クロストーク<「場所と交通」の周辺>

クロストーク<「場所と交通」の周辺>
渡部満(八戸・画家)・豊島重之(TATAコア)

豊島 東北演劇祭のモチーフである<場所>について浅田さんから明確簡潔にして完結したメッセージが寄せられたわけだけど、ま、それだけに、そういうメ線なのか、どういう前提から発せられたものなのかが解らないと大多数の読み手には入りにくいと思うのです。そこで、かねてより浅田彰に注目している渡部さんにこの「場所と交通」を理解する際の伏線なり手がかりなりをいくつか伺いたいというわけです。

渡部 まず場所というのを、内的にも外的にも規定されない、そういう規定の外にある一回性の運動体、還元不可能な生起という風に把えている。解り易く言えば、富士山も岩木山も山としては同じじゃないか。君も僕も人間としては同じじゃないかっていう、たとえばヒューマニズム的な視点とか、あるいは僕が僕であることを保証する自己とか内面とか、それこそ中心とか周縁とか、それらはみな超越的(メタ)な概念なんだ。要するに抽象なんだ。そういうものでくくってしまうことの横暴さっていうか、そういう事態に盲目的なまでに現代が抽象空間を愛してしまった、身近にしてしまった、ということでしょ。

豊島 つまり僕らは骨の髄まで深く構造化されているんだ、いつのまにか自分で自分を囲い込み(エンクロージャー)してしまっているんだ、という。

渡部 それに対して身体のカオスというような反構造をもってきても駄目なんだ、つまり構造/反構造、秩序/渾沌とか、内/外、深層/表層、固有/遍在っていうような二分法がもはや通用しなくなっているというわけですね。

豊島 出会いと言わず交通というのも、出会いにまつわる二項的、あるいは三項的な関係構造をデコンストラクト(脱構造化)したものとして出てきている。

渡部 言ってみれば、ただそこに線がひかれれば交通がおこるってだけのことで、それは善でも悪でもないし、中心から周辺に流れるってものでもない、全ゆる偶然性とか一回性が渦まいている、全ゆる価値とか概念をはぎとった状態なんですね。ところが僕らは余りにもそれ以外のことを要求してしまう、目的とか意義とか、色んな抽象化が入ってくると、こっちが都市でこっちが地方とか、こっちが主でこっちが従だとか、そういう二項的なネットワークじゃなく多項的な、いやもっと錯綜した、ドゥルーズ/ガタリ(以下D/G)のいう多数多様体としての交通、つまりトゥリー(樹)状じゃなくリゾーム(根茎)状の交通なんだと言ってるわけだ。

豊島 たとえば即時的な、というより即物的あるいは植物的な運動体というか、内発的な、というのはまずいか、つまり自生的な力をイメージすればいいのかな。

渡部 要するに後で出てくるアクション、鋳型にはまった力の行使じゃなくて、溢れでるもの、自由に生成するもの、力そのままに動く力というか。ところが僕らは鋳型をもらわないと動けなくなっちゃっている、たとえば他者(父)を規範としつつ敵対者としてのりこえる、というエディプス三角形とか、中心の禁止と周縁の侵犯というようなドラマの枠組とか、つまり周縁が越境してきて一時的な逆転とか中心の再活性化とかが行われるけど、その中心と周縁を設定している枠とその質はいつまでたっても変らない、その相互規定の中でエネルギーを奪い奪われるだけの閉じた体系なんだ、しかも抑圧とルサンチマン(怨恨)のアブジェクティヴ(おぞましき)な閉域なんだ、というわけでしょ。いまだに大多数が中心/周縁や禁止/侵犯のドラマをダイナミックだと考えている現在、それはもう終ったんだ、現実はもはやそれとは全く別な動きをしているんだ、という浅田の発言はかなり衝撃的だと思うね。

豊島 そこで一歩退いて、中心/周縁のメカニズムについて、殊に浅田が一貫して言ってる中心はどのようにして析出されてくるかを僕なりにまとめてみたい。一口で言えば、それは個と個(自己とイマージュとしての自己)の関係性としての対から三角形(円錐)へ、ラカンで言えば想像界(イマジネール)から象徴界(サンボリック)へという移行に対応していて、まず、無数の対、無数の二項対立でできた相互規定性の平面ってのはつまりはお互いに自らを主に、相手を従にしようというむきだしの闘争の場であって、へたすると共倒れになってしまう、その直接的な敵対を救済するにはクッションというか媒介が必要となる。そこで満場一致で一人を<従>として全員の<従>性を一身に背負わせて平面下に葬る。いわゆるスケープゴート(身代り山羊)ですね。ところがその過剰の他者性ゆえに一転して浮上し、絶対的他者(大文字の<主>)として全員を見下ろす高みに君臨することになる。この第三者を媒介とすることによってむきだしの対立は間接的なものになり、万事がその一点から放射状に照らされて自己同一性も獲得でき、場としてひとまず安定するわけだが、こうして析出された媒介的中心ってのは、言ってみれば、死せる王・神・父であって、フロイトの自我・エス・超自我の三角形の超自我みたいなものであって、自分を生み出した全員に対して禁止として、いわば抑圧機構として機能することになるわけですね。

渡部 中心ってのはだから、パースペクティヴ(遠近法)の焦点としてのゼロ記号つまりメタレベルと言ってもいいし、虚構された超越的な中心、不在の中心と言い換えてもいいわけだし。

豊島 こういう風にしてできあがった三角形のメタシステム、D/Gのいう超コード化(専制国家)の過程がいわば前近代であって、それが崩壊して、つまり中心がもとの平面にひきずりおろされて個々人の中に内面化(それが即ちパパ—ママ—ボクのエディプス三角形)される過程が近代ってことになる。だから、いわゆる近代的自我ってやつは、いわば前近代の遺制が内面化されたにすぎないもので、本質的には前近代と近代に変わりはない、現代になってようやくそれが露呈されてきたというわけでしょ。

渡部 だから、中心/周縁のパースペクティヴてのは一見ダイナミックに思えるけど、実はスタテック(静的)な囲い込みというか鋳型としての象徴体系なんだ、つまり言語即ち父性原理ですね。その意味では、さっきの媒介ってのは言語の獲得で、中心の析出ってのは言語の分節構造つまりパパの発する禁止・抑圧としての言語ということとそっくり対応しているわけだ。

豊島 じゃ、近代以後の動力源は何なのか、たとえば現代の高度資本主義のダイナミックな運動を把握するキーワードは何なのかっていうことになる。

渡部 近代のモデルとして浅田はクラインの壷という内も外もないメビウス的立体をラカンからひいてきている。つまりメタレベルとしての中心が自分を生み出したオブジェクトレベルに環入してくる過程、D/Gのいう相対的脱コード化ですね。トラやライオン(商品)に混じって動物(貨幣)が歩きまわっているというわけでしょ。そういう貨幣のパラドキシカルジャンプ(逆説的飛躍)のように、いわば差異のパラドキシカルな運動が、つまり差異こそが自己という閉域とか全ゆるメタシステムの開口部としてあるんだ、しかも近代では一方向の運動だけども現代では多数多様な方向なんだと言ってるわけですね。

豊島 つまり、はじめの対、自己とイマージュとしての自己という自己言及的な関係に立ち還って、それを中心という媒介によって解決するんじゃなくて、自己差異の運動として把え直そう、いや、本来そうなのだ、というわけね。言語だってそうだ、自己言及的な体系だ、シニフィアン(意味するもの=能産性)とシニフィエ(意味されるもの=所産性)もまた、その差異が創り出したものだ、っていうことでしょ。そしてまた身体についても浅田は、中心(言語の分節構造)と周縁(非定型な欲動のカオスあるいは連続体)のどちらにも帰属させてはならない、というようなことを今月号の「海」('83.8)にも書いてますよね。

渡部 そこで言われてるのは、シューマンってのはスキゾフレニック(分裂病的)であってそれを律儀に完璧に弾いてもちっとも面白くない、つまり音楽という制度に忠実に弾くこと自体がパラノイアック(偏執狂的)なんだ、シューマンを本当に弾くには構造と反構造からスキズ的に実をかわしながら微分差異化していかなければならない。そのどっちでもない<間>とかズレや複数性を孕んだ<点>とか<強度>のしなやかな運動、というようなことですね。

豊島 スキゾ/微分—差異化(デファレンシエート)が全ゆる構図、全ゆる囲い込みから逃走する思想だとすれば、家族/国家(前近代)にしろ、追いつけ追い越せの家族/学校(近代)にしろ、いわば居を構える思想は全てパラノイアック/積分—統合化(インテグレート)なんだと、そしてこれは浅田自身が言ってるけど、スキゾ・プロセスってのはガキの思想、遊びの思想と呼ばれかねない、持続や再生産を拒否するわけだから。

渡部 これだけおかしな世界になってきたのだから、いくらでも逃走線はひけるんじゃないかな。日本にいても日本国家の構造をすり抜ける方法とか、家族であっても、たとえば父をのりこえたエネルギーは新たなる父として君臨するために向けられて閉環しちゃうんだけど、父とまともにやりあわないで逃げちゃえ、父とやりあって勝てば父になるしかないし、負ければ子供であるしかない、だから属領化されていない方向を探せばよい、そしてそれはありそうだと思うね。

豊島 人間ってのは本来、スキゾなんだ、リゾームなんだ、だけどそれに枠をはめる、囲い込む、いわば自己限定することではじめて人間なんだ、生活者たりうるのだ、という考えに対してはどうかな。

渡部 うーん、だから、D/Gのニーチェ論で言えば、力というのは二種類しかない、アクション(能動的な力)とリアクション(反動的な力)、はじめに触れたようにアクションてのは、生成、拡散、分裂する多数多様体だとすれば、リアクションてのはそういう力を封じこめる、囲い込む、建築していく力だよね。いつだったか豊島さんが柄谷の建築への意志に対して音楽への意志って言ったけど、意志ってのは全て建築への意志なんだ、それがヨーロッパの知を形成してきたんだ、それに対してここでは力への意志じゃなくて力—意志、つまり力そのものが意志なんだという風に捉えられている。

豊島 でしょうね。だから、たとえば意識に対して気分って考えれば、意識ってのは建築つまりリアクティヴな力つまりパラノイア/積分—統合化よね。一方、気分ってのは音楽意志っていうかアクティヴな力、スキゾ/微分—差異化の運動ってことになる、例がよくないかもしれないけどね。

渡部 東北演劇祭の愛称を多数多様体をつづめたタータにこじつけたあたりの豊島さんの思い入れに反して、この間の山崎哲二作一挙上演でもそうだけど、ここにある“受苦に対するリアクションというまたしても鈍重な構図”からなかなか抜け出られないでしょうね。

豊島 浅田は、だからこそ軽やかさとか繊細さとか、しきりに強調してるわけですよ。ただ東北演劇祭はともかくも多数多様な場所や身体の交通として設定はされてるし、それから今言った「異族の歌」の方なんかは、なるほど受苦的個ではあるけど、関係性がどんどん希薄になっていって、それぞれの個が個として孤立していく、これだってひとつの逃走の仕方だと、そっから始めないと囲い込みに対して武装できないと思うのね。

渡部 あれは逃げ場のない逃走だね、線をひいてやらないと軽くならない。

豊島 体が縮むということで線をひいてるとも言えるし、ま、軽くなれないのが近代の知の在りようであって、たとえば自己縮小感覚ってのは病的なスキゾだけれども、それをアクションとしてのスキゾに、微分—差異化としてのスキゾに変調させる裂け目を見出そうということもあるし。(1987.7.15 於統一館)

(初出「TATA」Vol.3/1983) 

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