身体があるはずだと確信してはいたけど、それに見合う言葉を見つけるまでは言葉を書くまいと。

豊島 巷の噂では、如月小春は劇作家に挫折してパフォーマーに転業しちゃったんじゃないか、って囁かれてた頃ですね(笑)。

如月 それは全くの誤解ですね(笑)。私のテーマである〝都市における身体のあり方〟が私の中でますます重きを成していたわけですから。ただ、戯曲上いくら言葉を書き連ねてもそのテーマが具体化できない、いくら言葉で枠を創っていってもそこに俳優の具体的な身体が居合わせない限り、演劇にはならないし、先へも進めない。そういった自己矛盾の中で、都市の身体性に根ざした様々な実験を独りで始めた。映像を使い、音楽をライブし、プロセニアムのない小空間とか画廊とか、たまたまそれを観た人達がこれはパフォーマンスだと。綺畸をやめてすぐ、82年ですね。

豊島 所謂パフォーマンス・ブームは84年だから、これまたかなり先駆的だったわけですね。

如月 というより、自分がやってく中で、パフォーマンスをやってる美術や音楽の人達、舞踏あるいは寺山修司の仕事とは何だったのかが、自分の突き当たってた壁を通して見えてくるようになった。そんな折、寺山さんに会った。寺山さんは私の言葉のない演劇、身体的・視覚的に事件が起きていく演劇、偶然を重積させていく演劇をすごく面白いと言って下さったし、それから音楽の武田賢一さんや高橋悠治さんとか、どれも重要な出会いでしたね。

(2)声のアティキュレーション

豊島 なるほど。で、その昔、DADAっていうのがありまして(笑)。まぁ、ロシア語だと肯定の肯定、二重肯定ですね、八戸弁だと、うちの父っちゃ(笑)。それにひきかえ我々のTATAはぐっと軽くて、イマ風というか。

如月 濁点がとれたわけですね(笑)。

豊島 それに、タータっていう響きが、喋り始めたばかりの幼児語って感じでしょ。つまり、父なるダダに対して赤子のタータを標榜したいっていう(笑)。まぁ、東北と演劇のTはいいとして、Aはアティキュレーション、つまり分節化とか分節作用ですね。そこで如月さんの場合、自分の言語なり身体なりの分節化についてどう考えているかって事ですけど。

如月 さっき言った82年の実験の一つに『ボクタチ』という小品があるんです。これは竹田さんや川仁宏さんのヴォーカリゼィションの場で何かやってみないかと誘われて創ったもので、吉祥寺のギャティでしたけど。私ともう一人の女優とでボ・ク・タ・チという四つの音をそれぞれに発見しながら発声していくわけですが、ボがヴォになったり、ヴァになったり、二人でやってるとボクがバクになったりバカになったり。そうして収斂させていって「ボクタチ」という共通の音感覚に二人が達した時に終りという、これが当の私にとっても実に衝撃的だった。というのは、戯曲を書いてた時にはまず意味を伝える事が先行する、それが、体を通して音が発声し、音の背後に意味が乗っかってくる。本来、意味というのは、意味を伝えるべき誰かとの間に創られるものだけど、声というのは、意味と音のはざまにあって、あるいは意味と体の真ん中にあってその両者を繋ぐものじゃないか。勿論、ヴォーカリゼィションは慣れてしまったら単にコンセプトでしかなくなってしまうから、常に自分の変化する情況を引き受けて、その場その場で何かを創り出していかなきゃならないし、前にやった事のコピーになってはいけないと思うし。

豊島 常に今作は、前作に対して自己批評的な関係にあるっていう事ですか。

如月 そういう事です。

豊島 まさに言葉のアティキュレーションである『ボクタチ』もそうだと思うけど、「僕達」もあれこれコラボレーションしてみて、よくニュートラルにしか受け取られず、それがいかにも都市的な身体性だとつい思われがちなんだけど、実際そこにはニュートラルには捉えられない感情のざわめきっていうか、どうしても入り込んでくる作為のざわめきってのがあるいんじゃないか、それは・・・。

如月 あっても抑制しませんね。それは、意味的な処からアプローチしていった時に、抑制する事で或る情況設定を体に持たせる事はできるでしょうが、私達の出発点はそうじゃない。これから私がやってくべき事は、伝えるべき意味と今現在の自分の体とを繋ぐような演技体を創る事だし、そう考えてNOISEという集団を創り、パフォーマンス色の強い演劇を始めたわけなんです。

(3)パフォーマンスとミニマリズム

豊島 如月さんとしては、これはシアターで、これはパフォーマンスで、これはコンサートでっていう分別というか識別をどう・・・?

如月 私自身は特にしていません。ただ、作業の上で一緒にやる人達との内部了解はあります。演劇の場合、俳優達は直接、観客に語りかけるのではなく、与えられたストーリーの中で生きるわけです。それがパフォーマンスの場合、相手役の目を見る以上に観客の目を見てやれ、観客のリアクションが変ったら、それまでやってた事凡てを変えてもその場に入っていけ、そういう風に一応の了解がNOISEとしてはあるわけです。

豊島 それは、観客を硬い他者と捉えるか、柔らかい他者と捉えるか、あるいは遠い外部・近い外部でもいいけど、そういう風な・・・?

如月 それは当ってますね。演劇の場合、観客が舞台に上がってきたら恐らく俳優はどうしていいか分らない。私達のパフォーマンスでは、しょっちゅう上がってくるし、一緒にやってもらった事もあるし、パフォーマンスだかワークショップだか区別がつかないくらいに流動的な場を感じた事もありますね。

豊島 そうすると、先程の前史に絡めて、ミニマルアートとかミニマルミュージックとか、そういうものとの通脈についてはどう・・・?

如月 ミニマルには深い関心がありますね。最近は随分ポップに受け取られているけど、元々のミニマルは、あるストーリーを複製して一つのドラマを創り、それを解体しては常にゼロの時点に立ち戻る事によって、ある浮遊状態の身体を獲得するというものですね。だからストーリー性への批評性を失うと、単に環境音楽みたいに流れてしまうだけだから、常にゼロに立ち戻る事の不安とテンションが非常に高いものでないとね。まぁ、生命体っていうか、エネルギー体が持ってる振幅っていうのかしら、それが振り切れた状態でミニマルができるのなら、いま現在、非常に有効な方法となりうるのではないかと思います。

(4)零度の身体/諸差異のネットワーク

豊島 いま仰言った振幅の振り切れを、先程の声のコラボレーションに注入して尋ねていきたいんですが、まぁ、意味という場所と身体という場所との奏鳴の場に生起してくるのが出来事としての声だとすれば、それはいわば場所と場所のはざまに生滅する非場所とも言えるんじゃないか、その辺については・・・?

如月 私の場合、声というあらわれから、場と場の連結を読みとろうと思ったんですね。あらわれとしての言葉・あらわれとしての身振り・あらわれとしての声・その背後にある場と場の連結、要するに、関係性というものをマニピュレートしていくのが演出の仕事だと思うし。だから、場を予感させないもの、場を踏み違えたものをいかに場の想像力へ振り向けていくか、そして、声や身体やこれら凡てのネットワーキングを映像・照明・音楽にまで拡げられた時、私の演劇が成立する。

豊島 なるほど、そこで私がイメージするのは身体の音楽化・演劇の音楽化って事なんです。つまり、意味で追っていけば身体は器官のネットワークでしかなく、どこまでいってもそういう場所性でしかない。だけど、先ほどのミニマルの身体、限りなく零度に近づく身体、そこから追っていけばどうなるかっていう?

如月 私の前提は、必ず他者とのネットワークの中で創っていかなきゃならないって事です。だから、誰かは零度の身体で、誰かは百度の身体かもしれない、そういったズレとのぶつかりあいや関係性の中でのポテンシャルを創りあげ、そして場の状況を流動的な位相に高めて、それこそもっと日常的な、具体的な様々なズレをも巻き込んで、諸差異のネットワークっていうのかしら、それを目指して実験を積み重ねているのが今の私達の情況でして。その、豊島さんがどういう文脈で身体の音楽化と仰言ってるのか、よく・・・。

豊島
 意味の場所と身体の場所との重なり合いの中に、ドップラー現象とかブラウン運動みたいに声がたちあらわれてくる。とすれば、それを非場所と称ぶ事もできるんじゃないかと考えたわけですが、それは場の問題だけに留まらず、個別の身体にも言えるだろうという事で、身体のコエ化・身体のオト化・身体の音楽化っていう風に言ったんです。

如月 俳優を演出する時に、私は声で判断するんですね。この声は彼の身体にとって何度なのか、零度までいってるのか。俳優は自分の場から屹立する声を常に探し求めてなくちゃならない。そして、屹立する声が生まれたときに、身体は音楽化されているだろうし、言い換えれば、場と声のあらわれとが一致する、そういう状態を創り出すのが夢と言えば夢ですね。それと、他の俳優なり他のスタッフなりとの共感状態がテンションを持てば、広義の場・舞台空間、あるいは広義の都市から屹立する事ができるんじゃないか。という風な目論見のもとに仕事をしているわけです。

豊島 そこにヴィデオ映像が、しかも多層的多元的に入って来た時に、その声の屹立はどうなるでしょうかね。

如月 大きく変るとは思います。ただ、映像の実験てのは、まだ私は途上でして、しっかした方針はまだないんですが。まぁ、俳優のすぐ隣に二次元的な身体が現れるわけだから、彼自身、不安とゆらぎを感じないわけにはいかない。観ている側からすると、それはまさに多層的な時間と空間の中での一人の個のあり方が、そして場のゆらぎというものがはっきり見えてくる事があるんですね。

豊島 一週間後に公演を控えて、大変貴重な時間を割いて頂いたんですけど、最後に、今度やるというヴィデオ映像と俳優とのセッションについて、少し伺っておきたい。

如月 今回は演劇なので、科白もきちんと決まっていて、タイトルも「セリフ・カンヴァセィション」。生身の俳優と彼の映像二つと、つまり三人で会話するというものです。自分が三人いて、それで会話するというのが実際どういう風に見られるのか。さらに自問自答をまさに体を分裂させてやってみる。そういう稽古を今やっていて、俳優の違和感ってのは相当高いみたいだし、大体、おまえはバカだと他人に言われるより自分に言われたほうがよっぽどきついなんて言ってましたけど。

豊島 本当にどうも有難うございました。

如月 TATA86の次の機会には是非、一度伺いたいものですね。



カタローグ後記
豊島重之

 これは、如月氏と私との小一時間程のクロストークを、タータ誌の高沢利栄がスペース上、圧縮的に文字を起こした草稿に、サブとメインのタイトルや前後の繋がりを配慮しながら些か手を入れたものである。如月氏の快諾は得られているものの、印刷出版の〆切り上、事前に如月氏の目と手がいっさい通っていないものである事を付言しておきたい。
 文中、身体の音楽化について、その場ではうまく言語化できなかったが、草稿を読み返してみて、往きじゃなく還り、という風に展開すればよかったのかもしれない。この事も含めて、このプレTATAカタローグが7月11・12日の小阪・粉川/両カタローグの端緒になればと思うし、ポストTATAの全国の読者へと通論していけたらと思う。
 ともあれ、カタローグを了えて、如月小春の場所というものが、少なくとも私には、すこぶる有意義なものとして視えてきた事だけは確かである。

(初出「非場所連弾」/1986.07.09)

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