CROSSING ——〈上演〉の記譜と測量をめぐって——(抜粋)

連載・ダンスの記譜法を求めて・7
CROSSING ——〈上演〉の記譜と測量をめぐって——(抜粋)
《Notation et Sondage de Theatre Absolu》
豊島重之 × 有森静 
TOSHIMA Shigeyuki × ARIMORI Sei



有森  今後のモレキュラーの展開は、カフカよりもルーセル、ヴィトカッツィということになるのですか?

豊島  いや、そうでもないでしょう。例えばこの92年3月にスタジオ錦糸町で上演する『ロクス・パラソルス』は、題名から明らかなように、確かにルーセルのテクストを下敷きにしたものではありますが、科白=セリフはほとんど総てカフカの「オットゥラへの手紙」の引用ですから。それと、11月にやるのもほぼ同じ路線ですが『B-TALKIE-BITS(ビートーキービッツ)[*1]』という題名で、ヴィトカッツィの本名ヴィトキェーヴィチを八戸弁で訛って言ったらこうなった、という(笑)。で、こっちのほうは一切カフカを使っていません。科白は基本的にヴィトカッツィの「肖像画商会の定款(ていかん)」というテクストだけです。彼には「狂人と尼僧」とか「クイナ」とか有名な戯曲があって、邦訳されているにも関わらず、どうしてそんな妙ちきりんな、テクストとはとても言いがたい代物を敢えて使うのか。

有森  そこがモレキュラーであり、カフカなんだと・・・(笑)。

豊島  そう(笑)。カフカから〈書簡〉の形式を上演のフォルムとして抽出したように、ルーセルから〈推敲〉の形式を、ヴィトカッツィから〈定款〉の形式を取り出したい。そういう非常に限定的なモチーフがあるからです。私にとっては書簡と推敲、推敲と定款というのは〈寄生的な事態〉をはっきりと示してくれるものです。そのことで、演劇の話法とか上演の書法といったものを根底的に〈測量〉[*2]し直したい気持ちがあるんでしょうね。ですから、やっぱりカフカですよ、原点というか特異点としては。カフカの書簡に遭遇することがなかったなら、ヴィトカッツィをいくら読みこんでも定款には注目しなかったでしょうから。
 へたをすれば職業柄、ドラッグの幻覚体験ルポのほうについ目が行っちゃう(笑)。何時何分、何事もなし、何時何分、グラッと来た、とかね。それをそのまま演劇にしちゃおうとか、つい思っちゃう。だけども、定款、これは何なんだ、なんでヴィトカッツィがこんなものを書かなくてはならなかったのか。そう思った時にね、そこから逆に、あの幻覚ルポの書法[*3]でさえ、実は、この定款の変奏なんじゃないかと読み替えていくことだってできるわけなんです。私の言う〈測量〉というのは、そういうことですね。

有森  つまり、上演のためのテクストの選択の問題じゃなくて、テクストのあり方それ自体を上演のフォルムとして提示する、ということですか。

豊島  テクストの言語とか文体については、よく云々される。そのわりには、上演の言語とか上演の書法ということが、ほとんど顧みられていないんじゃないか、そういう視点です。それはどうしてかって言うと、ひとつにはテクストの固有な解読なり、そのモチーフなりを上演がいかに適切に実現してみせたか、いかに他とは違った時空間を生起させたか、総てそうした出来ばえのレベルに回収されてしまうからでしょう。
 もうひとつには、テクストと上演の関係が、遠近法というものを、りちぎに形成してさえいればいいと。従って、テクストの言語と上演の言語をいかに統合するか、身体の言語でもっていかに架橋するか、だけになってしまう。そこでは、身体の言語の豊かさが、豊かさといえば聞こえはいいけど、つまりは曖昧さが、遠近法の自明化に臆面もなく均りあってしまう。そればかりか、身体の言語の曖昧さだけが総てを凌駕してしまって、上演の言語であれテクストとの遠近法であれ、全部を曖昧にしてきたんじゃないか。というのが、この間の消息だと思うんですよ。

 そうした消息に対して、測量と言っているわけです。遠近法に対しても測量し直しが必要なんじゃないかとね。例えば戯曲の書法。ト書きがあって、役名ごとに台詞があって、という、あのステロタイプには私なんか、もう意気阻喪してしまう(笑)。そういうのはもういい、というか。どだいスピード感がない、〈思考の測量感〉というものがないでしょう、あの書法には。じゃ、それに代わるもの、ということで、例えばハイナー・ミュラーの「ハムレット・マシーン」とかが取り沙汰される。ト書きや台詞が混融した全編モノローグ体のというか、ラジオドラマの書法というか。
 でもね、これをテクストの "形式革命" だなんて言ったら、アルトーはどうなるわけ? どういう神経してるんだ、おまえの神経の秤(はかり)は、ということになりませんか? だってアルトーはミュラーのずっと前に『神の裁きにけりをつけるために』[*4]を出してるわけでしょう? あれこそまさにラジオドラマの書法だし、全編モノローグ体、しかもマニフェスト体だし、これこそ戯曲のひとつの極限型だと言ってもいい。その意味で「ハムレット・マシーン」は「神の裁き・・・」の悪しき縮小再生産にすぎない、と私は思います。でもまあ、アルトーを対置させるのは、何というか、行儀に反するかもしれませんが。そう言えば、アルトーの研究家でもある及川廣信さんによると、ブレヒトにもその手のテクストがあるらしいんです。

 いずれにしろ、全編モノローグ体という戯曲を想定してみる時に、モレキュラーがカフカの書簡をテクストにして既に86年にやっている、そこはどうなのか、ということでしょう。勿論、まだミュラーなんか取り沙汰されてなかった時期にですよ。書簡の演劇化ではなく、"演劇の書簡化" だとか、それこそ "演劇マシーニック" [*5]だとか、既にその時点で言ってるんですね。言ったことの責任はとらなきゃいけない、ということで、今、駄弁を弄してることになるんでしょうが。そのあとで、ミュラーのテクスト形式がどうのこうの言ったって、思考の測量感に欠けるとしか言いようがない。はっきり言って、モレキュラーのカフカで、ミュラーは「けりがついてる」。
 書簡の形式って言ったのは、そういう含意です。そして、その書簡をさらに測量していけば、ヴィトカッツィの定款の形式に行きあたるに違いないと。ですから私にとって、定款とは、アルトーとは違った意味で、もうひとつの戯曲の極限型とみなすことができる。のみならず、それがそのまま上演の書法ということになるわけです。
 そこで忘れてはならないのがベケットですね。特に宇野邦一さんが訳して最近出たばかりの二作、「伴侶」と「見ちがい言いちがい」。モノローグと言えばモノローグだけど、小説でもなければ詩でもない。この書法は何なんだ、ということですよ。それを瀬尾育生さんは、役名ぬきのト書きだけで成立しているんじゃないか、と言ってましたが、まさに「ト書き文」としか言いようのない特殊なジャンル[*6]だと考えるべきなんですね。それこそ思考の速度感や測量感があるし、"測量的な寂寥感" そのものだというか。

有森  その、書簡—推敲—定款という三ツ組、トリアッドというかトリプティーク(三幅対)について、もう少し解きほぐして言ったらどうなりますか?

豊島  書簡を徹底して推敲していくと定款になる、そう考えれば分かり易いでしょう。でも、実は、そこからの折り返しがあって、定款をさらに推敲していくとまた書簡ができちゃう、そこの処は少し分かりにくくなりますね。私は、ある種メビウス・リング的な無限反復とか、往還の二重性とか、そういうことが言いたいのではないんです。つまり、書簡と定款、この二つのカン。有森さんも出席なさった90年の二つの「カンタータ/間TATAフェス[*7]」は、実はこの二つのカンに還流していた(笑)。いやすでに86年にカフカに取り組み始めた時から、私にはそういう測量感があったと言ってもいいくらいで。

 私は「絶対演劇第一宣言」の中で 〈観客とは冗語である〉と言ってますよね。観も客も同じ意味です。"観" する人という意味ではなく、"客" こそ "観" なんだと。観ることの只中にあって "観" が生じてこないと "客" とは呼べない。傲慢にも人にそれを要求しているんではなく、あくまで私が観る時の姿勢を言っているんだけど。観ること自体が〈観=客〉たることを要求してると言えば、至極当然、何を今更と言われかねない。でも、本当はそこが、一番難しい処でしょう。
 例えば寺山修司はかつて、作品の半分は観る者がつくる、つまり上演側は作品を半分だけつくればいい、あとは観る側が完成させるんだ、というような、ある種傲慢な姿勢を打ち出したことがあった。それに対して、荒川修作は、作品が観る者をつくる、つまり観る者がつくられる場、それが作品なんだ、というような、ある種退嬰的な姿勢を最近[*8]かいまみせている。その口車に乗った批評家も、今や、一時期とは異質な、新しい "環境芸術" が生まれつつある、などと口走ったりするわけです。
 確かにタブローのスペクタクル化と見えないことはない。それを見こして荒川自身が、精神のディズニーランドだと、これまた口走るわけですね。なんで退嬰的と思ったかと言えば、ひとつには基本的に、見ることの場というのはタブローだからこそ出てくるし、タブローにおいてこそ思考しうるんであって。それを、タブローの毛穴を手放しに開いていく方向は、弛緩した思考以外の何ものでもない。タブローの前に劇場をこさえているような、ああいう事態は、タブローなんか要らないと言っているようなものです。
 そうすると、荒川は初めっからそうだったのか、あの、線とか文字とか矢印とか空欄とかは、とどのつまりミニマリズムとか消滅絵画の亜型だったのか、ということになっちゃう。少なくとも私はそうは見てはいなかった、あのセマンティクスの線とか矢印をギリギリの肯定性というか、剣ケ峰の事実性というふうに捉えていましたから。つまり、こっちの身体や場があの矢印とか空欄に吸いこまれているとか、それこそランドサットの視線を強いているというか。ところが、何のことはない、タブローの前に劇場をこさえたかったのか、タブローを消滅させたかったのか、という。結局、荒川のタブローは、不可視の劇場のための設計図とか投影図だった、てなことになると、私なんかもうガックリですね。

 もうひとつ致命的なのは、瞑目を持ち出してるころです。目をつむっちゃったら、どんなタブローもディズニーランドでしょうが。〈この〉タブローでなければダメなんだ、という線は吹っとんじゃう。作品が見る者をつくるとか、タブローのスペクタクル化なんてのも、当然言えないはずです。これはもう、弛緩どころか退嬰としか考えようがないんじゃないか。斜面で見せる、まぁいいでしょう、斜面を動かして見せる、まぁ遊んで下さいと——荒川に言ってるんですよ(笑)。そこまではいい、でも瞑目してくれ、これは全然違う。
 どうしてそこまではいいか、見る身体をひとまず、静止させているからです。演劇というのは、ほとんど度しがたい代物だけど、たった一つ捨てがたいと思うのは、あの客席ですよ。見る身体を固定させられる、身体を不能化させられる、それとなく、というか、何の苦もなく、というか。座るということ、座ってみるということ。これが私のギリギリの演劇との結節点ですし、そこが私にとっての剣ケ峰の事実性ですね。そこを取っぱらったら、演劇である必要はなくなるし、演劇なんかやらないでしょう。それを制度と言うなら、制度はこう考えると言ってるんですよ、私は。そこが寺山修司の "観客席" と大きく違う処でしょうし、好意的にみれば、本当は寺山も私と同じことを考えてたんじゃないかな。

 ところが、荒川は瞑目を強いる。すると、どうなるか。ポーンとコズモロジーに行っちゃうか、束の間の知覚変容体験に一喜一憂するか、どっちにしろ、ディズニーランドに変りはない。子供たちがね、目を開ければ何てことはないのに、つむればこんなに面白いとキャピキャピしてるわけです。その点では教育的な意味はあるでしょう。でも、そんなものならHMD(ヘッド・マウント・ディスプレィ)とかヴィデオ・ドロームとか、もっとマシなのがいくらでもある。となると、今度は耳でもふさごうか、しまいには、タブローから身体を遠ざけて、来させなくすればよいと。つまり、私の言いたいのは、タブローを場として拡大する方向も、目を閉ざす方向も、いずれも先が見えてるのではないかと。のみならず、見るとは、そういった知覚変容体験なんかではなくて、あくまでタブローという、まぎれもなく異様な形式、〈絶対形式〉とでも言うほかない、タブローのあり方に気づくということなんですよ。

 私の考えでは、見ることにおいて常に見ないことは顕在化しているんです。見ることは潜在的に見ないことを内包しているとか前提にしてるとか、どうも荒川はそこいら止まりに思えてならないけど、もはやそういうことじゃない。見ることと見ないこととは、絶えず同時に共起していて、それを私は86年の〈演劇の書簡化〉では、パラレリズムとか平行植物性とか言ってたんです。これを言えば長くなりそうなので、もうやめときますが、たった一言、目をつむればタブローは見えない、そう言い切っておきましょう。
 ともかく、見る者がつくるんでも、見る者をつくるんでもなく、つまり寺山でも荒川でもない方向をモレキュラーはやろうとしてる、ということです。それが、書簡と定款、この二つのカンを折り返す〈観=客〉という第三のカンなんです。そしてそれこそ真に推敲の内実なんですね。推(すい)も敲(こう)もまた観客同様、冗語ですし、一方、荒川風のタブローのスペクタクル化と正反対の〈スペクタクルのタブロー化〉をそっくり言い当ててくれる用語ですし、さらには、その文字の文字性、物質性の含意から言っても、書簡とであれ定款とであれ、すぐさま〈寄生体〉を成すだろうし、文字通り、測量度の高い思考が要請されるだろうと。私がカフカ・ルーセル・ヴィトカッツィから析出したのは、ひとまずその辺だということです。

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有森  ものすごく愚直に言って(笑)、「絶対演劇」には連接ではなく隣接、離接という重要な概念というかモチーフがあって、上演形態においてその差異というのは具体的にどのように顕在化されるとお考えでしょうか?
 繰り返しになりますが、その〈マテリアルなもの〉をどこに・何に見出せるのか、上演する側のリアリティは別として、見る側へのアプローチというか。つまり、書かれたもののレベルでなく、上演形態そのものにおいて展開されるべきだと、もっとその差異がね。そこでの具体的な差異がつぎの運動を導いてゆくのですから。そうでなければ〈差異の形而上学〉で終わってしまう。
 「絶対演劇」をめぐる現状というのは、圧倒的に理念系の優位ですよ、過剰に戦略的に深読みしている段階。現にそこが問われないとパパ・タラフマラなりダム・タイプなり、勅使河原三郎のダンスなりポストモダンな動きとたいして違わない。異なった価値への志向・傾きの違いだけがあって、例えばパパ・タラフマラに「パレード」という上演があって、それは本当に文字通りのパレードなんですよね。イマージュの断片の連続、好意的に言って不連続、アンチ・オイディプス的[*9]な毒は消し去って、つまり、メトニミーではなくメタファー、諸イマージュのパレードなんです、見事なくらいに。

豊島  転形劇場の『水の駅』へのオマージュということじゃないかな。

有森  ええ、確かにパレードですね、『水の駅』は、いま振りかえると。赤坂のアトリエでの初演を見たのですが、心底感動しながら、二度とこの〈いま・ここ〉は共有したくない、というような決意を促されましたから(笑)。とはいえ、その場での違和感というのは、その後なかなか解らなかった。
 ぼくはモレキュラーでの豊島さんの試みで、いわばその思考のエッセンスというか、再帰接頭辞の <re-> と、<trans->〔を越えて・向こうへ・横切って・移行・変化等の含意〕、<para->〔側・副・準・病的異状・擬似・類似等の含意〕との内在的な関係、その独自の思考の展開に興味があるというか面白いし、触発されるわけです。たぶん、このモレキュラーにおける三ツ組の〈同時に〔du meme coup〕〉は即、"贈与の打撃" 的であってね。上演の場面で初めてそうした試みに出会った気がして、それは稀有なことだと思うんです。
 ヴィトカッツィとかルーセルとかいった1920年代の作家、アーティストに対する嗜好というのも、ある種の回帰だと思うのですが。もちろん、この場合の回帰は、〈回帰 - 革命〔recurrence - revolution〕〉的[*10]な性格のものです。

豊島  例えばカフカ、ルーセル、アルトー、ヴィトカッツィという線を引く。端的に線を引くわけですよ、私の場合ね。回帰というふうには考えないで、同時代だと考える。カフカと同じ空気を吸っているのだし、ヴィトカッツィと同じ空気を吸っている。回帰というよりは同時代なのだという言い方をすれば、われわれの時代はダム・タイプとかパパ・タラフマラでもなければ、勅使河原でもないと。私にとっての同時代はカフカであり、ルーセルであり、ヴィトカッツィであり、アルトーなんだと。そう語ること自体が〈回帰 - 革命〉的な事態であればいいと、私は考えてるんですね。

有森  その20年代への親和、親密さというのはベンヤミンの仕事、彼の同時代への関わり方を思い起こさせます。でも言わんとすることはよく判ります、ダム・タイプや勅使河原に触れられたので。

豊島  さっき指摘された <re> というのは、見るとかあるいはカラダとか、そういうことから来ているのじゃない? ダンスとの付き合いの中で。つねに再帰しつづけるしかないですかね、身体というのは。

有森  その三ツ組の内在的な関係でぼくが考えていることと言うのは、いま発話の場面で厳密に展開できる準備も能力もないのですが、やはり〈表象〉批判の文脈で括ることができると思うんです。すでに上演の場面を対象にして何人かの人たちが断片的に発言されていますが、もっと厳密にまとまった形で打ち出せたらと・・・。去年の春でしたか、その序で弁明までつけた形で「表象=ルプレザンタシオン」と銘打った雑誌が出たことに多少のショックをうけたわけです。この人たちにとって結局、思想というのは概念の操作ないしは研究であって、率直に言ってある種の衰弱感を感じたわけです。
 豊島さんの場合は、<re-> の場所にズレをみておられるわけですよね。遅延の力というか、反復というのか。いわば <para-> や <trans-> はその形象化・具象化であって、オスト・オルガンの場合、まさに「空白に隣接するもの」となっていますが。豊島さんの書かれたものの中にも、あきらかに空間の優位があると思うのですよ、思考の運動の痕跡として。その空間の優位がラディカリズムを保証している形になっている。個人を超えて世代的なものかも知れないのですがね、ぼくなんかからみると。その <re> の空間性への嗜好というのは、いまだ具現化されていないのではないか。
 逆に砕氷船が分厚い氷海を切り拓いてゆく感じで、もっと骨太に〈上演 - 展開〉されていいのではないか。ある空白を前提としたうえでの <re> なんですよ、転換〔transformation〕にしろ翻訳〔traduction〕にしろ。限定性と回帰性との円環、その場所で空転しているのは、あるいは理念系でなければいいんだがな、と[*11]。豊島さんの場合、転移〔transfert〕の問題も考えなけりゃいけないし。

豊島  演劇の身体とか、上演とか考えた時には空間性の優位は当然あるでしょう。私の場合、いかにも空間から入っていくかのように見えるんだけど、むしろ空間をねじ曲げてゆく作業とか、空間に裂け目を入れてゆく作業の時に、いままで潜在していた時間というものが露出してくる。つまり、空間と時間を渾然一体のものとしてではなく、離接的に扱うということ。離接ということではっきりするのは、それがトートロジックな事態にほかならない、ということですね。
 <re> とか <para> はそのことをさしている。それを言表のレベルでは、他者性を欠いた戦慄的な遅延といったり、「絶対演劇宣言」では論旨の主たる部分にもなっているのだけれど、〈二度性の反復〉[*12]という、二度反復するものだと。無限反復とか、三度、四度、五度じゃないんだと。<re> の時間的な露出の仕方、空間を蹴破って露出してくる時の <para> のあり方を言ってるんです。これを最初からパースペクティヴに配合してやると、つまり、どっかに空白なり消尽点なりを置いてしまうと、たとえば連接的な演劇とか無限反復的なダンスのスタイルというのが出来てしまうのじゃないか。

有森  その傾向というのは、モダンダンスの長い受容の歴史のなかでも、土方巽の舞踏の継承においても、上演の表われの領域で顕著ですね。具体的な展開レベルでの思考力の弱さとか、結果的に理論の軽視、個有のメソッドのなさとか、たとえあってもマンネリズムに陥って人生論的、経験的な言説でお茶を濁して恥じない、という・・・。

豊島  絵を描くにしろ、描く動作を紡いでいくにしろ、イマージュのレベルで考えるんじゃなく、あくまでロジックのレベルに徹してみる、ということですね。

有森  その意味で、勅使河原にはイマージュの配合はあってもロジックの展開はまだ弱いというか、感銘をうけるまでには見えてこない。その才能とセンスのよさはいま一番だと思うのですが。どうしてですかね?

豊島  たぶんね、その時間と空間をズラしながらあるいは強度を保ちながら、うまく配合しているというのが身体表現の一番良質なものだろうと思うんです。勅使河原のダンスには、非常にバランスのとれた良質さ、しかも懐の深い説得力を感じますよ。でもそれは、決してヴィトカッツィが言っている「チスタ・フォルマ=純粋形式」、アルトーが言っている「クリュオテ=残酷」とは違うレベルの良質さであってね。

有森  上演においても書かれたものにおいても大正モダニズム、デカダンスへの親和があって実際、一時の勅使河原にはその想起がすべてっていう感じがありましたからね。

豊島  その路線で宮沢賢治を素材にするとしたら全然、違うんですね。私から言えば宮沢賢治というのは、カフカとかアルトーの同時代人なんですよ。だから、宮沢賢治の残酷[*13]というふうに考えてゆくべきであって。

有森  起源や根源を求める表現というのは、その拠って立つ価値判断の起源も同時に問われるのでなければ力をもたない。現象学的な身体論だけの人というのは概して容易ですよね。ひとつの憶断として、その辺の甘さが均質な空間、均質な時間の生成と繋がっているのではないかと。だから〈深さを標榜する〉身体表現に対しては、ついこちらも斜(はす)に構えてしまう。どこか偽善的ないしは偽悪的な、そのどちらかのタイプの上演で、逆説的に深さを感じないんです。

豊島  まあ、上演の場面で、ある期待の地平に沿った濃密な空気をつくりだすっていう方向に行きますから。私はむしろ、その空気を薄くする方向で考えているんですけどね。動かなければ動かないほうが空気が薄くなるのなら、身体は動かさない。だけど、ただ動かないだけで空気が薄くなるのであれば世話はないのであって、実際は動かさなければ空気は薄くなりませんから。場合によってはどんどん動く。そのためには動かないための表現論、技術論が必要になってくる。そういう過程を抜きにしてオスト・オルガンがああいう試みをしているわけだから、私には面白いけど有森さんにはちょっともの足りなく感じるっていうのは当然あると思うんです。でも、それはそういうレベルを問わないという視点でやられていて、そこからどういう言葉が喚起されるのか、その方向になるわけです。

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有森  上演における、僕の側から言えば〈記譜〉、豊島さんの側からする〈測量〉、いわばそのマティエールをどこに見出すのか、この段階でもう少し考えてみたいのですが。

豊島  〈測量〉の仕方としては二つあると思うんです。ダンス批判であれ、演劇批判であれ、何かこう総論的な問題の立て方というものを疑ってみることです。たとえば世界的な地殻変動にともなう知の変容というか、身体表現においてもポストモダンあるいはシミュレーショニズムの流れがあって、表現態も当然変わってくるだろうと。なぜ、こうも無反省に演劇が産業化されてしまうのか。あるいは高度情報化にきちんと即応してしまう演劇表現とは、一体どういうことなのかという批評が発せられてそのまま流通してしまう。言ってみれば社会の変動、政治の変動、世界地図が更新される事態に踊らされているだけじゃないのか。いま一番必要なのは、もっと丹念に身体の動きなり微細な思考なりを見つめてゆく作業だろうと。そういう問題の立て方さえも疑っていくわけです。

 それと、子どものダンスを有森さんと一緒にみる機会があって、子どものダンスと大人のダンスというのは次元が違うと、みんな頭から思っている。しかし、それは表現意識の問題として違うと思っているんで。じゃあ、逆に発達論的に成熟した表現意識とか、未熟な意識とかいうのは本当にあるんだろうか。あるいは、その鏡像段階で言語を学習した途端に、自我が主体として構造化される。その構造化される過程において、いろんな合力、斥力が働いて、さまざまなオプセッション(強迫観念)を生じる。
 そのオプセッションが自己実現/他者承認の欲望であれ、その欲望の形態であれ、そういった多形倒錯的な力動に主体を搦(から)めとってゆく。つまり表現意識というのは、実は鏡像段階のなせるわざだっていうトートロジーさえ成り立つわけで、そうした時の表現意識なんていうのは実にあやふやなものなんじゃないのか。だから表現意識のレベルでね、大人のダンス、子どものダンスを腑分けできるはずがない。
 とすると、子どものダンスというのは何なのだろう。全然、違った世界なのか。ピナ・バウシュとかローザスとか土方巽だとか、そういうものを見た時の感動の質と、無名・匿名の子どものダンスに触発される時のその匿名性とが、どこでどう、くい違ってしまうのか。どうして子どものダンスの批評家はいないのか。真に〈基礎論〉[*14]として批評の胆力が問われるのは、そこいらの演劇とか大人のダンスでは駄目なんであって。むしろ子どものダンスを前にして何が言えるのか、実は何も言えないんじゃないのか。

 そういう局面で、私は〈測量〉というのを考える。こういう普通、誰もが考えそうにない問題、それと有森さんのやっている身体の細部の思考力を見出していこうという〈記譜〉的な批評の問題とは、どこかで結びつくと思うんですよ。なぜかというと、総論的な問題がもう決定不能であるっていう、これだけ思い知らされた時代にわれわれがいるからです。もはや、文化批判だの状況批判だのはほとんど愚にもつかない。そこまで、われわれはある根底的な〈さしかかり〉にいるんじゃないか、ということです。

有森  やっぱりマティエールですね。対象としてもマテリアルなものに出会っていない安易な領域で、文学的な言葉を紡いでしまうことが多いでしょうから。

豊島  有森さんが雑談のなかで言った話というのは典型的だと思うんですよ。あるダンサーが、身体性をめぐって哲学ではさまざまに問われるけれども、実は、踊っている時の内実っていうのは身体性は消去されているんだよと。それが踊り手の身体的なリアリティなんであって、これはいかんともしがたいのだ。その問題をどうしてくれるんだみたいな。
 それはちょっと違うんじゃないかと、私は思うんです。ひとつには、その消去とか空白のリアリティというのは、身体のフォルムの現前ゆえだからですね。そのダンサーが言ってる実感こそ、〈空虚と現前の形而上学〉の所産にほかならない。やはり基本的にわれわれは世界の縁(へり)にいるのであり、そうであるなら世界に内属しつつ、かつ世界から常に切片的に外在化しているわけであってね。
 身体のさまざまな切片がどういう微細な知覚と微細な言語を発動してくるかという、そこを批評は見るだろうし、上演の側もそういう〈切片的思考〉をマテリアライズしようとするわけです。そのあとですね、上演とは何だったのか、なぜ上演されなければならないのかという〈白さの事態〉[*15]と、記譜・測量の思考とが繋がっていくのは。

有森  批評の領域でどういうふうにアプローチして行ったらよいのか、いまも模索の段階なので、あと5年10年は覚悟しているんですが、豊島さんのお話を聴いていて、精神分析理論との関わりでいえば〈部分欲動〉で言われることと、やっとすこし繋がってきた気がします。それが発話の場面であれ、書くという作業の場面であれ、リニアル(線状的)なものの強要への嫌悪、ある種の明晰さへの嫌悪があって、たとえば普通の演劇なんかでは台詞や感情のやりとりだけでなく、演技や所作の次元でも気恥かしいくらいにリニアルなものが前提されています。
 ぼくの場合、〈同時に多く〉ということを考えてしまう——言語学でいうシンタグマとパラディグマ[*16]の二つの次元、あれを連想してくださればいいのですが——言語学に教えられる前に発話の場面で、現に志向してしまう感受性というものがあったとしたら、"どもら" ざるを得ないと思うんですよ。瞬間的に刻々がもうパフォーマンスですからね、あるテンションのもとでの。それはダンスという固有の上演形態への親和と密接に繋がっていると思うんです。
 豊島さんの場合、そのロジックかイマージュかという区分をイデオロギー的に、つまり排他択一的に使っているわけではないですからね。ある近似値を得るためのアプローチとして使われていて、言語運用の場面での構成主義的なアプローチの仕方っていうか、価値論的でもあるし、やはり精神分析的な使用だと思うんです。そうすると敢えて身体と言語とか、観客と上演とかのデコトミーで考えなくてもいいわけですし。イマージュの問題は経験的にある程度判ります。イマージュとロジックの関係はさっきの子どものダンスでいうとどうなりますか。

豊島  たぶんイマージュが失敗した時ってことでしょうね。そういう時に子どもにとってのロジックなるものが噴出してくると思うんですよ。どこでどのようにロジックが表われてくるのか、観客は見逃さないことが出来るわけです。眉根のひそめ方、たたらの踏み方、次の動きの零点何秒かの遅れ、そういうかたちで具体的に表われる。それも、救いがたい事実性として顕れるのだと思うんですよ、ミスった時の子どもの表情、子どもが無惨にもつくってしまう仕草とかね。

有森  そうするとその時のロジックっていうのは、コンセプトとどのような関係にあるとお考えですか。

豊島  だからたぶん、ロジックと呼ばずに〈非 - イマージュ〉と言ったほうがいいのかも知れない。とりあえず非 - イマージュと呼ぶべきものを私は敢えてロジックと言っている。というのは、さっきのダンサーの例でもはっきりあるのは、ロジックはないんだよという言い方。ダンスはもっとリアリティのあるものだよと。モダンの人たちはみんなそうだし、舞踏の人たちもそう、ロジックなんか関係ないよって。それで終わってしまうところがある。しかし本当はそれこそ錯覚でしかないのであって。それが、子どものダンスというようなもっとナイーヴな地平において、それこそ無媒介な戦慄の地平[*17]にこそ見出すことができるんではないかと。
 そこで一番大事なことは、コンセプトは前提とされるが、あくまでロジックは前提にできないということ。単に構築の失敗だとしても、そのことに切実なリアリティを持たない人が "脱構築" と言ったところで、それはもうどうしようもない。子どもらは別にロジックが言いたくてミスっているわけじゃない。できればイマージュのままでイマージュからの緊張感を保ちながら、最初から最後まで "どもらずに" ゆくことを念じている。ところが  "どもらない" ことができない、イマージュ=身体というのはね。その事後性をどう考えるのかということですよ。

 まあ、子どもたちの内実を考えればイマージュなんかクソくらえだと思うんですね、本当をいえばね。でも踊っている何分何秒かのなかでは、たぶんイマージュをよすがにしているんだと思うし、それは観客でも同じだと思うんですよ。だからイマージュがどうしようもなく失敗した時に出てくる、身体のちょっとした指先の震えであるとか足首のちょっとしたもたれぐあいとか、何かそういったものをロジックと呼ぼうと。実はそうした局面で私が考えているものは、ある種〈究極のイマージュ〉なんです。つまり、そう言ってよければイマージュのイマージュですよ。イマージュというのはある対象、ある事態、ある現実の反映なわけですよね。その不在に対して与えられたプロジェクション(投影)がイマージュだとしたら、そのイマージュのイマージュ。

有森  それはよく判るんです。ただ、そのイマージュのイマージュ、それから他者の他者性、否定の否定とか忘却の忘却でしたか。これは他の芸術ジャンル、美術とかね、共約されてある問題でもあって、当然その「方法としてのトートロジー」というようなものが考えられてもいい、肯定的にね。でもぼくの感触だと、そのトートロジーに陥って身動きがとれなくなっていったのが、その時代時代の前衛、前衛的な芸術の末路だったのであって、その辺はどうクリアないし回避されるおつもりですか。

豊島  もし仮にそうだったとすればね、トートロジーについてネガティヴにしか考えてこなかったのだと思いますよ。方法としてのトートロジーが前衛芸術の末路に直結すると今おっしゃったけど、まさにその末路を、演劇の往路として捉え返そうとしたのが「絶対演劇第一宣言」の意図するところだった。私はむしろ、末路を肯定的に捉え返すには、逆説的にではなく、まさしく積極的に〈冗語反復=トートロジー〉によらなくてはならないと考えたわけです。

 ただ、私は私である、他者は他者である、否定は否定であると、こういうトートロジーというのはある意味でいえば、日本的権力の構造とか天皇制の核心部をなしている、ある一つの空虚な、まさに無用の、無効の言説なんですよ。言説として何ら権能を発動しない、いわば最高の無機能、言葉がまったくサンスをもたなくなるノンサンスの領域[*18]。そこから、いや、ないことはないと言うのは実はあることなんじゃないのかと転倒させて、そういった言説のメカニズムが遂行されて強固な同心円が出来上がっていったあげく、それが共同体を形成し、かつ文化的、権力的なコンテクストをつくってきた。そこがトートロジーの最もキナ臭い "負" の様態であって、それが芸術の領域においても抜きがたくあったのは確かでしょう。逆にいえば、そうした権力構造のキナ臭さを露呈させるべく、敢えてトートロジーを行使するということです[*19]。

 それが肯定の肯定というトートロジーです。なぜなら否定の否定というトートロジーは、容易に肯定に反転しそうでしない、そのこと自体、陰湿な構えを隠さない〈日本的ポリティカル/カルチュラル〉であるような権力発動装置だからでしょう。それに反して、私の言う肯定の肯定は、忘却の忘却/禁止の禁止という言い方と、ほとんど同義であるような用法なんです。その意味で、イマージュのイマージュという言い方も可能となります。
 そうではなく、何々のイマージュと言った場合には、その当の事物の不在を代補し、保証し、トートロジーの無効を肩代わりするものとなる。トートロジーが権力の中枢を成すかぎり、イマージュとかメタファーは日本的文脈として絶大な権力をもつでしょう。ところが、例えばイマージュのイマージュと言った途端、たちまち右往左往してしまう。日本的権力の構造はインフラ(下層)からイントラ(内層)まで、あたふたと動揺してしまうような事態になるんじゃないか。

有森  そこにイマージュのイマージュと言われることの戦略を見るんですね。

豊島  だって、その時のロジックというのは、私にとってヴィトカッツィ言うところの純粋形式ですよ。ある意味でアルトー言うところの残酷、ルーセル言うところの非常にマシーニックな、ただただ数字と数字を並び替えて行った徒労の果てに、辛うじてつじつまが合ってしまう時のその数字の持ちだし方とかね。ほとんど日常のリアリティを一切持ちえない空虚な、方法論的にも孤独な作業のなかで営まれた、まったく世の中にとって無益な、無意味というしかない——毒にもならないわけですからね——この世の中になぜ数学とか形式論理学みたいなものがあるんだろうかと改めて思わせてしまうような、そういうロジックです。

有森  即、それは言語の問題だし身体の問題でもあって、上演の場面で例えばアクションに対するリアクションを考えてみるような姿勢。反応であり、反動であり、反省的なものの回帰であり、ルサンチマンであり、いまのお話のトートロジーのモチーフというのは、リアクションを回避することの方法論的な徹底性というか、そういう流れを肯定的に捉え返そうとされている、同じことですよね。

豊島  どうですかね。アクションに対するリアクションと言った時には、アクションが懐疑されたってことにすぎない。つまり能動に対する受動ですね。こういう能動と受動のデコトミーのなかでは、私のやろうとしていることはたぶん、成立しないし理解されないと思うんです。他者というのはリアクションを持つものなんだと。その関係でいけばどこまでも、そのトートロジーを抽出するメカニズムのなかに回収されてしまうよと。私が、他者の拒否というのは、そういう文脈です。

有森  そうすると、言語のレベルでも上演のレベルでも、豊島さんは安易にメタレベルを認めないのだと、そういう括り方もできますか。

豊島  まあ、超越性は必ず空虚の匂いがしますからね。もっと具体的にいえば、有森さん旧知のダンサーが踊り手の内実、踊り手のリアリティというのは、身体性なんかこれっぽっちもないんですよと。そうした言い方が可能なのは、超越性のスタンスに無自覚に立っているからではないかと、私なんかは思うわけです。[*20]

*******
(初出「ダンスと批評 et」No.7/1992年春/抜粋)

採録者註:
上記テクストは、まだ、筆者の一人有森氏から採録/再掲の承諾を得ておらず、もう一人の筆者豊島氏から転載承諾を得た部分のみ掲載しているものです。もし何か問題等がありましたら、採録者根本までご連絡をお願いします。

転載承諾者[註*]:

[*1] 「B級映画の細片」という1989年初演時タイトル。88年の前作『Blind Game』から察せられる通り「Bトーキー」にはブラインド映画の含意があり、それは「すべての映画は "盲人映画" だ」と語った、サイレント映画好きのカフカに由来する。しかし、この題名は92年シアターΧ(カイ)上演時には封印され、それに代わって『肖像画商会』『顔の演劇』『Facade Firm=ファサード・ファーム』という呼称が96年アデレード芸術祭まで転々とした。ちなみに99年フランス5都市公演『Os-iris/ Oscillis』もそのヴァージョンである。

[*2] 「survey=サーヴェイ」には測量のみならず「監視」の意味もあるため、ここではゾンデを挿し入れる「測深」を意味するフランス語「sondage=ソンダージュ」を採用している。

[*3] ヴァルター・ベンヤミン『陶酔論』(飯吉光夫訳)のハシッシ幻覚実験ルポに匹敵する、スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェーヴィチのペィヨーテ幻覚実験ルポは、95年シアターΧでのモレキュラー三部作公演の一作『口の演劇=Funnelled』に結実した。(八角聡仁氏によるこの公演評は、本サイト掲載『HO-kori の培養・Ⅱ』における〈L字形〉として散見されよう。)

[*4] アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』宇野邦一訳・ペヨトル工房刊、参照。

[*5] 「symbiosis=共生」という在り方に対して、およそ劣位に、否定的に思われがちな「parasitism=寄生」(豊島『演劇のアポトージス 第一章』参照)をむしろ肯定的に捉え返した演劇実践を、すでに86年以前から〈演劇マシーニック〉と名付けていた(このサイトのトップページ掲載『f/F パラサイト』チラシ・ヘッドライン参照)。

[*6] サミュエル・ベケットには『芝居 下書き=rough』というテクストも数篇あって、その「ラフ」を豊島は、役名なき「ト書き文」と同様、特異なジャンルとみなしている(現代詩手帖のエッセイ参照)。96年にモレキュラーが始動した新作群は、単に写真と演劇を連動・重奏させるのではなく、そこに「下書き=ラフ」がマシーニックに組み込まれた「写真演劇=Theatre of photog-rough-y」であった。

[*7] 豊島の構想・提唱による「東北演劇祭=TOHOKU Arrival of Theatrical Articulation/TATA(タータ=多数多様体)」は1983・86・89年の三度、それぞれ〈場所〉〈非場所〉〈カフカ〉をテーマに八戸で開催された。92年の四度目を想定して、90・91年「間奏的なカンタータ=交声楽」と銘打ったが、その実情はもはやタータとの連続性/不連続性を断ち、絶対演劇に急転回していく動向だった。ともあれ、92年3月「絶対演劇フェスティバル」と11月「MORG=モルグ 92」(M=モレキュラー、O=オルガン、R=ルフ、G=ガトス)という演劇祭は実現し、さらに3年後の95年には、豊島と及川廣信氏の主導による「国際パサージュ芸術祭」がシアターΧで開催されたことを追記しておきたい。

[*8] 竹橋の東京国立近代美術館での大規模な「荒川修作展」は、当時広汎な注目を浴びた。

■■
[*9] ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳・河出文庫刊、参照。

[*10] ヴァルター・ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』今村仁司編・訳、参照。

[*11] 「絶対演劇」に対する有森批判が、(その標的として精神分析批判をも含む)批評的な概念操作/理念系の偏重に留まらず、そういう要素を〈上演におけるマテリアル〉として切り出されていない点に求められている。本当に切り出されていなかったかどうかは大いに疑問だとしても、その批評的視点には敬意を表しておこう。

[*12] 93年刊「ユリイカ/寺山修司特集号」所収の豊島『二度性の演劇——演劇史の「死後の生」』参照。

[*13] 例えば「雨ニモマケズ」の詩や「土神と狐」の童話が、同時代に「満州国建設=中国・アジア侵略」のスローガンに転用されてしまうといった一例にみるように、賢治のユートピア志向/芸術的な無意識には、無残にも「七生報国/八紘一宇」めいた理念を、加速する暗面が確かにあった(豊島『流刑地の秘書たち』参照)。

■■■
[*14] 有森批判の根底に〈基礎論〉を感受しきれず、応接しかねた臨場性が〈基礎論〉と、つい口を突いて出たと思われる。

[*15] ここで一見、唐突に〈白さ〉が言及されているのは、有森批判が空間と空白を積極的に混同している展開に対して、空白の白だけを切片化してみたものと解してはどうか。

[*16] 通時性と共時性、統辞法とその切断面、むしろ出来事の次元と、その事後的な解読の次元とを、さしている。

[*17] 前段の〈白さの事態〉を文字通り、具体的に言い換えたものである。

[*18] これまた〈白さの事態〉のリワーディング。ただし、サンス=意味・方向・知覚/ナンセンス=無意味・無方向・無知覚に対する、ノンサンス=非意味・非方向・非知覚が、肯否、両義的に駆使されている。

[*19] サイト転載にあたって全面的に加筆したが、とくにこの段は、読者向けに分かりやすく改訂した。

[*20] このあとも、同様の「絶対演劇批判」が繰り返された。けれども、当事者たる有森氏とは音信不通になったためもあり、サイト転載については切り上げざるを得なかった。

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