この川と街との関係は、高梁と比べるとハイデルベルクがうらやましい。わたしは土木的なことは知らないが、日本の川とドイツの川とは治水方法が異なるから、これは仕方がないことなのだろうか。
ところで、ハイデルベルクアルトシュタットは世界遺産の登録申請をしたが、ユネスコから保留にされて暫定登録となっている。その保留にしたいくつかの理由のひとつに、ネッカー川沿いの道路をトンネルにして、昔のように川と街を密接な関係にすることについて検討せよという内容がある。世界遺産登録はなかなか厳しいものである。
ハイデルベルクの景観政策の重要な目標として、「City on the River」つまり「川を生かした町」があり、ネッカー川をハイデルベルクの風景の主要テーマとしている(「
Heidelberg 2015 Deveropment Plan」)。
さて高梁における景観政策において、高梁川はどう位置づけられているだろうか。
3.国道180号のバイパス機能
実は、高梁盆地を南北に抜ける幹線道路は、国道180号のほかにもう1本ある。
国道180号と方谷橋の交差点から市街地に入って、山際をまわりこんで南町の南端に抜ける幅12m~20mの都市計画道路(南町近似線)である。
(最初の図を参照)
方谷橋のたもとから東にまがり、菊屋小路を抜けて美濃部坂の下で鉄道をくぐる。そこから南に曲がって頼久寺の前から山際を通り、南町の南端にいたる。途中で備中高梁駅の東口駅前広場への駅前通りにもつながるように計画線が引かれている。
これは南の半分くらいができているが、北半分がまだできていないから貫通していない。できあがると、盆地の山側外周を抜けて国道のバイパス的な役割と山際の地域へのサービス機能を持つ。
この路線のもつ問題は、方谷橋から伊賀町の辺りまでの市街地内の部分であろう。
菊屋小路から頼久寺前あたりは、生活道路としては交差点改良はあるにしても、現状で特にサービス道路に不足はない。この昔からの密度の高い住宅市街地に通過交通が入りやすくなることは好ましくない。
わたしが見ると、ここを抜けなくても伊賀町から紺屋川に沿って柿の木町までで十分なような気がする。
これでは伯備線との踏み切りの解消にはならないが、いずれにしても踏切は残るし、そもそも1時間に2~3本しか通らない鉄道なら踏切で十分である。
あるいは、この道路が国道180号のバイパス機能としてどうしても必要ならば、北半分が現在のような中途半端な線形ではなくて、伊賀町から街の北端まで延長してはどうか。
その場合は、秋葉山の下へトンネルを掘り、内山下のどこかで出て川端町で国道に結ぶのである。トンネル長さは700mくらいだろう。
これならばバイパスとしても適切な線形となるし、城下町の静穏な生活環境を通過交通の車で乱されることもない。
4.国道B37のバイパス機能
そこでまたハイデルベルクではどうしてるか。
アルトシュタットには、川沿いの国道B37のバイパス的機能を持つ山沿いの道としてフリードリッヒ・エーベルト・アンラーゲがある。
高梁盆地で言えば川端町の北の端に相当するアルトシュタットの東の端から、ハイデルベルク上の丘陵の下にあるトンネルに入り、途中で一度出てまたトンネルにはいり、アルトシュタットの西の端の道路のゾフィエン・シュトラセに出るのである。
ゾフィエン通りから西は新市街地であり、北に行けば国道B37と交わり、さらにネッカー川のテオドールホイス橋を渡る。この橋は高梁盆地で言えば高梁大橋に相当する。
こうしてフリードリッヒ・エーベルト・アンラーゲは、国道B37のバイパス的な役割を持っていると同時に、中ほどで一時トンネルから出たところで、街の中に入る道と連絡することで、山側からの地域サービス道路の役割も果たしている。
つまりこの道路は、高梁盆地での都市計画道路南町近似線に相当する役割を持っていることがわかる。
大きな違いは、アルトシュタット内では大部分をトンネルとしていることである。通過交通を市街地の中をできるだけ通さないという、交通政策の考え方がよくわかるつくりかたである。
先に高梁の都市計画道路南町近似線の北半分を伸ばしてトンネルにして、街の北端に出してはどうかと書いたのは、このフリードリッヒ・エーベルト・アンラーゲを参考にしての思いつきである。
ついでに鉄道トンネルのこともここに書いておこう。
ハイデルベルグ駅も高梁盆地と同じように、アルトシュタットの西(高梁では南)の新市街に位置している。そしてハイデルベルクアルトシュタット駅は、アルトシュタットの東の端にある。
この二つの駅を結ぶ鉄道線路は、アルトシュタットの南側の丘陵の下にトンネルのなかにある。ハイデルベルク駅を出るとすぐにトンネルに入り、アルトシュタットの東端でトンネルを出て、すぐにアルトシュタット駅である。
これも通過交通を市街を通さない都市計画施策のひとつである。
この間、アルトシュタットでは線路はまったく見えないのは、伯備線線路が高梁盆地の中を縦に切り裂くように市街地の中を抜けていくのと対照的である。この線路で高梁盆地の土地利用はかなり窮屈に制限を受けている。日本近代化のもうひとつの置き土産である。
いまさら伯備線をトンネルにはできないだろうが、その昔の鉄道開通までには街と鉄道のせめぎあいがあったのだろうか。
JR横須賀線の線路が鎌倉の名刹の円覚寺の前庭の中を横切り、更に若宮大路の史跡の段葛(だんかずら)の南半分を消滅させたのも、日本近代化の置き土産である。
5.小路の街の魅力
全国路地の町連絡協議会(略称:路地協)という会がある。
http://jsurp.net/roji/ 設立の趣旨にこんなことが書いてある。
「路地(街なかの昔からの狭い道)のあるまちの多くは、安心して暮せるコミュニティが育っています。商店街では、狭い道に並ぶ店が賑わいある界隈を生み出し、住宅地おいては子供の安全な遊び場であり、住民たちの井戸端会議の場であり、暮しの場の延長です。そのまちで生活する人々の息づかいが聞こえてくるような路地は、日本の都市を成り立たせている原風景のひとつです。以下略」
そして、そのような親しみのある街の生活の場が、だんだんと消えつつあるのはよいことなのかと疑問を投げかけ、街づくりに積極的に生かす方法を考えようというのである。
会員資格はなし、随時入退会自由である。毎年秋ごろに日本のどこかの路地ある街に集まって、「路地サミット」なる大会をやる。去年は東京の墨田区でやった。例のスカイツリーが見える路地である。東京下町には路地がまだまだたくさんあって、敷地内は狭いので路地で園芸を競っている。その前は新潟市、その前は長野市であった。
全国各地から200人ほどが集まってきて、路地をうろうろと歩き、シンポジウムで話し合い、路地の中の店で宴会をするのである。
その会で全国各地の路地を紹介しあって、「
路地百選」と称するリストアップをしている。その中に高梁盆地の小路もある。わたしではなくて東京の知人がいつの間にか載せていた。
高梁盆地の城下町では、梯子格子状の道の縦の南北方向は通りであるが、これに直角方向の横丁のほとんどは狭い路地、高梁では路地といわず小路(しょうじ)である。
小路の向こうには必ず山が見える山あてになっているから、狭い視覚でもどの小路を通っているかがわかる。
菊屋小路は、わたしが幼時から生家から母の里まで行くときによく通った。幅一間足らずの狭くて途中で屈曲する土蔵の間の道は、昔は醤油くさかった。菊醤という醤油製造工場の横の小路であったのだろう。
今もこの小路は健在だが、土蔵はなくなっているし、この上を幅12mの都市計画道路が通ることになっている。
牢屋小路という名の道もあった。江戸時代に牢獄があったのだろうが、今は歩道に植樹された広い道となり、名も改まった。
いにしへの牢屋小路の名が消えて
花水木通りとなりて花盛り 藤本 孝子
(歌集「春楡のうた」より)
小路はいっぱいあるが、名前がついていたのはほかには知らない。だが今見ると、新町も鍛治町も小路のごとく細い道である。
ハイデルベルクでも同じように、東西方向の通りに対して小路が梯子の段のように抜けている。
幅が太い道はシュトラセ、狭い小路はガッセという。高梁の小路のように向こうに緑の丘陵が見え、手前には塔が見えて、石畳が磨り減って光っている。ガッセはなかなか生活が見える味のある風景である。
高梁でもハイデルベルクでも、小路は太い道を横切るとき、その先の小路にまっすぐにつながるのではなく幾分かずれることが多い。そればかりか、梯子の縦になっている主要道路でも、小路との交差点で屈曲することもある。
いまでは道路拡幅でまっすぐになったが、柿ノ木町の元小学校の南角には典型的な屈曲があった。今も、中ノ町から柿ノ木町へ紺屋町を横切るところも屈曲したまま、新町から紺屋町を横切って鍛治町へも屈曲がある。
これらは城下町の防備のための仕掛けという説がある。街に進入した敵軍の行動を妨げるのだそうだが、自軍の行動も妨げになるはずだから本当だろうか。
その屈曲は自動車時代となって、交通安全のためにまっすぐに改良されてしまうのだが、一方では考えようによっては街の中で自動車にスピードを出させない仕掛けでもあるはずだ。道の幅は直線だが、車道をわざと曲げてつくる道路があるように、場所によっては道の屈曲を生かすほうがよいときもある。
ハイデルベルクでは、生活空間としてあるいは観光の街として、中心商店街のハウプト通りとこれにつながる小路には、できるだけ車を入れない様に交通規制をしている。それが街の魅力にもなっている。
高梁でも車の入ってこない小路をゆるゆると歩くと、心癒される気分となるのである。
鎌倉のように、路地の中まで観光客が入り込んできても生活を乱されるが、暮らしの場としても路地・小路の意義は再発見してよいと思うのである。
先般、ネパールのカトマンズ盆地にある古都のバクタプルを訪れたとき、裏町の路地にある井戸をかこんでの洗濯する女と大勢の子供にぎやかな暮らしの風景に出会い、母の里の鍛冶屋町の道端にあった井戸の風景を思い出した。
母の里にひとりで行く幼年のわたしに、「本町に出る前に右左をよく見るんよ!」と、いつも母が注意したものだ。狭い菊屋小路を抜け出ると、広い本町通りには文明の香りを振りまいてバスが走っていた。今見ると本町通りのなんと狭いことよ。さて、高梁の歌人ならこれをどう詠むだろうか。(2012.01.11)
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