「ILLUMIOLE ILLUCIOLE」公演評(2008年11月28日(金)「デーリー東北」紙掲載) 《圧巻のラストと脱出口の浮上》 金子 遊 十一月七日から九日までの三日間、八戸市に拠点を置くモレキュラーシアター(代表高沢利栄)の芸術文化振興基金助成による東京公演が行われた。世界十一カ国の芸術祭で招待公演をこなしてきた劇団の新作『イリュミオール・イリュシオール』とあって、同時代の芸術に敏感な観衆が集まり、連日立ち見が出る盛況ぶりだった。会場は、月島の倉庫ビルを改装したテンポラリー・コンテンポラリーという現代美術のギャラリー。コンクリートの打ち放しの高い天井に、四方を白壁に囲まれた静謐な空気の流れるスペースだ。 公演作品は、ダンスとそれにかぶる朗読が形式的に分離した「絶対演劇」の亜種である。開演と共に、ダンスアーティストの大久保一恵が二重に投影されたビデオ プロジェクターの白光の中に姿を現し、全身を震わせながら頭を起こしていく。照明操作を自ら行いながら、苫米地真弓、田島千征らがソリッドな振付のソロを順に行う。簡素な衣装と染色された髪の俳優6人は、あらゆる感情や意味づけを拒む「上演的な身体」に徹する。 一方、高沢利栄らの囁き声で、スターリン粛清で虐殺された演出家メイエルホリドの弁明文や、ジャン・ジュネがパレスチナ人虐殺を描いた文章が早口で読まれる。身体運動やその影の動きが言葉とシンクロする時もあるが、基本的にダンスと朗読の両輪は断絶したまま進行する。そして、それらが舞台の上で、破綻する寸前のところで奇跡的な均衡を保っていく。 演出家・豊島重之の舞台設計と振付は、余計なものをそぎ落とした「簡明さ」を目指しているようだ。公演前に発表された豊島の「演劇のアポトージス」という文章と、舞台でイリヤ・カバコフ的なハエの羽音を思わせる電子音が鳴り響くことを考え合わせれば、二十一世紀の過密都市における収容所的な空間が表象されていることがわかる。 アフタートークの場で詩人の瀬尾育生が評したように、そこには「清潔な抽象性」があり、観客に「思考を喚起させる」強烈な力が働いている。つまり、物語的には脈絡のない粛清や虐殺に関する文章の朗読と、サーチライトに照らされる俳優のもがくような身体運動という道具立ては、その場に「現代的な自閉空間」というメタファーを発生させ、その中に観客を置くためにこそあるのだ。 観客は眼前の舞台を見ながら、昨今の通り魔事件から社会の機能不全、全体主義の恐怖まで、各自が思い描くイメージをそこに折り重ねる。そのとき初めて演劇は完成される。実際に鴻英良、絓秀実、 稲川方人、鵜飼哲ら識者が行った三日間のトークでは、作品によって喚起された思考の数々が披瀝された。 圧巻はメイエルホリドの年表が読み上げられるラストだ。すばやい場面転換によって緊張が高まり、拷問的だったサーチライトが外部へ開かれた裂け目へと生成変化する。直接的に政治・社会的メッ セージを発さないこの作品が、現代社会と歴史への鋭い批判と脱出口を浮上させる瞬間である。これは演劇というより、観客の身体に作用する一つの「事件」というしかないだろう。 (かねこ・ゆう/川崎市在住・映像作家) |