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丸の内貼り混ぜ屏風の世界
東京駅はそのまま復元してはいけません
伊達 美徳
1.「復元するということー東京駅はそのまま復元してはいけません」
この副題はわたしは大いに気になる。お話は当然のことに主題のほうに比重が置かれていて、東京駅復元の話はその一部であった。はじめに、こんな副題を書いておくと釣られてくる人が増えるだろうからと、冗談口があった。当然わたしは釣られたのだが、もちろんそれだけではないことを、弟子のひとりとしては強調しておくのである。
古代の出雲大社建築から現代の東京駅まで、日本歴史の時間と空間を自在にわたりあるき、「復元するということ」のもつ意味は多様にして時には深刻でもあり、そこに潜む問題を深く考えさせられたのであった。
もう何十年も携わっておられるNHKTV放送の大河ドラマの建築考証の裏話もあって、このときばかりはTV嫌いのわたしは後悔したが遅い。
聴く前は講演の全部について記録を起そうと思っていたが、とてもそれはこちらの能力がいろいろな意味で伴わない。ここでは東京駅と三菱一号館に関する部分を採り上げて講演を再現する。1時間半の講演のうちのほんの一部で、文責はわたしにあるが、事前に平井先生の目を通していただいた。
下図に見るように平井案の東京駅復元提案図の過激なる内容と、温厚なようで過激なる語り口との取り合わせが面白く興味尽きないのだが、文章にするとそれが表現できないのが、もったいない。これも復元の難しさのひとつである。
2.東京駅復原の平井案の意味するもの
ここからは平井さんの講演の解説と、解説のフリをしたわたしの勝手な論である。どこが解説でどこが独断かは、お読みになる方にお任せするしかない。書くほうにはその判然とした仕分け能力がないから。
(1)「敗戦のモニュメント」としての東京駅
この講演の平井さんの奈良コンペ応募佳作入選のタイトルは、「中央停車場(東京駅)二段階復原計画」とあり、復原提案図とともにこのような詞書がある。
日本には、敗戦のモニュメントがない。敗戦を終戦といいかえて、敗戦と敗戦に至る過程を、消し去ろうとしているかに思える。
敗戦と敗戦に至る歴史へのおもいは人によって異なっていても、常に呼びさまして反省し、明日への糧にしなければならない。敗戦への道の出発点と結末を示すモニュメントには、東京駅がふさわしい。
これは真剣に考えなくてはならない問題である。
このコンペは、財団法人世界建築博覧会(奈良市)と奈良/TOTO建築トリエンナーレ実行委員会が主催する「奈良/TOTO 建築トリエンナーレ公募部門1998」であった。一般公募で1998年9月14日締切、協賛にTOTOの名があるから便器メーカーがスポンサーであったらしい。
1998年10月に開催した「建築トリエンナーレ」のオープニング式典で表彰式があり、奈良市史跡文化センターで入賞作品の展示会がおこなわれた。平井さんが出向いたのはここである。肝心のこの博覧会そのものは財政難で中止になった。
コンペの主題は、「歴史都市の保存と再生ー歴史を生きた名建築の再生」で、応募者が選ぶ名建築を現代の生活の中に再生させ、新しい息吹を吹き込むことを求めている。単なる復元や補修の保存方法を求めるものではない。
審査委員長は藤森照信、委員は岸和郎、隈研吾、妹島和世の諸氏である。博覧会のプロデューサーであった黒川紀章さんは、顧問と書いてあるから審査に口出しはしていないのだろう。
入選は、1席1、2席1、3席2、佳作5点であった。他の入選案と比べて平井案は明らかに異色である。
(2)戦前戦中戦後を一身に背負う再生東京駅
では、平井さんが選んだ東京駅赤煉瓦駅舎について、その提案する「歴史を生きた名建築の再生」復原図をみよう。
現物の東京駅舎は、正面から見て左(北)、中央、右(南)の3箇所にドームがある。1945年の空襲で焼けてドームは曲がりくねった鉄骨だけになった。
それを修復して1947年に現した姿は、中央ドームは元の形のままに修復再建したが、南北のそれは元は底面の八角形を上面で丸く葱坊主に絞っていたのを、底面は8角形だがそれを直線で絞ってトップを正方形にしたので立面が台形状になったのであった。
平井案の3つのドームは、北は戦争中1945年5月の空襲による燃えた直後の姿に、中央は戦前と戦後の共通する姿、南は1914年に竣工した戦前という3つの姿になっている。戦前、戦中、戦後の3態を一身に負っているのである。全体としては北半分は戦災直後、南半分は戦後復興後の姿である。
特に、これが日本人の多くが個人的にもなにかの記念的な場所として体験している名建築であるだけに、そしてまた天皇をはじめとする日本や外国の要人たちにも特別の場所として位置づけることができる名建築であるだけに、そのインパクトは大きい。
それにしても、戦災で被災した鉄骨が曲がりくねってむき出し、壁は煤煙で汚れ、窓ガラスは破れた姿に復原せよと、詳細な図面まで描いてあるとはなかなかに過激である。
一般に建築の再生復原とは、当初のできたばかりの美しい形への復帰をついつい思い浮かべてしまうが、たしかに長い歴史を生きてきた建築は復するべき時点はひとつではないことが多い。どこの時点に再生復元するか、それはその建築が出会ったエポックメーキングな事件のときであろう。
それが生まれたときがエポックであることは確かだろうが、その後にもありうる。建物が大きな被災したとき、あるいは大きな増改築で変化をした時であることも、当然に再生復元の選択肢として考えるべきである。例えば、広島の原爆ドームは被災時の姿である。常に壊れていくので常に復元を行なっている。
平井案の過激なる独創性は、東京駅のエポックとして創建時と戦災直後の両方の姿を、ひとつの建物に再生復元して見せようとすることにある。東京駅が背負う重層する歴史を視覚に具体化するのだ。復元あるいは復原とは、創建時にもどすことだとほとんど思い込んでいるらしい建築保存論者は、これには意表を衝かれるに違いない。
(3)審査員たちの講評
雑誌「新建築」1998年11月号にコンペの結果が掲載されているが、審査講評でこの平井案に触れているのは、藤森さんだけである。こう書いている。
ここで歴史の重層化という、保存における重要な基本概念が示されている。そのような保存がこれまでなかったというのである。
おや、そうなのであるか、これには、わたしは奇妙な感を覚えるのである。歴史というものは長い時間における多様な出来事が重層してこそ歴史となるものだと思うからだ。前後のない歴史というものはありえないだろう
ところが建築史家の藤森さんに言わせると、そのような重層する歴史を表現する建築保存は、これまでなかった、だから独創性のある提案というのである。意表を衝かれたのだろう。古ければ古いほど歴史的意義があるので、保存はできるだけ古い形においてこそ意義があると、建築史家たちは建築保存をやってきたのだろうから。
最初の作られた時からその後の時代に必要に応じて改変されつつ使われてきた建築でも、文化財として保存となるととたんにその後の時代の歴史痕跡を一生懸命に消し去るのである。最初の一瞬だけこそ歴史であるという思想は、いったいどこから来るのであろうか。
現在進行している東京駅の復元がまさにそれである。あの国鉄建築家たちの涙ぐましい戦後復興の努力の歴史を、きれいさっぱりと消し去るのである。
物資のない時代に、トタン張りの三角屋根でも良いものを、形こそ丸から角に変えたにせよ元と同じ高さの巨大なドームを建て、中の天井は平に張っても一向に構わないのにパンテオンドームに擬してジュラルミンで作るし、3階部分をちょん切られたオーダー柱のエンタシスも柱頭もふたたび左官手仕事で整える。
そしてできあがった姿は辰野金吾のそれよりもプロポーションは良いのである。様式建築とモダニズムの見事な調和による修復の模範である。
藤森さんは東京駅については復元派であるはずだから、平井提案には同じ建築史家としてドキッとしたのであろう。そこで先達の建築史家に対して独創性というほめ言葉か阿諛か分からない講評をつけて、佳作に入れたのだろうか。
隈研吾さんの講評は、平井案に言及はしていないが、古いものを保存するという「この手の正論を取り扱うときに必要なのは、ユーモアである」と逆説的なことを書いている。
それならば、平井案はまことな高度なブラックユーモアに満ち満ちていることになる。これはあまりに高度すぎて並みの建築家には理解不能か。
(4)批評としての建築表現
平井案は、戦争という愚行への文明批評であり、かつまた従来の建築保存史観への文化批評でもあるのだ。建築のデザインが批評となるひとつの例である。
言語、絵画、漫画、イラストレーション、映像等による社会批評や文明批評はあるにしても、建築表現による批評は果たしてあっただろうか。
それについて思いつくのは、1931年に前川國男が応募して落選した帝室博物館設計競技である。建築コンペ応募において審査員を批評したという有名な事件である。日本趣味あるいは東洋風というコンペ条件を無視して、モダニズムそのもののデザインで応募した。当然に落選してから雑誌に落選図面とともに「負ければ賊軍」という論を発表した。そこには牢固たる建築界のボス支配への挑戦を謳っていた。そのとき前川は若干26歳、まだ処女作さえできていない卵であった。その若書きとも言うべき落選案である。後に前川は、あれがもしできていたら恥かしい、というようなことを述べている。
それに対して、平井さんは建築史家として斯界の大家としての応募者であった。そこが大いに異なる。その批評の鉄槌は重い。
ところで、東京駅の復元にあたって事業者のJR東日本が現場調査したら、戦災のときに炎をかぶって飴のように曲がった鉄骨の一部が、ドームの屋根と天井とのあいだに残っていることが分かったそうである。
それならば平井復元案では、まさに現存する建築を保存することになる。現在JRが進める工事のように、失われたものを図面や写真を元にコピー再生するのではないのだから、復元原理主義者たちがお好きな「ホンモノ」、つまりオーセンティシティである。まさに平井案はコピー復元の意味をもずばり問うている文化批評であった。
建築作品による文明批評といえば、東京中央郵便局の現在進行中の一部保存建て替え高層ビル(「JPタワー」というそうだ)のデザインは、まさにそれではあるまいかと、わたしはひそかに思っているのだ。
事業者の日本郵政会社が発表した完成予想図は、現在の中央郵便局舎の5階建ての形態はそのままに下層階に保全し、その上にガラス張りの超高層建築が立ち上がっている。地上38階で、丸ビルよりも一層多い新丸ビルと同じで、丸の内では最高になるのだろう。
その絵をしげしげと見ていて、わたしははっと気がついた。この上部構造の超高層建築のデザインは、折り紙飛行機ソックリなのである。ガラス板で折ったヒコーキは今、下部構造たる中央郵便局舎に突っ込んできて、まっさかさまにブスリと突き刺さった。超高層部は立ち上がったのではなく、天から舞い降りたのだ。これは21世紀幕開けの年に地球の裏側で起きた9・11事件、これはそのパロディにちがいない、と。
かの地の業務中枢とこの地の丸の内、もっとも高いWTCとJPタワー、そしてガラス
折り紙に託した航空機のメタファー、これはパロディでなくてむしろ真正面からの文明批評と言わねばなるまい。WTCのあのあまりにも無残な崩壊は、20世紀工業主義建築の行き着いた先を見せたのであった。
だが、かの国はそれを承知できずに、超・超高層建築を拡大再生産している。そして、こちらの地においても。かの地ではこのようなパロディも文明批評もなりたつまい。そのような批評を受け入れる土壌がないだろうし、折り紙ヒコーキもないから。9・11を隠喩するには、地球の裏側のこの地だからこそ成立する文明批評となるのである。
(詳しくは→●東京中央郵便局の保全を考える(2008.7.10) 日本の建築界は今や、西欧から移入した技術を素朴に表現する赤レンガ東京駅舎(1914年)と中央郵便局(1931年)を従え、その克服した時代は既にかなたとなり、いまや文明批評にまで昇華する段階に至った、もって慶賀すべし。
そう思えば、2009年にできた新しい「三菱一号館」も、実は文明批評であるかもしれない。鉄とガラスの行き着いた超高層建築群に対して、19世紀末の手仕事の建築を対置することで、行きすぎた現代社会の危うさを訴えるのだ。
なんてことを三菱地所が考えたことはまさかないだろうが、外から見る眼としてはありうる文明批評となっている。
(5)丸の内貼り混ぜ屏風
東京駅の丸の内駅舎に関しては、1988年に国が東京駅周辺整備の調査をおこない、その中で赤煉瓦の駅舎は現在地で形態保全すると定めた。これで取り壊して再開発する方向は消えうせた。
次はどう保全するかが問題となった。耐震の問題もあるし、復元が適切なことか、可能かどうかも難しい問題であった。
その後はJR東日本が中心となって調査を進めていたが、1996年に東京都とJR東日本が、それぞれ別に復元を骨子とする整備計画を発表した。このときから復原への正式な歩みが始まったといってよいであろう。復元を要望する活動団体は勢いを得て、一抹の不安は持ちながらも復元の方向となって大きく喜んでいた。
上に述べた奈良のコンペが決まった1998年10月には、都知事とJR東日本社長が共同して復元を発表している。このころから丸ノ内近辺の建て替えの動きと、歴史的建造物の保存の動きが著しくなってくる。
1991年には、都庁舎、銀行集会所が取り壊された。1993年に銀行集会所は超高層ビルの足元に、立て看板状に皮を貼り付けた状態で再現された。1995年には第一生命ビルの一部保存によるDNタワーが出現、1997年は丸ビル取り壊し再開発となった。
その後も各種の建て替えがあるが、全部保存、部分保全、部分コピー再現、そして全部コピー再現など、まさに百鬼夜行の保存・保全・復元・復原・再生・再開発の丸の内である。
あそこで見回すと百鬼とは、むしろ再現建築の背後に身をそらせて立ちあがる、勝手な方向を向く勝手なデザインの超高層建築群である。一巡すれば、百曲もある貼り混ぜ屏風を見る思いがする。
なお、今の丸の内百鬼夜行の源は、東京駅の調査をやっていたころに三菱地所が発表して総スカンを食らった「丸の内マンハッタン計画」であろうと思う。総スカンを食らっても、遂に実現させつつあるところが、三菱のすごいところである。
重要文化財の東京駅赤煉瓦駅舎さえも、なんだかよく分からぬうちに復原という名で3階部分のコピー再現工事に取りかかっていて、これは百鬼の大親分格である。
丸の内はいまや「歴史都市の保存と再生」というには、どこにその哲学を求めれば良いのか、見れば見るほど考えさせられ、興味をそそられることが多い風景である。
考えようによっては、丸の内は19世紀末から21世紀初頭までの歴史が重層する宝庫である。若い人たちに見てもらいたい反面教師の宝庫か。
わたしは一時講師をしていた慶応義塾大の院生や東京理科大の学生を毎年このあたりをつれて歩いて、毎年変わっていく風景を解説して保存と開発問題の課題を出したものだ。
(6)1988年東京駅の保存決定 実はわたしも丸の内貼り混ぜ屏風作りは、ささやかな一役を買っているのである。1986年から1989年まで国(国土庁、建設省、郵政省、運輸省)が東京駅とその周辺地区整備計画調査をしたときに、わたしはその作業班のコンサルタントのひとりとして加わっていた。
それは国鉄民営化にともなう用地分割と、東京のオフィス需要逼迫への対応で、東京駅周辺の再開発のマスタープランをつくることが目的であった。同じときに、今の新橋のシオサイトとレインボータウンもマスタープランを別にやっていた。
バブル真っ盛りの泡踊り日本であったが、できたマスタープランを実行しようとしたあたりから雲行きが怪しくなった。東京駅と新橋駅あたりは何とかなっているが、レインボータウンは今も空き地が広がっている。
コンサルタントとしての仕事は、土地利用の都市計画的なことと東京駅赤煉瓦駅舎の処置の検討が主な調査事項であった。わたしは個人的に最も興味のある東京駅赤煉瓦駅舎について、その歴史的位置付けから景観的位置づけまでにわたり、かなり力を入れてやったつもりである。その頃はわたしの専門は都市計画としていたが、何しろ出自が建築史だから、これは面白かった。ホンケガエリする感があった。
公式の調査報告書は建設省の担当官が原案を書いたのだが、その中に「東京駅丸の内駅舎の取り扱いの方向」という項があり、そこに赤煉瓦駅舎は「現在地において形態保全を図る」としている。このフレーズの元はわたしが書いたのだ。これで保存が決まった。
そのとき国の委員会のメンバーのひとりであった建築史家の村松貞次郎さんには、委員の立場を超えてあれこれと教えていただいた。委員会での村松さんの発言は、保存することが前提だが、その方向はかなり柔軟であった。個人的な会話による村松さんの東京駅についての評価は、歴史的にはともかくとしても、意匠的にはあまり高くはなかった。
そしてわたしは東京工業大学平井研究室を何回も訪ねて個人的に調査の指導をいただき、建築の保存とは、復元とはについて多くのことを教示していただいたのであった。その前に仕事で平井研究室を訪れたのは、建築家・山口文象の評伝を出版するために、創宇社建築会の資料を収集するときであった。弟子はいつまでも勝手に弟子である。
第1次大戦戦勝と第2次大戦敗戦復興の両記念碑として歴史重層表現することに、その意義を見出そうというものである。だから復原反対の立場である。
3.三菱1号館の破壊とコピー再現
ここで話を新築した三菱一号館にもっていくが、東京駅と比較しながら考えるといろいろと面白いことが頭に浮かんでくる。これも丸の内百鬼として話題は豊富である。
(1)純粋煉瓦造のコピー建築出現
2009年の春ごろ、東京駅前の丸ノ内の超高層ビル街に、3階建て超低層ビルが出現した。この建物は「三菱一号館」である。この場所には、1894年に竣工した「三菱一号館」が建っていて、1968年に壊されて消えていたところである。
そのソックリさんの出現だから41年ぶりの浦島太郎である。レンガ建築といえば横浜の港にある商業施設となっている「赤レンガ倉庫」のように、昔の建物を改装したものが普通であるのを、これはまったくのコピー新築である。
工事現場の仮設建築ではこのあたりにも3階建てがちょくちょく出現しては消えるがこれは本格的な建築で、ちかごろは絶えてなくなっているレンガ建物である。しかも本当に煉瓦を一枚一枚手で積んで構造体にしているから、よくある煉瓦タイルをコンクリ壁に貼り付けたものではない。純粋煉瓦建築である。3階建てではさすがに超高層ビルと肩を並べるわけには行かないから、低い肩の上に尖った屋根をとドーマーを精一杯に突き出している。
この建物は、いったん壊した建物のソックリコピー再現建築である。丸ビルも新丸ビルも国鉄本社ビルも建て直して超高層となった今、ここにきて当初の赤レンガ建築のリバイバルとは、いったい何が起きているのだろうか。事業主たる三菱地所会社としては、1968年にいったんは自らの手で取り壊して消滅させた建築を、再び巨額な工事費を投じて再現して超高層ビル群の中に低層ビルを建てる意義はどこにあったのだろうか。
それは東京駅が巨額の費用を投じて、戦災で消滅した3階以上の部分をコピー再現することと通ずるところがある。丸の内の歴史的建築の復元という狭い視点からだけではなく、都市社会的な現象として興味がある事件である。
もっとも、日本では昔からコピー新築の建物はけっこうあった。有名なものでは、17世初めの作で国宝となっている「如庵」と呼ばれる茶室である。これは江戸時代からいくつもコピーが造られて、いまは5軒のそれが各地に存在する。
近代建築のコピーといえば、京都三条にあるみずほ銀行の煉瓦造建築と東京御茶ノ水にある御茶ノ水スクエアA館低層部、丸の内の日本工業倶楽部会館の半分であろう。内部や構造は全く違うので厳密な意味でコピーといえないと建築史家は言うだろうが、表から見たところは昔建っていて壊されたものとソックリそのままである。現代建築では安売り屋と安ホテル屋がどこへ行っても同じ格好で建てている。
(2)旧「三菱一号館」取り壊し事件
ここでは三菱1号館が創建された19世紀末の時代ではなく、20世紀後半の高度成長期から今日までを見る。
1968年3月23日のサンケイ新聞東京版の朝刊に、「明治の"赤レンガ"が消える 丸の内「三菱東九号館」を解体」との見出しで次のような記事が載っている。この東九号館とは一号館のそのころの名称である。
3月26日の朝日新聞東京版の朝刊には、「また消える"明治の名残り"抜打ちに解体準備 三菱一号館 文化財指定を急ぐ 文部省、保存に大慌て」の見出しで詳報を載せている。
それによると、丸の内で次々と赤レンガ建物が壊されて、最後に残るこの三菱一号館は、「明治時代を代表する建築物で歴史的・文化的価値が高いだけに、文部省や建築学者が保存の方策を考えて」、文部省文化財保護委員会はその前の年の9月には保存について三菱地所に協議の照会をしていた。
これに対して三菱側は、すぐ前の道路の下に当時の国鉄の地下線路(横須賀線)の乗り入れ工事が決まっていて、その地盤の揺るぎにレンガ増建物は耐えられないから壊すといったとある。三菱の総務部副長の言として「強制指定なんてのは私有財産を否定することで、憲法違反ではないか」と言ったと書いてある。委員会は一方的に文化財指定もできるので、指定して保護しようとしたが、三菱は聞き入れない。
それがようやくこの3月21日になって三菱所所から「取り壊さざるを得ないが、一部は移築保存も考えている」と回答があった。そしてその翌日(この日は土曜日)に突然に解体工事が始まったというのである。不意をつかれて文化財保護委員会はあわてたがもう遅く、どんどんと壊されてしまった。
一方、建築学会ではどうであったか。学会としては当時保存すべき明治建築として、日本銀行、赤坂離宮、三菱1号館を候補として、1960年に文部大臣に建議していた。これを元に1967年に1号館の持ち主の三菱地所に打診をした。
当時の文部省文化財保護委員会の長であった建築史家・太田博太郎の言葉にこうある。
(3)三菱地所の言い分
では三菱地所の側はどのような事情であったか、『丸の内百年のあゆみ』(上巻 平成5年3月6日発行 発行:三菱地所株式会社 編集:同社史編纂室)から、そのあたりを長くなるが引用しておく。
この取り壊した跡に三菱商事ビルが建ち、それからまた42年の後にそのビルをまた取り壊した跡に新三菱一号館が建ったのである。
そのとき再建を指示した三菱地所の社長の言葉として、それを受けた役員の言が『建築雑誌』(2010年1月号 日本建築学会)にある。
(4)杞憂だった耐力問題
高木社長の言葉には、保存することについて制度支援がないから解体した、つまりその容積率分を他に移転する制度がなかったので、保存は採算が合わないので解体したと読める。三菱の公式報告書の百年史の記述にはないが、企業としてもっともな理由が語られているのが興味深い。
ただし、それについては太田博太郎さんの言葉にあるような協議があったらしいこと、その当時でも建築基準法の運用方法で容積率移転もありえたことを考えると、本当のところは分からない。
朝日新聞の記事から見ると、文化財関係者は保存について協議しようとしていたが、三菱側はそれに乗らず一方的に取り壊したというところらしい。
三菱側から見ると、文化財保護委員会と保存についての協議に再三対応したが、耐力の問題はどうしようもなく、移築の可能性を考えてとりあえず解体して、各部材を保存しておいたということである。しかし、移築は立ち消え、保存部材もある時期まではたくさんあったがその後ほとんど廃棄となり、三菱一号館は跡形もなく消えたのであった。
たしかに前の大名小路の地下に、横須賀線から総武線に直通する鉄道路線はその後の1980年に完成した。だが、三菱一号館の10年後に竣工した同じくレンガ造の東京駅丸の内駅舎は今も健在であるから、三菱の心配は実は杞憂であったことになる。この二つの建物は関東大震災でもほとんど無傷であった。東京駅と比べると規模も小さく、間仕切壁も多かった三菱一号館のほうが、耐震性はあったであろう。
常識から考えて三菱のいう耐力問題は二の次の理由であって、現代的オフィスビルにして不動産価値を高めたかったに違いない。しかし、そう言ったのでは八方納まらないことも分かっていて、世の中が休みの土曜日の夜から解体工事にとりかかったのであろう。
三菱の丸の内は、時代の経済が要請する機能に応えるように、常に改造をしながら日本のビジネスセンターの地位を保ってきた。それこそが丸の内の基本的なコンセプトであったと言ってよい。この高度成長のときに、明治時代の古くて使いにくく狭い部屋で、設備も整わないビルは建替えるのは、不動産事業者として当然のことであったろう。
そしてまた三菱としては、1966年からあれこれ政治的に反対工作していた東京海上ビルの着工をとめられないし、67年には国鉄が東京駅に超高層建築を立てる案を発表したし、他にも超高層が出現すると、古い建物のままでは地位を脅かされるという危惧が強烈にあったに違いない。
その一方ではなぜこのいちばん老朽化している三菱1号館をこれまで壊さなかったのかと問われると、高木社長の言うように「三菱地所が原点にしていた建物」であったからだろう。
そのころ前後して北海道庁の赤レンガ建築の保存が決まったこともあった時代でもある。赤坂離宮と日銀は健在である。今でさえ建築に文化を求めるのはなかなかに理解されないことは、2009年に騒ぎのあったこのビルのそばの東京中央郵便局の例をひくまでもない。
1968年ごろには帝国ホテルの保存運動は広くおこっていたが、三菱一号館は学会としてのコップの中の騒ぎにすぎなかったようだ。
それどころか、容積率制度ができて超高層時代がやっときたと浮かれていた建築界では、丸の内で保存すべき建築はもはや存在しないと言った有名な評論家もいたし、日本建築家協会は超高層ビルで埋まる丸ノ内再開発案を発表している有様であった。
(5)三菱一号館コピー再現へ
三菱一号館復元の契機については、引用した三菱地所の社長の言葉のように、三菱が原点にしていた建物だったが、1968年当時は保存のための支援制度が無くて、やむを得ず壊したが、今はできたので復元する、そして復元する建物は収益施設にしないこと、ということであったという。そう、三菱地所は聖地の復活を目指したのである。
わたしのようなヒガミ根性のものには、この言葉の裏には、当時のだまし討ち的な取り壊しについて、三菱としても忸怩たる思いを引きずってきていたが、ここにきてなんらかの挽回策をするということのように聞こえる。
丸の内に自社所有するオフィスビルをかたはしから建て直していって、気がついて見れば丸の内には三菱所有になる文化財級の建物はひとつもなくなっているし、文化施設らしいものも無い状況である。新しいビルの1階にブランドショップを並べたり、丸ビル、新丸ビル、オアゾに商業施設を入れたりして、丸の内もこのところ単なるオフィス街じゃなくなってきたけど、もうひとつ何かが欠けている。
それにひきかえ100年以上ものライバルである三井不動産は、日本橋で三井本館を重要文化財として美術館も開設し、超高層オフィスも建て、まわりには三越や日銀、日本橋などの歴史的な建造物もあって、アチラのほうが一歩企業イメージとしては先に行っているようだ。目の前の東京駅は戦前の姿に復原するというから、これにも先んじられてしまった。
そうだ、こっちには文化がないぞっ、ここらで三菱としてもナントカしなければ……、と社長さんは気がついたのであろう。そこで三菱一号館再登場である。このタマならあのときに重要文化財になりかけたのだから、上手くするとそうなるかもしれない。いまどきなくなった煉瓦でわざわざ造れば、それが評判にもなってイメージ向上になるにちがいない。幸いなことに、今は都市再生特区とか文化財保存型の特定街区とか特例容積率地区とか、あれこれ支援制度がそろった、ウン、これで行こう、となった、のではあるまいか。
(6)伊藤委員会と鈴木委員会
これは文化プロジェクトなのであるから、それなりに権威と体裁を整えなければならない。それには学会を引きずり込むことだ。学会への調査委託である。
工業倶楽部会館、東京駅、中央郵便局などの保存・復元・再開発プロジェクトに委員長・副委員長として采配を振るってきた伊藤滋さんと鈴木博之さんのコンビを持ってきて、都市計画学会と建築学会に「旧三菱一号館復元検討委員会」を立ち上げ、2003年から2005年にかけて検討をした。といってもスポンサーの意向がコピー再現を前提としているから、その是非の検討ではなくて、その意義と方法を見出すことである。
伊藤、鈴木コンビは、伊藤流現実主義的事業推進型と、鈴木流原理主義的建築保存型とは、ほとんど反対方向かよくても同床異夢であるようにわたしには思えるのだが、ここでもなぜかこのとりあわせである。
都市計画学会の伊藤委員会の報告書は読んでいないが、伊藤さんにはお悩みはたぶんなかったであろう。しかし鈴木さんは、レプリカ保存反対、全面保存原理主義者らしいから、これまでの日本工業倶楽部では半分レプリカ、東京駅では3階がレプリカ、中央郵便局ではお面保存であったのに加えて、こんどはあろうことか全部レプリカ再現だから、お悩みは相当なものであったろう。
建築学会の鈴木委員会では、三菱地所委員の基本的に可能な限り本格的な煉瓦造で造りたいとの発言に、各委員から本当に可能か、それが復元なのかと、何のための復元か、などの問題提起がある。そして鈴木さんはこんな発言をなさっている。
ここで史跡とは、文化財保護法に基づく文化財としての指定を期待しているのであろう。最も近くの史跡指定は、江戸城である。その文化財として唯一のお墨付きとなる史跡指定となると、レプリカ建物であっても厳密に元の建物の位置に建てることが求められるらしい。奈良の薬師寺の伽藍復興でも、平城宮の朱雀門も大極殿でも、発掘によって位置が確定したので、その位置に想像的復原でも建てている。見世物の感もある。
三菱一号館でも地中から杭跡が出てきて正確に位置はわかるから、その点では史跡とする可能性はあるとして、鈴木委員会と三菱地所は史跡として文化財のお墨付きを狙うのであった。このとき三菱にしてみれば、文化財となることでの特定街区での容積率の割り増しもありうると狙っていたであろう。壊したときの理由の失敗を繰り返さないために。
ところが、これは地区計画という大きなバリアーにぶつかってしまう。大丸有地区計画では、大名小路にセットバック線が定めてあり、これにそって外壁を決めると元の位置よりおよそ1mのズレが出て建ってしまうのである。
地区計画には「歴史的資産の継承にあたっては、既存建築物位置を尊重し、壁面の位置の制限や高さの最高限度等の柔軟な運用を行なう」の例外規定がある。これの適用を三菱は千代田区に要望したが、新築建物であるから適用できないとガンとしてはねられてしまった。1968年に壊したときはクリーンヒットだと思っていたが、それが逆に強烈なボディーブローとなって返ってきたのである。
位置の変更やむなしと委員会でもわかって、鈴木委員長は最終回の会議で悔しそうに言う。
(7)コピー再現の三菱一号館の意義づけ
結果的には厳密正確に元の位置には建たなかったし、歴史的建築物としての容積率割り増しもなし、八重洲ビルも同様にして壊してからセットバック位置に似たような顔作りをしたのであった。人徳のないところは史跡という勲章でカバーする作戦は、あえなく討ち死にしたのであった。
都市計画をやってきたわたしとしては、法の執行者としての千代田区の論理はもっともであると思うが、それでも柔軟に対応してもよかったような気がする。柔軟な対応で取り引きしていれば、八重洲ビルをもう少しなんとか救えたかもしれないと思うのである。その一方で、どうせコピーなんだから、それで他のホンモノと肩を並べて史跡文化財にしようってのがおこがましい、1mくらいずれてもいいでしょう、とも思う。
そういえば、鈴木委員会で八重洲ビルの保存については、全くといってよいほど触れていないのはどういうわけだろうか。三菱一号館の復元再現プロジェクトは、三菱商事ビル(15階建、1971年)のほかに、古河ビル(9階建、1965年)、丸の内八重洲ビル(8階建、1928年)をまとめて壊して、丸の内パークビルという超高層ビル1棟を建て、その足元の元あった位置に三菱一号館をコピー再現するのである。
隣にある「丸ノ内八重洲ビル」は、21世紀では既に丸の内における文化財級の歴史的建築であった。結局はファサードをイメージさせるちょっとしたデザインとなっているだけで完全に破壊された。
かつて文化財になる寸前であった建物を壊し、今も文化財級の建物を破壊することについては、評論家の松山巌さんが座談会で言及している(「建築雑誌」(2010年1月号建築学会)。
ともあれ、委員会がだした次のような「復元の目的と意義」により、できるだけ当初に近い形に、できるだけ当時の工法で建築することとなった。
コンドルの設計であるだけで、代表作でもないし特に優れたデザインでもないことは確かである。ロンドンではそこら中にある建物であった。東洋の片田舎の日本であればこそ器用されたデザインであった。そこで日本のオフィスビルの原点というお墨付きが必要なことになる。
関東大震災でその無残さが証明されて以来、鬼っ子となっていた煉瓦積み建築を今後も建てる機会があるかどうかわからないが、絶えようとする技能を伝えることは重層する歴史の記憶として必要なことであろう。
そして2009年に230万個の煉瓦を忠実に積んでつくったと、じつに即物的に宣伝するコピー再現つまりレプリカ「三菱一号館」は、「三菱一号館美術館」として登場したのであった。
4.見世物としての建築
わたしも含めて建築や都市関係の"業界人"たちは、建築を業界の立場で見てきていて、一般の人たちはもっと違う目で見ているようだと、常々気になっていた。
最近、木下直之さんの『美術という見世物』(平凡社 1993)を読んでいて、新たな視点が見えてきたような気がしてきた。それには世間が見世物としての見ていた作り物が次第に絵画・彫刻という美術に移行して、鑑賞するものと世間が認めていく過程を克明に書いてある。
そこで「建築という見世物」論もあるかもしれないと思うのである。まだ深く考えていないので、ためしにここでちょっとだけやってみることにする。もっとも木下さんのように学識はないから、資料もなくて独断と偏見ばかりである。
建築家は建築とか作品とか言って、どこか画家とか絵画などと同じように芸術と肩を並べようとする。ところが世間では同じものを建物、ビル、不動産物件といって明白に「物」なのである。
そもそも世間では建築家とは言わずして設計士というのも、どこか細工物師の感がある。このギャップはなかなかに興味があるところだ。
名所にある建築についての解説が、それが美しい芸術作品であり、設計した建築家は誰と明示している事例あるだろうか。有名なだれそれが住んでいたとか、どれほど昔のものとか、どれほど広いとか、大黒柱が太いとか、天井板が一枚板で高価だとか、そんなことばかりである。美術館の絵や彫刻(駅前の彫刻も)のように作者を明示することはめったにない。つまり見世物の解説である。それが世間が建築を見る眼である。
建築界の人たちも世間の目で建築を見ることをしないと、いつまでたっても日本の建築は文化にならないと嘆いているばかりになるようだと、今頃になって気がついた。
丸の内はいまでは東京の名所観光地となっている。1980年代まではオフィス街としてサラリーマンの街であり、特に面白くもないところであった。東京駅と皇居前広場が名所であって、そこでは記念写真を撮っても、ビルの前で撮る人はいなかった。
ところがその後の商業開発の導入で、ブランドショップ(見世)が立ち並び、時にはイベント(見世物)もあって観光客が歩く街となった。レトロな感じがいいと言って、三菱一号館美術館の前で写真を撮っているカップルもけっこういる。
そういえば、どうやらレトロという見立てで、復元建物が見世物になってきたらしいのだ。三菱一号館美術館、一部表顔を保存する中央郵便局、三階を復原する東京駅、曳き家保存とレプリカ再現の日本工業倶楽部、看板立てかけ再現の銀行協会、重要文化財として真正面から保存した明治生命館などは、どれもレトロが売り物である。その建物はまわりに立ち並ぶガラスと鉄の超高層建築群が一役買っていることも見逃せない。一種のテーマパークである。(参照→街はお遊びのテーマパークか(2004) )
赤煉瓦の三菱一号館も東京駅の超低層建築は、周りの超高層建築が立ち並べば並ぶほどに遊離して浮遊する。お祭りの時に神社境内や広場や河原に登場し、周りとは無関係に浮き立つ見世物の掛け小屋に見えてくる。今は廃れてしまったが、こうやって生き残っていたのだと見立てると、復元建物がもてはやされるわけも分かってくる。
祭りの見世物はそのときだけの短い期間で消えて、また次の年の同じ時期に登場する。丸の内の建築はもう少し長い時間で現れては消える。祭りの掛け小屋がほとんど消えてしまった今は、もう少し長い時間で祭が続くのであろう。掛け小屋は向うから街にやってきたが、今は交通至便となって全国どこでも掛け小屋を訪ねて人々がやってくる。そこが掛け小屋が特定場所に長期滞在するようになった理由であろう。
三菱一号館は1894年に日本の近代都市の丸の内の草創の祭りの場に登場し、1968年の高度成長という祭りの寸前に消えると、高度成長のお祭の見世物小屋の三菱商事ビルが登場した。そして今、21世紀始まりの祭りの場に、またもや三菱一号館が42年ぶりに美術館というまさに見世物小屋として再登場である。
わたしは1960年代はじめに、丸の内の赤煉瓦オフィスに勤め先の本社があったので、ときどきそこで仕事をしていたから見て知っているが、赤煉瓦の古めかしいオフィス街のひとつひとつの赤煉瓦建物が眼を惹くことは全くない風景であった。だから三菱一号館には、三菱地所は若干は気にしており、学会だけが保存を訴えたが、世間では誰も注目しなかった。そこが東京駅とは大きな違いがある。
東京駅は国家プロジェクトの見世物小屋だから、できたときから今に至るまで文明開化の先端にいる見世物小屋なのである。小屋そのものが見世物であったことは、後藤新平が中味よりも大きさに力点を置いて辰野金吾に設計させたことに表れている。そして世間もそれを東京という晴の舞台装置として認知していた。
そこは祭りの場の入り口のアーチであった。そういえば、1905年、日露戦争の凱旋門のひとつを辰野金吾のデザインで日比谷に作ったが、写真を見ると東京駅によく似ている。木組みの上を杉の葉で飾りつける緑門で、中はがらんどうのハリボテ見世物凱旋門である。
それから約10年、辰野はこんどこそホンモノの凱旋門として東京駅を作ることができた。1914年、第1次世界大戦で連合国側についた日本は、中国にあるドイツ領青島を攻め取った。その12月の東京駅の開業式には、青島攻略の将軍が凱旋してくる列車が東京駅につき、ここから天皇に参内する文字通り凱旋門となる。
ところがこのときも杉の葉で飾った巨大なハリボテ凱旋門が駅前に2つも登場して、辰野のホンモノ凱旋門はその背景とされてしまったのは、なにやらホンモノの見世物にホンモノの建築が負けたような皮肉なことであった。
その凱旋門であるはずの東京駅は、1945年5月の空襲で凱旋門にはつきものの頭飾りが失われて、別の姿に修復された。世間では、アメリカ軍に壊れされたのにいまだに治していない、なんとかしなくちゃとしながらも今に来てしまったと思っているらしい。
いつまでも放っておくものだから、平井さんのように焼夷弾で焼けた形に戻せとか、わたしのように原爆ドームになぞらえて戦争と復興の記念碑としてそのまま保存せよという輩が出てくる始末である。
そんな試練?を乗り越えて、いまようやくにしてその見世物小屋は復旧するに至ったのである。戦災という震災に並ぶ20世紀の不幸な歴史、そして復興というあの大事業の記念碑としての価値を、世間では誰も見出そうとしない。いや、建築界でさえ見出そうとしない。そろそろ見飽きたので姿を変えたほうがいいよって、それは見世物小屋の思想である。
三菱一号館美術館は、美術館というホンモノの見世物小屋であるとともに、建物そのものが見世物であることを誇るのである。230万個の煉瓦という宣伝文句にそれがよく表れている。普通なら見せっこない天井裏を、わざと見せる部屋もある。あるいはたった50個ほどの保存部材を各所に埋め込んで、イコンとして礼拝する。
中庭のカフェテラスでお茶を飲みつつ、赤煉瓦を眺めると昔を知らない若者も懐かしい気分になるらしいが、ひょいと後ろを振り向くと硝子の摩天楼が覆いかぶさっているにギョッとする。それはまさに現実の中に夢と怪奇と珍奇を持ち込む見世物の手法である。
5.建築の復元とは何か
ところで、この三菱一号館は三菱地所に言わせると復元したというのだが、「復元」とは一体どういうことなのだろうか。東京駅ではJR東日本会社は「復原」といっている。
はじめから全部建てなおすと復元で、3階だけ作り直すと復原か。三菱一号館でも、保存しておいた元の部材50個を使っているそうだが復元と言っている。では何パーセント文の元の建物があれば復元から復原になるのだろうか。どちらにせよ、多かれ少なかれコピー再現しているのである。これはどうもほとんど意味のないことを言っている気がしてきた。
最近の言い方ではレプリカであり、昔の言い方だと作り物である。ホンモノではないニセモノである。そういえば、ホンモノのことをオーセンティシティと、最近は言うそうである。
鎌倉の世界遺産登録が足踏みしているのも、武家の都というコンセプトなのに鎌倉時代の建築が全くないというオーセンティシティに欠けるところにあるらしい。法隆寺を世界遺産にするときも、木造だから当初部材は補修で取り替えているから、西欧の眼ではニセモノとされてあれこれとあったらしい。
では、三菱1号館と東京駅の3階はニセモノか。では、どうしてニセモノが3分の1もある建物が重要文化財なのか、そこのところがわたしには分からない。その逆に、今コピーして作った東京駅の3階部分も重要文化財なら、三菱一号館も重要文化財とすることができるのであろうか。
ついでながら、不思議に思っていることがある。東京駅は重要文化財指定になったのは2003年である。指定理由に、「煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で、当時、日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として、価値が高い」とある。
この時はまだ3階部分の復原工事に着手していない。だから1947年以後の形態を持って重要文化財指定したのであるから、これで復原はないと思っていた。それなのに復原工事を文化庁長官が許可したのは、復原が前提であったのだろう。1947年の戦災復興の文化的価値は、1955年の広島平和記念資料館よりも、なぜ低いのであろうか。参考までに東京駅が焼けた1945年5月20日までの計5回の東京空襲による死者は約10万人、広島原爆では約14万人であった。まさかその差ではあるまい。
さて三菱一号館は元の形にできるだけ近く復元するということであったが、結果はどうか。細かい技術的なことは分からないが、雑誌(「新建築」2010年2月臨時増刊号)に載っているコンドルの描いた三菱一号館と今回登場した三菱一号館美術館の平面図を見比べると、エレベーターがついたり、棟割長屋で多すぎた階段をまとめたりして、異なるところが多々ある。
違いとしておもしろいのは免震構造となって、いまやこの建物はかつてのように松杭と基礎ががっちりつながって大地に縛りつけられているのではなく、ゴムの上に乗っかってゆらゆらと浮遊していることである。
三菱地所はいわば聖地を復活したのであろう。そう、聖なるものは天女、仙人、天狗などに見る如く、浮遊するのである。 そしてまた、神社仏閣メッカなど聖なる場所の周りには、遊郭やら見世物やらがあつまってくるものでもある。皇居という聖なる祭殿の門前町にある見世物としての小屋三菱一号館や東京駅がそれであって何も悪いことはない。いまどきの言葉で言えば地域活性化である。
丸の内では、19世紀末草創期の建築群は高さがコンドルと曾禰達蔵が決めた50尺(15m)、1918年の東京海上ビルを嚆矢とする百尺(31m)の時代が戦後高度成長期直前まで続き、高度成長期の1969年の新有楽町ビルから始まる45mの時代、そして1974年の東京海上ビル改築に始まる100m超高層時代へと、順次に高さを変えて建て替えられてきた。建替えるときはテナントを移し変える。これは丸の内型の式年遷宮である。
それが今は一巡して三菱一号館の再現であるから、この次に来るのは50尺時代への回帰であろうか。東京駅も回帰である。
そうか、これは式年遷宮ではではなくて復元という名の輪廻転生であるか、ますます見世物にふさわしい。「親の因果が子に報い…」という三菱一号館にピッタリの見世物小屋の呼び込み声が聞こえそうだ。
それで連想するのは、港区で次々とビルを建てている森ビルである。つい最近になって西新橋にあった第1森ビル(設計:RIA)をとり壊したが、1957年の竣工ではまだ聖地にはならないのであろうか。いつの日か復元するときが来るであろうか。
どうせならば、19世紀末の三菱一号館(50尺)、20世紀戦前の八重洲ビル(百尺)、20世紀戦後の古川ビル(31m)、その後の三菱商事ビル(45m)、そして21世紀初頭のパークビル(150m)という4つの時代を制覇した三菱地所の建築モデル展示の見世物の場にすればよかった。
八重洲ビルはファサードイメージをパークビルに貼り付けてあるから、馬場先通りに美術館と並ぶ低層棟のところはあんな半端なデザインではなく、ここにあった古川ビルと三菱商事ビルをイメージさせる建築を配置すべきであった。こうすれば丸ノ内の重層する歴史をイメージ復元できるのである。もちろんこれは東京駅平井復元案のもじりである。(100908) Copyright(C) 2010 DATE,Y. All Rights Reserved. |







