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【8】まとめ1<視覚的圧倒性を超えて> -ヨーロッパ視察06-07

7ヶ月間の旅での出会いを通じて、ヨーロッパ、特に西欧・中欧に於けるシーンの状況を知ることができました。その中で育まれた思考を通じてここでは、「視覚的圧倒性を超えて」というタイトルで、コンテンポラリーダンスが今後どういった方向性を持っていくべきか、私の考えを示したいと思います。また、他国の状況を知ることは母国である日本の状況についても、理解を深めることになりました。そこで、日本の今後のコンテンポラリーダンスシーンの今後の課題についても私の意見を別に述べさせて頂きます。

<1>視覚的圧倒性を超えて
=視覚的圧倒性への疑問=
 視覚的圧倒性をどう超えていくか。私はそれが、現在のコンテンポラリーダンスが解決していくべき最も重要な課題であると思います。90年代の多くのコンテンポラリーダンスは、この視覚的圧倒性を積極的に実現してきたと思います。フォーサイスにおける超人的な身体の提示や、フィリップドゥクフレのイリュージョン、ケースマイケルの幾何学的集団運動。もちろんそれらのアーティストが意図するところは視覚性を超えた所を目指しているのかもしれませんが、結果として、彼らは非常に力強いイメージを創造してきました。そして彼らはこうしたイメージによって観客を圧倒することに成功したものの、或はもしかしたらそうやって圧倒する事によって、観客に視覚表現そのものを鑑賞する事以上の思考を積極的に呼び覚ます事がなかったと私は思っています。観客はしばしばこうした圧倒的な表現に触れることだけで満足してしまうからです。
 さらに、今回の旅での様々な出会いを通じ、ただこうした視覚的圧倒性を実現することだけを作品を創造する目的/価値基準としているアーティストが少なくない事に気付きました。先行するアーティストの作品を見て、またその作品が流通し、観客に歓迎されているのを見て、こうした思考が育まれてきたのかもしれません。ワルサワでのPointe to Pointプログラムにおいて、私がクリエイションに参加したあるフランス人アーティストもそうでした。このクリエイションでは、日々パフォーマンスで上演するシーンを様々な手法/エクササイズを用いてリサーチを重ねていました。あるミーティングで、私はこんな質問をしました。「昨日やったエクササイズは大変面白かったです。それは人と人との関係というものの一つのありかたをよく示していたからです。僕はこれをもっと探求していくのも良いのではないかと思います。それが、社会的なものと接続していくかもしれないと私は思うからです。」しかしながらこれに対し彼は「しかし見ていて何か面白いことが起きたわけではなかったし、これ以上やることはないと思う」と答えました。これは明確に視覚的表現しか彼の価値基準に含まれていないことを表していると思います。
 私たちは私たちの生活において常に、見えるものに見えないものを孕ませています。見えないもの、それはいつも見えるものの向こう側でうごめいているものです。例えば倫理や政治。どうして人は人を殺してはいけないのだろう?私とあなたはどういう関係性を持っているのだろう?私たちはこうしたことを手がかりなしに、他者に向かい合う事は決してありません(知っている人なら「誰か」、知らない人なら「知らない人」と捉えているように、人称を持たずに誰かに向かい合う事はありません)。ですから、もし芸術が人の考えや行動に影響を与えることがあるとすれば、それはこの見える事の向こう、見えないことに着目することで、初めて成すことが出来るのではないでしょうか。実際、90年代のあの視覚的圧倒性をもったコンテンポラリーダンスの作品たちが、9.11や、またそれ以後の悲惨な出来事に対して有効な解答を示してくることが出来たでしょうか。私はこの事を大変に残念に思っています。
 では具体的にどうしたらコンテンポラリーダンス・アーティストは、視覚的圧倒性に絡めとられず、見えないものに言及したり、見えないものに触れ得る場へ観客を誘導することが出来るでしょうか。視覚的表現、見えるものを見せる事は舞踊表現の基本といえるでしょう。しばしばダンスが意味を求められないスポーツ競技と混同されることがよくそのことを示していると思います。あるいは劇場舞踊に限っても、伝統的西欧劇場のプロセミアムは、舞踊の視覚表現を装飾するとともに強調する役割を担っています。そうした根本的な仕組み(舞踊を成立させている構造=基本は見えるものを見せる)自体が、アーティストに視覚表現以上を求める行為から遠ざけることになっているわけでもあるのです。だとすれば、まずこうした視覚表現への傾倒を導く運動を止揚する手段を検討する必要があると思います。

=深い思索、真摯な姿勢
 ここで私が取り上げたいのが、フランス、モンペリエで出会った美術学校(ボザール)のVisual Arts課の学生たちについてです。モンペリエ滞在の際、この学校のある学生が、私を自宅に無償で泊めさせてくれました。そしてそれがきっかけで学校で行われていた彼女たちの作品展示を拝見させて頂きました。学生の作品ですから、完成度という点では決して優れたものだということはありませんでしたが、それでも彼女たちの作品は、見えるものの向こうにある見えないものへと鑑賞者を誘う力を持っていました。例えばある映像作品は、空き家になった家の壁に、以前人が住んでいた頃の、同じ場所の写真を映像で投影している様を写しています。もともとの壁と投影された映像の"ずれ"にみる時間性や、もっと具体的に、その家がまだ空き家でない頃どんな人が住んでいたのだろう、映像はそんなことを想起させてくれます。単に色彩やオブジェクトの配置(しばしば感性的に美しさといわれるもの)といった視覚表現を超えたもの=見えないものをこのようにして見せているのです。
 ではどうしてそんな作品が成立しているのでしょう。ただ作品を見ただけであれば、そうした性質が立ち上がっているのは偶然であると言えるかもしれません。たまたま、そういうものが出来たのかもしれない。しかし、私は先に述べた学生と、また、同じく学生である彼女の友人たちと直接に話す機会を得て、決して偶然ではなく、理由があると確信しました。
 まずそれは、彼女たちが学ぶ学校の授業にあるでしょう。彼女たちが3年間のカリキュラムで学ぶことは多岐にわたります。自分たちが取り組んでいるVisual Artsがどういった歴史を持っているのか。どんなアーティストがいて、彼らがどんな作品をどんな考えで創ってきたのか。あるいはVisual Artsが社会においてどういう風に受け入れられ、またどういった影響を与えているのか。さらには具体的な技法の数々。絵画、彫塑、映像、情報技術…。こうしたことを通じて、一つの作品を独立した何かと考えるのではなく、それは様々な要素/ものごとを背景に持っているということ、或は持ち得るということ、要するに常に作品とは"見えないもの"の領域に浸食しているということを教わっているのです。
 さらに彼女たちは、自分たちこそが新しいアートの担い手として活動していくという、強い自覚があります。幾度も彼女たちと、コンテンポラリーアートの現状の問題や、未来について熱心に語り合いました。単に作品を創る、それによって生活するという行為だけに満足しているのではなく、自分の興味、関心、課題を明確にもっているのです。
 つまり、こうした事を基に、彼女たちは創作において非常に真摯で深い思索を行っているのです。その始まりから"見えないもの"の領域にまで踏み込んで、どうすれば自分(作品)が目指すところを見る人に伝え得るか、あるいはどのような表現が、どういった"見えないもの"を提示し、その自分(作品)の志向と交錯し得るか。つまり、ここでは視覚性への客観的視点をもって何が作品に接続しているのか、していけるか、厳密な検討の上に立ち上げているからこそ、実際に私たちが作品を見た時に、その視覚表現の向こうへと心がなびいていくのです。
 Visual Artsと同じ様にダンスにも歴史があり、社会的コンテクストがあり、様々な技法があります。ダンス・アーティストも今一度こうした事を振り返り、また自分が本当に何をしたいのか、よくよく考え、そしてそうした事を基に、創作において"見えないもの"の領域にまで踏み込んだ丁寧な思索を行っていく事が、視覚表現への傾倒を食い止める、まず一つの手掛かりとなるのではないでしょうか。それによって、実際"見えないもの"を作品を見る人に提示していく事が出来るのではないでしょうか。

=丁寧に、繊細に
 しかしながら、注意すべきはこうした思索が単に「何を」見せるか(What can we show?)という範囲に留まってしまっては、例え作品が見えないものに接続し得たとしても、リアリティを持って見る人に訴えることは難しいと思います。それだけではなくて、「どう」見せるか(How can we show?)という問い掛けの建て方、つまり作品が観客に提示される瞬間にまでいたる非常に繊細な思考が必要になると思います。そのことを教えてくれたのは、フランスを代表する振付家マチルダ・モニエです。
 私は、先の美術学校と同じモンペリエにて、マチルダがダイレクターを務めるCCNを訪れ、彼女の新作のリハーサルを拝見しました。私は彼女の現場での振る舞い方にいたく感動しました。彼女はパフォーマーやスタッフに対して、決して上から見下ろす様な視線で話をせず、対等な立場で話す様努めていました。ダンスの現場ではこうしたことは珍しく、振付家/ダイレクターをトップにしたハイアラーキーが築かれる事が普通です。しかし彼女の現場は非常に民主的でした。彼女とダンサー、スタッフの間では談笑や議論が頻繁に交わされていました。また劇場での稽古でダンサーが振付けをなかなか踊れない時などは、ただ言葉で指摘をするだけではなく、彼女は座っていた客席を離れ、舞台に降りていって直接ステップを丁寧に説明し直していました。
 それは、単に彼女の信念や道徳観というものに基づいてというわけだけではないと思います。私が、こうした民主的な雰囲気に感動したという事を伝えると、彼女は「私にはこの雰囲気が必要なのよ。そうでなければ軍隊になってしまうでしょう。」と答えました。この新作のテーマは「ユニゾン(同期運動)」で、単にダンスにおけるそれだけに限らず、人々の歴史においてユニゾンがどう扱われてきたか、様々な視点で検証していきます。特に重要なモチーフとして扱われているのが、軍隊において行進や教練の中で、ユニゾンが連帯意識を持たせるために用いられてきたという事実です。こうした行為に対して作品では批判的/反省的視点が投げかけられます。しかしもし、そうした批判的/反省的視点が、兵士のようにまるで誰かの駒の様に動くダンサーによって示されたらどうでしょうか。たとえそうした姿勢が明示的でなかったとしても、見る人には必ず分かり、まるで作品は説得力を失ってしまうでしょう。極端な言い方をすれば「人殺しはやめましょう」とプラカードを掲げながら、もう片方の手で誰かにナイフをつきつけているようなものです。
 彼女はこのように、観客と作品が触れ合う瞬間にまで視線を注ぐ事で、ようやく観客が見えないものへためらわずに心を向かわせる事が出来る場を提示し得る、その事に気付いていたからこそ、まるで舞踊の現場の慣例に倣うことがなかったのです。言い換えれば、どんなにアーティストが深い思索を重ねたとしても、一方的に「これはこうなんです」と押し付けては、作品も一方的で抽象的な、誰も相手にしないへりくつになってしまうかもしれません。だからマチルダは、ある謙虚さ、「これだけの事をどうしたら理解して頂けますでしょうか?」、そんな姿勢を持つ事で、自分の考え/志向をより正確に伝えていこうと、その方法を繊細な視点で模索しているのです。"見えないもの"の領域にまで踏み込んだ丁寧な思索は、非常に広範なものですから、ついつい、ただ「何を見せるか」(What can we show?)ということに専念して、「どう」みせるか(How can we show?)という問いかけを忘れてしまいます。ですから、彼女のような謙虚さをいつも心がける事が大きな助けとなると思います。

=コンセプトに従属させてはならない
 また、非常に丁寧な思索を心がけるべきと言っても、考え込みすぎて、単に一つの明快なコンセプトに従属させる事と勘違いしてはならないと思います。それではまるで、視覚的圧倒性が行っているのと同じ事を、別なやり方で実現するのと変わりないからです。一つの「分かり易い」(しばしば容易に言語化し得る)コンセプトに作品を対応させるという事は、そのコンセプトの"外側"を排除し、「ないこと」にして見えなくさせようとしてしまいます。そして、観客も、そうした作品に触れた時、作品にそのコンセプトを見出せば、作品全てを理解した様に満足してしまいがちですし、そうでなくとも、そのコンセプトの向こう側になかなか心を向ける事が出来なくなってしまいます。
 1月にウィーンで60年代のコンセプチュアルアートの展覧会に足を運んだ際、紙に書かれたアーティストの"文章"が作品として展示されているのを見ました。この作品と向き合うことで、作品のコンセプトが文章の内容であろうと読み取る事が出来ます。しかし、その向こうにあること、例えば紙や文字の構造が何を表象しているかなど、そういうことを思いつく事は思いつくのですが、まるで作品そのものがそうした思考を探求していくのを阻むかのように、私を消極的にさせてしまうのです。おそらくモンペリエの学生たちの作品と同じように、コンセプトをいかに観客に伝えていくか、深い思索によってこの作品は立ち上げられたのでしょう。だから、見えないものであるコンセプトに確かに私の心は向かっていけるのです。しかし同時に、そのコンセプト以外は見(え)ていないアーティストの姿勢=見方も、同じように作品に映り込んでいるのです。そのために、私が作品を通してその姿勢に触れるとき、私の心もその姿勢に沿い、コンセプトの向こうへ行く事に積極性を持てなくなってしまったのです。
 ダンスにおいても、私はこうしたコンセプトに傾倒しすぎた作品を幾つか(正直に言えばたくさん)見てきました。例えばウィーン、ImpulsTanzフェスティバルで上演された"Mixed Tape"という作品。観客のうち一人が三枚のCDを渡され、そのうち一曲ずつを選んでCDプレーヤーで再生し、それに合わせてダンサーが事前に作っていたソロを踊ります。観客が一晩の上演内容を決める、つまり主客がこの点において入れ替わるという事が重要なコンセプトであると、そこから明快に読み取れます。けれども、実際に舞台上で踊られるソロが、簡単に言ってしまえば取って付けたようで、そのダンスでなければならないという必要性を全く感じる事が出来ませんでした。けれども、各々のソロの振付けの中には、コンテンポラリーダンスのテクニックである旋回やフロアワークなどがしばしば使われていて、彼の身体を見る事で、彼のこれまでのキャリアであるとか、そういう"見えないもの"が自然に見えてくるのです。けれども見ていてそうした見えないもの(の領域)をさらに深く探っていきたいという気持ちが、まるで立ち上がることがありませんでした。先ほどの文章の作品と同じように、それ(身体によって浮び上がってくる彼のキャリアだとか云々)が、作品において、コンセプトの外の出来事であって、アーティストがまるでそこに目を向けられていないことが明確であるから、見る方もそっちへ深くすすんで向かう気が起きてこないのです。

=私たちの複雑な有り様
 つまり、視覚性に限らず何か一つのものに作品を従属させようとすれば、それは作品をある領域に囲い込み、その外側を排除してしまうわけです。作品を限定された空間に閉じ込めると言い換えてもいいかもしれません。もう少し難しい言葉で言えば、作品を単一なものに還元する、あるいは単純化すると表せるでしょう。
 私たちが生きている有り様、それは個人の有り様でも、社会の有り様でも、常に複雑であると言えます。様々な人とものとの関係の中で、私たちは生きています。親や友人や同僚、もっと広いコミュニティーとしての地域、国家、世界や、そこに展開する宗教、倫理、経済etc...。私たちは自己を確固とした存在として規定しようがありません。こうした関係性というあやふやなものを土台として私たちは成り立っているからです。だから私たちは、何をするにも、何を決定するにも、完全に理解し得ない不明の領域、捉えきれない漠然とした混沌を常に抱えています。たとえ何か大きな判断を行う際に根拠や動機を設定していたとしても、実際に私を突き動かしているのはそのたった一つのものではありません。全てを捉えきる事の出来ない広大なこの複雑さの中で、私たちは思考しているからです。ただ、それを、一つであると仮定=単純化すれば、何より分かり易く判断がつき易いですし、複雑さをできるだけ厳密に捉えようとする煩わしさから解放されることにもなります。だから、しばしば私たちはそうした単純化を好み、結果として、もともとの複雑さを見失ってしまいます(性や宗教、民族などによる差別もこんな風にして起きているわけです。)。
 私が冒頭で表した見えないもの、倫理や政治などなどは、複雑な関係性を構成しているひとつひとつの要素といえるでしょう。見えないものの領域にまで踏み込んだ丁寧で繊細な思索は、そうした分かりづらい、私たちが日常においてそれ自体に気付きづらい要素を浮かび上がらせる事が出来ます。それは、まず見えるものの向こうに見えないものが「ある」ということ(構造)を思い返す上では非常に有効な方法でしょう。しかしその一つの要素に作品が単純化されてしまえば、私たちが日々の生活において常に抱えている確固として捉えきれない不明な領域を失い、作品におけるその(見えない)要素と視覚表現の関係性は社会の状態からほど遠いものになってしまいます。もし私が望んだように、視覚的圧倒性の功罪、社会の様々な出来事に対して有効な解答を示し得なかったことを翻し、作品が人々の行動に対し何か影響を与えるには、単純化し得ない、本当の意味で複雑であり続けるこの不明さを生み出し続ける何かがなくてはならないでしょう。

=ダンサーの身体を見ること
 私がそこで思い返すのが、舞踊においてダンサーの身体を見ているとき、その身体を通じて様々な要素との繋がり=見えないものに気付いていくことです。先にあげた"Mixed Tape"でも、私はダンサーの身体を見て、彼の運動(振付け)の中に(テクニックとしての)コンテンポラリーダンスの影響、つまり彼のキャリアの一端を見出しました。それだけに限らず、マチルダ・モニエの新作について述べたところで触れた、ダンサーの作品や振付家に向かう姿勢や、日本舞踊などで明らかなダンサーの運動と社会の慣習的行動の相似、あるいはフォーサイスの作品がしばしばネオクラシカルと形容されるように、運動と舞踊や芸術の歴史の結びつきなど、私たちはダンサーの身体を見る事で多種多様なものとの接続を思い浮かべていく事が出来ます。言い換えれば、彼・彼女の複雑の有り様そのものを構成している要素へと、身体を集中して見つめる事でたどり着いているのです。何故なら私たちの身体こそ、私たちの複雑な有り様によって構成されているからです。誰かの身体を集中して見つめる事は、その形成の道のりを遡り、彼・彼女の複雑な有り様を実現している各々の要素へと立ち返っていく事を可能にするのです。要するに、ダンサーの身体は、それを見るものに彼・彼女(ダンサー)をかたちづくっている数限りない見えない要素を常に提示し続けていく事が出来るのです。
 ですから、舞踊作品において、観客がダンサーの身体を注意深く繊細な視線で集中して見つめる状況を導く事が出来れば、観客は、一つの作品において、それがただ一つの何か(視覚、コンセプト…)だけに象徴できるとは思えなくなるでしょう。観客の視線の上で、ダンサーの身体はその複雑な有り様を構成している様々な要素を導き、作品を表す別なる可能性を際限なく紡ぎ続け、例えアーティストの志向が一つのもの/方向に傾倒していたとしても、それも多様な可能性のうちの一つにすぎないと思うようにさせるからです。このように身体は、作品に捉えきれない不明な領域を呼び込み、観客は、私たちの日々の生活と同じように、複雑のただ中で思考する状況を生み出すことが出来ると言えるのです。
 ただ、注意すべき事があります。私たちは他者の身体を見る事を日々の生活の中で特別に意識せずに行っています。さらに舞踊において、ダンサーの運動を見るという事が観客にとって主要な劇場にくることの目的でもあります。しかし、こうした習慣的な行動において、身体の視覚的運動を超え、さらにそれを構成しているその仕組みを通過するにまで至るような見方をどれだけ行っているでしょうか。ですから、単に身体を見るという行為を導こうとしても、先に見た習慣的な範囲にとどめられてしまい、その視覚性だけを捉えていく以上の行為を、観客に促す事は容易には為し得ないでしょう。観客の視線が身体がもつ複雑さの中に分け入っていくには、より深く、身体の持つ見えない領域(=物理的身体に対して抽象的な論理空間)である身体性にまで目を向けてもらえるような状況をアーティストはつくりださなくてはならないと思います。

=ダンサーが自身の身体へと向かい合うことが、彼・彼女の複雑な有り様を浮び上がらせる
 1月の終わりに私は、フランスAngers、CNDCにてヨーロッパで大変人気のあるワークショップ講師、デヴィッド・ザンブラノのクラスを受講しました。ここで彼が教えてくれた事が、こうした状況を実現していくための有効なヒントになると思います。彼の授業の中で私たちは"change"というエクササイズを行いました。それは、ダンサーが自分自身の在り方・有り様を次々と変えていくというものです。例えば、"クラシックバレエ"や"ストリートダンス"、"おじいさん"、"テニス"といった、かなり具体的な何かの在り方・有り様を志向します。しかしそれは、決して見た目をそれっぽく振る舞う、何かになった振りをするというのではありません。運動の質感や音楽性、さらには感情まで、志向するそのものに染まりきらなければなりません。
 始めにこのエクササイズは二人組で行いました。一人が相手に三つの在り方・有り様を提示します。提示された方が、その在り方/有り様を実践します。ですから、しばしばあまり詳しくない在り方/有り様を実現しなくてはなりません。あるフランス人ダンサーが"アフリカンダンス"を提示され、「私はアフリカンダンスを踊ったことがない。それは出来ない。」と言うと、デヴィッドは、「でもあなたはアフリカンダンスが何か知っているでしょう。誰かが踊っているところを見た事がありませんか?そうでなくともテレビやビデオで見た事がありませんか?あなたの記憶にあるアフリカンダンスを踊るんですよ。振りをするんではないんです。」と答えました。デヴィッドは私たちダンサーに、各々の記憶にある(つまりいわゆる典型的ではないかもしれない)在り方・有り様を辿り、その記憶に忠実に身体を向けること、自らの記憶にある在り方・有り様への絶対的な志向によって身体を満たす様(彼はこの状態を"fully"と形容していました)要求したのです。
 ですから、このエクササイズにおけるダンサーの身体は垂直に一つの方向を向いている鋭さ、揺るぎのない力強さを提示するのです。さらに加えて、彼・彼女の記憶をたどり、そこにある固有の在り方・有り様に忠実たろうとし、またそれを示そうとすることは、その固有性から、観客を彼・彼女の身体性(身体の向こうに広がる見えない場)へと誘います。先に質問をしたフランス人のアフリカンダンスを見た私の経験に基づいてこれを説明しましょう。彼女はデヴィッドの答えに応じると、ステップによる激しいスタンプ(足裏で床を打ち付ける)を多用した踊りを披露しました。私は、私が既に持っていたアフリカンダンスのイメージとのずれから、それが彼女固有のアフリカンダンスであると分かりました。彼女がその(アフリカンダンスの)ステップに強い印象を持った/持っていると読み取る事が出来たからです。そしてその彼女の固有性─スタンプの多用→ステップへの強い印象─、言い換えれば、彼女なりのアフリカンダンスへの向き合い方/姿勢に触れる事で、さらに彼女の踊りを構成している様々な要素へと視線が向かいました。例えば、彼女の運動のフォルムには少なからずバレエなどと共通であると私が感じる、西洋的(とも言える様な)運動の残滓を見ました。そこから彼女がバレエを習っていた可能性を考えたり、あるいは、彼女の文化的背景(西洋的身体性?あるいはフランス人的身体性?とも言える様な?)に基づいているのではなどと、次々と様々な想像・考えが膨らんでいったのです。彼女の踊りを見る事で自然に捉える事の出来た彼女の固有性(ここではアフリカンダンスへの向き合い方)は、身体の向こうにある身体性における一つの要素であり、それに触れる事で、さらに彼女の身体性の他の要素へと視線を拡げていく事が出来たのです。いわば、彼女の固有性が、彼女を見る者に、彼女のもともとの複雑な有り様、限定し得ない無限に拡大する不明の領域への交通を開かせる、入り口としての役割を果たしているのです。
 ダンサーは何らかの振付けや運動を踊る際、しばしば作品のコンセプトや、何らかの事前に設定した目標を(それが明確でなくとも)実践しようとします。つまり、志向を抽象的に、その身体運動とは別なものとして捉え、後者を前者に沿わせようとするのです。しかし、そもそも志向は、身体という地において生まれてきます。私たちの身体が占める場=現在からの移動、その舵取り(あるいは舵取りの希望)とも言えるのが志向です。ですから、実際のところ、志向が身体から切り離される事はあり得ないわけで、志向が抽象的だと言うのは仮定にすぎないのです。デヴィッドの"fully"(ダンサーの身体を彼・彼女の記憶にある在り方・有り様への志向で満たす)という状態は、このいわば遠ざけられた志向を元々の身体へ戻そうとするのだと言い換えられるでしょう。
 この様にデヴィッドのエクササイズにおける"fully"の状態に倣い、ダンサーが自らの志向を、それ自身を成立させている土台、或は母と言ってもいいかもしれない自身の身体へ向かわせる事が出来れば、彼・彼女の行動─身体は、彼・彼女の身体性の少なくとも何か一つの要素を纏い、それを手掛かりとして、観客の視線を彼・彼女の身体性へ、さらにはそこから彼・彼女の複雑な有り様そのものへと誘う事が出来るでしょう。しかし、今一度確認すれば、ダンサーが向かうべき彼・彼女の身体とは、彼・彼女の志向そのものの土台、つまり物質性などの断片であったり、コンセプトなど偏った何かによって規定されたかたちとしてではなく、彼・彼女そのままの身体全体、要するに、身体の持つ歴史=記憶や自分がいつのまにか持っているものごとへの構えや姿勢なども含まなければなりません。いわば考古学において地層を掘り進め、積み重なった歴史を探索するように、自身(志向)を構成させている仕組みそのものをありのままに見つめる必要があるのです。そのためには、デヴィッドが"change"で行ったように、ダンサーが自然にそうした志向を持つようになる仕組みをアーティストは見つけなくてはならないでしょう。意識的に「身体を振り返る」ことを明確化すれば、その構えや姿勢によって身体を限定的に捉えることになってしまうからです。"change"でダンサーが求められたのは、彼・彼女の記憶にある在り方・有り様に忠実たれということだけでした。この様な巧みな方法をアーティストが見つけることによって初めて、ダンサーの身体性を浮び上がらせ、彼・彼女の複雑な有り様を白日のもとに曝け出すことが出来るでしょう。

=二つの方法を組み合わせて
 ここまで、舞踊に置ける視覚的圧倒性をどう超えていけるか、見えないものを提示するという事をキーワードにして、二つの方法を説明してきました。まず繊細な視線を持ち、作品を多角的・多面的に捉え、視覚表現のみならず、その視覚表現を超えて、それがどういった見えない要素と接続しうるか厳密に検討すること。それによってある特定の見えない要素、またその周縁を観客に明らかにしていく事が出来ます。次に、ダンサーが自身の身体をありのままに振り返る様な方法を模索すること。彼・彼女が自身の身体に向かう事で、彼・彼女の身体性が浮き上がり、その身体性を通過する事で、限定し得ない不明な領域を抱えた彼・彼女の複雑な有り様へ観客の視線を誘います。この二つの方法は共に、視覚表現の向こうにある見えないものを観客に示し、作品の持つ可能性を複層的に捉える事を促す事で、観客が視覚表現だけに満足してしまう事をとどめます。
 しかし、前者、特定の見えない要素へ焦点を合わせる方法は、それ(特定の見えない要素)を単一なコンセプトとして作品に従属させ、別なる圧倒性(それに触れるだけで観客が満足してしまうもの)を作り出す危険性を孕んでいます。これに対し、後者、ダンサーの複雑な有り様へ誘う方法は、限定し得ない不明の領域へと送り出す運動によって、こうした作品を特定の空間に閉じ込めようとする危険性を抑止する事が出来ます。また、これまでに触れていない事ではありますが、後者についても、その複雑さは、漠然としてしまい、観客が分かりづらい/捉えづらいものとなる可能性を持っています。対して前者はある特定の方向性を持つ故に、より観客から分かり易く、この点において勝っていると言えます。ですから、この二つの方法を組み合わせて用いる事で、互いの欠点を補い、最も効果的に視覚的圧倒性を超えた作品を実現する事が出来ると私は考えます。

=視覚的圧倒性を超えることとは
 では、こうした手法によって視覚的圧倒性を超えた作品を作り出す事/作り出そうとする事はどういった意味を持ち得るのでしょうか。これを最後に述べて、この論を閉じたいと思います。繰り返し述べている事ですが、ここで私が提案した方法によって、観客は見えるものの向こうにある見えないものに気付いたり、触れ得る事が出来るようになります。冒頭で述べた通り、見えないものは、私たちの日々の生活において非常に重要な役割を果たしています。社会、倫理、歴史、経済…様々な見えないものを手掛かりにして、私たちはあらゆる行動を為しています。だから、観客に作品を成立させているダンサーの有り様や、作品が繋がり得る様々な要素といった、見えないものに気付いてもらう事、或はそれに触れてもらう事は、そこから類推する事で、こうした私たちの生きているそもそもの仕組み、構造を省みてもらう事が出来るでしょう。要するに作品がただ作品の限りで完結せず、私たちの日々の生活における意識や考え方、姿勢などに深く関与する事がこの手法によって可能だと思います。そしてそれによって作品は社会─わたしたちの生きるコミュニティー─においてよりリアリティーをもって受け入れられるでしょう。言い換えれば、このようにして舞踊や芸術表現だけによって閉じられた内向きの価値観を提示するだけではなく、戦争や差別などのアクチュアルな政治的問題や、人の悲しみや幸せと言った深い心のおもむきに示唆を与えてくれるようになると思います。
 また私は文中で、観客の視線を誘う、導くと言った表現を積極的に使っていましたが、いかにアーティストによって特定の見えない要素に焦点が合わせられていたとしても、見えないものはあくまでも観客の視線の上にのみ浮び上がるもの、或は観客の視線によって初めて生成されるものです。だから、見えないものを観客に見せようとする事は、観客自身が作品を何であると捉える、そうした能動的な姿勢を引き出す行為であると言い換えられるでしょう。加えてそれは、作品の成立をアーティストが占有せず、ある程度観客に委ねる事だと考えられるでしょう。
 最初にも述べましたが、舞踊において視覚性は非常に重要であり、それによって舞踊作品は、視覚表現の優劣を大きなものさしとして流通していると、少なからず言う事が出来るでしょう。舞踊作品のチラシやポスターにおいてダンサーの身体運動やきらびやかな衣装、装置などを写した写真が多用される事がそれを象徴していると思います。その結果として視覚的圧倒性が、多くのアーティストによって喜んで実現されてきたわけです。
 視覚的圧倒性を持ち、観客に見える者だけで満足させる作品とは、視覚表現以上の深みがない、つまり観客がその作品の成立に殆ど関与出来ず、アーティストによって占有された作品です。換言すれば、そうした作品はアーティストによって視覚表現でくるまれ、パッケージ化されているのです。だから、こうした作品が歓迎される舞踊作品の市場の在り方は、まるで様々な劇場にこのパッケージを次から次へと取っ替え引っ替えしているだけかもしれないと、私は思ってしまう事があります。
 しかし私は、アートというものはそれに触れた人がそのアートを自ら咀嚼し、自分が生きていく滋養とする事で、初めて意義のあるものになると考えています。作品を通じ、アーティストの価値観や考え方と戯れる事で、観客個人の価値観や考え方、生きる姿勢が変化する。それこそが、社会の中にある、つまり人と関わるアートの役割であると思います。ですから、パッケージ化された作品が好まれる市場の在り方が望ましい姿だとはとても思われません。
 観客の視線を見えるものから見えないものへ誘う方法は、作品の成立を観客にある程度委ねる事で、アーティストの占有を許さず、パッケージ化し得ない作品を生み出します。それはアート本来の意義を思い出させ、今後どういった舞踊作品をわれわれが生み出し、社会に提示していくべきか、舞踊作品が流通する現在の市場の在り方に疑問を投げかける事にもなるのではないでしょうか。