| Portugalでのコラボレーション、リサーチを終えて、私はベルギー・ブリュッセル、オランダ・アムステルダムを訪ねました。ドイツで行われる友人のプラットフォームプログラムへの参加にも興味がありましたが、そこまでの渡航費が高額であることを知り、経済的な問題と、また、現在ヨーロッパ・コンテンポラリーダンスで中心的役割を果たしている2都市の状況を肌で感じてみたいという思いから、足を向かわせることにしました。両都市とも、danceWEBで知り合った友人宅に無償で滞在させて頂いていました。 <1>ブリュッセル滞在 (1)ワークショップ受講 ブリュッセルでは次のワークショップを受講しました。簡単に感想意見などを書かせて頂きます。 ①Fray Faustワークショップ 一週間のプログラムでしたが、私が受講したのは2日間だけでした。初日はいわゆるコンテンポラリーダンス的なシークエンス。フロアを用いた振付けを教えられました。印象的だったのは2日目に行ったエクササイズでした。4拍子のBGMを使っておこないます。拍子の1、 2で移動し、3で、身体の1ポイントを持ち上げます。4は呼吸としてのポーズ(別に多少動いても構わない)。これをまずは一人でやります。次に、このポイントを、パートナーが触れます。「ともに動くこと」をこの時点で彼は強調していました。そして次に、ポイントに体重を預けてみる(実際はジャンプして飛び乗る)形に発展していきます。 これはウィーンでニタ・レロに習った、コンタクトインプロヴィゼーションにおける他者への接触の際、相手のアンカーを感じるという志向方法を実践するための、非常にシンプルで、安全なエクササイズだと感じました。どうやって相手の身体に入るか、相手の身体を受け止めるか。相手の状態(支え、位置)を想像しながら。そういったことを「瞬間に」感じ、考えるために、シンプルなこの手法で、有効な練習が出来ると思いました。 ②Chrisa Parkinsonワークショップ @Charleroi Danses Chrisaも大変人気のあるワークショップ講師です。1日だけの受講でしたが、実際優しくて丁寧に教えて下さるよい先生でした。このワークショップでは2つのエクササイズを行いました。まず、床に這いつくばって相手の足下だけを見るエクササイズ。次に目をつぶって相手の身体に振れ、その運動を記憶し、その後目を開けて再生するエクササイズ。後者が特に興味深いものでした。また、このエクササイズの際に一緒にやっていたパートナーが言ってくれたことがとても新鮮でした。私もそうでしたが、参加者の多くは触ることで「運動の絵」を記憶しようと努力していたのですが、そうすると、スピードとか、そういうリズムまで記憶することができません。しかし、逆にリズムに集中して、ただそれだけをコピーすることも、一つの記憶の仕方だと、彼女は言うのです。確かにその通りであると思いました。 ③Janette Panettaワークショップ Brusselsを訪れた目的の一つに彼女のWSを受けることがありました。ウィーンで習ったことを再確認するためです。内容についてはウィーンで行ったものと全く一緒です。ただし、スペースがずっと狭く、にもかかわらず人気のある彼女のクラスですから、混雑した中での受講でした。25人くらいの参加者であったと思います。彼女はケースマイケルの学校PARTSで教えているので、その卒業生である友人とは顔見知りで親しく話していました。私の事も覚えていてくれて、また「JAPAN, JAPAN!」と暖かく声をかけてくれました。 (2)パフォーマンス鑑賞 ブリュッセルでは次のパフォーマンスを鑑賞しました。簡単に感想意見などを書かせて頂きます。 ①Leslie Manns "Delusive Figures"/Leslie Manns&Manon Santkin "Byproduct 3" at Kaaistudio 19/10/2006 日記に記載した感想をそのまま引用させて頂きます。 Lesile MannesはPARTS、SEADを出た若手の振付家で、いわばコンテンポラリーダンスにおける王道的な経歴を持ったヨーロッパによくいるタイプの一人である。キュレーターが上演前のイントロダクションで述べた通り、新しい世代の一人であり、ヨーロッパの同世代たちの傾向と方向性は重なる-ヴィジュアルアートとの接近である。身体、またそこにあるあらゆるオブジェを、コンセプトへとつなげていく。 ----- この作品は、徹底的に身体その物理性を全面的に押し出していた。そこにあるのは運動し、志向する「肉の塊」なのである。冒頭及び何度も繰り替えされる、かがめた背中だけを平面的に示すシーン。細長い手を使って平行移動する様は、奇怪なモンスターのようであり、つまり興味深い「絵」を提供する1つのオベジェクトである。 あるいは、1人のダンサーの体を2人のダンサーたちがつまみ上げたりひねったりする様も、あからさまに「肉」であることを示そうとしている。持ち上げられ、引き延ばされた乳房は、絶対的に性的なイメージから遠ざけられようとしている。あるいは、顔面の筋肉を動かされ、本人の意思と無関係な表情を作らされる様は、過疎的なオブジェクトとしての「肉」である。 プログラムに書いてある「作品のテーマ」の通り、こうした身体性は現代人の身体、また身体への向かい合い方を良く暗示している。鷲田清一さんが「悲鳴を上げる身体」で用いている言葉を借りれば、「観念でガチガチになった身体」である。身体が抽象的な物質、肉として捉えられる感覚は、西洋医術、死体の解剖によって始まり、作り上げられた思考のそれである。都市のシステムの中に生きる私たちは、もう容易にこうした肉に還元される前の身体へ戻ることが出来なくなっている。いわば地に足がついておらずふわふわと絶えず浮かんでいる様なもので、こうした思考は大変脆い。 ではこの作品は、そんな現代人の弱さを提示するだけの悲劇なのか。いや、彼等はとてもキレイに小さな希望も指し示すことを忘れなかった。棒立ちになったダンサー。別の1人のダンサーが紙箱(中にまた別のダンサーが入っている)から投げ渡された服を次々にテープで貼付けていく。モード、着せ替え人形の様なオブジェクト性の提示である。しかし、ニット、スカート、ハイヒール、サングラスを棒立ちのダンサーに貼付けていたダンサーは、次に全く同じものを今度は自らに身につける。そして、スタスタとハケ口へ歩いていく。着せ替え人形の様な、同じ肉が、しかし「動的」であるということ-どのような状態・状況(観念でガチガチになっていたとしても)に会っても、確かに「生きている」ことを歩き出すその身体は示しているのである。生きていること、動的であるということは、膨大な可能性を私たちが常に持っているということだ。 ----- 秀逸な作品であり、これからの作品もとても興味深いものだが、しかし同時に、考えさせられるものもあった。劇場のロビーで展開された彼女のもう一つの作品が分かり易いのだが、ダンサーたちの身体は常に何らかの目的と対称関係にある。インスタレーションとしてのこの作品で、彼女たちは中央に置かれた台に、幾つかの写真を配置し、そして入れ替わり立ち替わり次々に並び方を変えていく。その配列が、様々なメッセージ性を浮かび上がらせる、おそらくそれがこの作品のコンセプトである。僕が気になっているのは、この写真を運んでいくそのときのダンサーたちの身体である。「運ぶ、並べる」と行った目的に対して、彼女たちは忠実で、スキが無い(ムダな動作を極力排除しようとしている)。ゆるみがないのである。劇場で行われた前述のパフォーマンスにおいても同じ様にダンサー達の身体は、まっすぐにその目的へと向かっていた。 これはMeg Stuartの「SAND TABLE」を見たときにも感じたことだが、近年のヨーロッパ人アーティストの作品におけるダンサーの身体性の一つの傾向であるように思う。何を言いたいのかと言えば、こうした思考は、とても狭量的であると思うのだ。持続する時間のただ中にある(或は持続する時間そのものである)身体は、可能性の海を常に漂っている。身体にゆるみがある時、私たちはそこに、そうした可能性への開きを感じることができる。様々な事象が身体に飛び込んでくる様を見ることができるのだ。それこそが、「作品」や「芸術」と行った制度を超えた彼方へ向かう道を与えてくれるように僕は思っている。 ②森下真樹 固執 @kaaistudio 19/10/2006 先程の作品と併演された作品です。こちらも、ブログに書いた文章を基に記載させて頂きます。 お茶の作法をパロディー化することを基本的な構造とした作品で、茶碗をまわす代わりにペットボトルを振り回したりするなど、ユーモアをたぶんに含んだ作品でした。このユーモア、ビジュアルの展開の仕方が日本のギャク漫画に通じるものであると感じました。突拍子も無い展開が連続していく。ということは、日本人の観客にはこのリズムだけでコミカルな感覚が、アーティストと観客の共通感覚として互いに既に理解していることで、より容易に伝わる訳です。一緒に鑑賞していたスイス人の友人Lは「驚いた」と繰り返してばかりでしたので、どうもそうした共有部分が無いと、このアーティストの良さ、ユーモアが伝わりきれないのではないかと感じました。前述したLeslie Mannsと同時上演で、よりコンセプチュアルなLesileの作品が先に上演されていたことも、ついついダンスの背後へと志向が向かい、ダンスそのものが持つリズムを楽しむことを見失ってしまいがちにさせ、森下さんにとってはやや不運であるように感じました。初日だったので、緊張されていたのか、いつかアートコンプレックスで拝見させて頂いたときのように、もっとはじけられたら、より観客の笑いを誘うことができるのではないかな、とも思いました。 ただ、彼女がリズムに身をゆだねている感じは、日本人のコンテンポラリーダンサーが共通して未だに持っている独特な感覚であると思います。これは舞踏ダンサーの多くもそうですが、行為が行為そのものとしてある持続性を持っています。彼女の場合も、「行為-目的」の対称関係として、断続的に出来事が身体で発生する(発生させようとする)状況があまり見られませんでした。これは、私の考える日本人ダンサーの特徴であり、作品を通じて再確認出来たことは嬉しかったです。 ③Nightshade @kaaitheater 20/10/2006 Ghentというベルギーの街の"Victoria Theater Company"のプロジェクトで、7人の有名な振付家に、「ストリップ」をテーマに各々作品を作ってもらうという企画です。 The Victoria theatre company from Ghent invited seven icons of the contemporary performing arts to create a choreography for a striptease act. For once Alain Platel, Vera Mantero, Wim Vandekeybus, Johanne Saunier, Claudia Triozzi, Caterina Sagna and Eric De Volder are not working together with their usual group of dancers or actors but with professional male and female striptease dancers. ─ウェブサイトより ポルトガル人振付家Vera Monteroが振り付けたピースをこの公演で初めてみました。非常に愉快な印象をもったピースでしたが、女性が体中に風船を付けて笑ったり話したりしながら割っていったりするというイメージは、ピナが過去の作品で提示していたものと全く同じなのではないかと思いました。こうしたパロディーもコンセプトに入ってるのか、疑問に思いました。またその他に、Caerina Sagnaという振付家の作品が印象に残りました。冒頭、舞台下手で演奏をしていたバンドの指揮者が突然立ち上がって客席に歩いていき、吟味するように立ち止まってから、一人の女性を舞台へ招き入れます。そして何か耳元に吹き込みます。素人であるのか、そうでないのか、彼女は曖昧なまま舞台に立ちます。しかもその一つ前の作品はかなりベタなストリップ作品でしたから、彼女が脱ぐのかどうか、そんな想像もわいてきます。しかしながら、なかなかはっきりとよくわかりません。そして彼女が舞台上をドギマギしているうちに、轟音の様な音楽がなり始め、まるで何かを強制されている様に彼女は困惑した表情を始めます。その時突然幕が彼女の両脇から迫ってきます。さらに頭上からも。彼女は大きな悲鳴を上げて倒れ込みます。その後は、下半身だけが客席に見えている状態で、普通に彼女は脱ぎ出し、この時点で全てが仕込みと分かります。こうした雰囲気、微妙な感覚は、寺山修司の作品を思い起こさせるようにも感じました。ただ、かなり丁寧に作り込まれ、大変興味深い時間でした。 <2>アムステルダム滞在 (1)Amsterdamse Hogeschool voor de Kunsten Theaterschool見学 アムステルダム滞在の一番の目的は、友人が通っているAmsterdamse Hogeschool voor de Kunsten Theaterschool(http://www.the.ahk.nl/EN/home.jsp)の見学でした。ここは、舞台芸術全般に関する学校で、演劇やバレエ、舞台美術など様々なコースが設置されています。このうち、コンテンポラリーダンスについての学科として、New Dance Developmentと、Dance Unlimitedの2コースがあります。New Dance Developmentは、4年制のコースで、テクニックから理論まで学びます。Dance UnlimitedはいわゆるPost Graduatedの学生を対象としていて、募集要件には3年以上のプロフェッショナル活動も求められます。Individual Reseachを行うのがプログラムの主な概要で、学校の全ての授業を希望すればとることもできますが、基本的に必修とされている授業は殆どないそうです。いずれも授業は英語で行われ、学生は様々な国から集まってきています。 学校見学をして感じたことは、CNDCやPARTSなどと違い、ここは本当に「学校」として整備されているのだということでした。4階建ての建物一つが教育機関になっていて、レジデンシー施設との併設(CNDC)や、私設カンパニー付属の学校(PARTS)でとは全く異なるものでした。それは、まず一つによく設備が整っているということ。トレーニングルームに、食堂やコンピュータールームなどもありました。また、公共機関とのコネクションも強く、外国人学生に対するサポートもしっかりしていました(New Dance Developmentの学生には日本人の方も一人おられました)。また、学生数が多く、まさに学舎の雰囲気が漂っており、Post Graduatedの人間を中心に集める私設特有の、プロとアマチュアの間の様な曖昧な空気ではありませんでした。 授業は、New Dance Developmentのテクニッククラス、ビジネスクラスを見学させていただきました。テクニッククラスは、フロアーを使ったかなり激しい振付けを教えられていました。ブリュッセルにいた際に友人が冗談まじりに「アムステルダムではダンサーの足の挙げ方がブリュッセルより30cm高いよ。」と言っていましたが、その通りオランダのコンテンポラリーダンスはかなりフィジカルな方向性をもっていて、授業もそうした傾向を持っているのではないかと思いました。 ビジネスクラスは、実際にオランダでキュレーターをされている方が講師で、ご自身の経験をふまえながら、これからインディヴィジュアルアーティストとして活動していく若者に、ビジネスとして何が大事か、非常に丁寧に分かり易く教えておられました。私が見学したのはこのクラスの始まりで、まず先生から与えられた課題は、紙一枚にアーティストが作品を実現するのに必要なものを全て書き出しなさいということでした。funding supportやrehearsal space、advertisementなどなどたくさんの言葉が学生からあがりました。先生が授業の中でおっしゃった言葉で、最も印象的だったのは、キュレーションをやっていて、最も大切なものは「人のつながり」だということでした。当たり前のことの様ですが、現地の人とのつながりや、アーティストとのつながり、そうした面と向かってのコミュニケーションがあって初めて何事も成立するのだということを、改めて実感しました。また、ポートフォリオやウェブサイトなど、資料はすぐに渡せるように準備をしておきなさいと念を押されました。授業の終わりには「日本では履歴書などは非常に簡潔なものが喜ばれる傾向がありますが、よくヨーロッパの学生が大変長いものを提出するのを拝見します。これは文化の違いなのでしょうか?」と質問させて頂くと、先生は「いいえ。ヨーロッパのキュレーターだって時間がないのよ。ある程度すぐに分かる文章が会った方がいいわね。それは一緒よ。」と答えて下さいました。 (2)ダンスクラス受講/パフォーマンス鑑賞 滞在中にはHenry Jurrienというダンススタジオでバレエ、モダンダンスのクラスも受講しました。いわゆるバレエ、モダンで、これといった特徴のない授業でしたが、基本的なことをちゃんと学べる良いクラスでした。。バレエの先生は日本人の男性の方で、、キリアンなどで働いていたそうです。Henry Jurrienは、もう一つのダンススタジオと同じ建物に入っていますが、料金体系が異なり、まとめてチケットを買うと随分安くなります。プロフェッショナル向けの授業ということになっています。イニャーキやデヴィッドザンブラノなどもここで教えたことがあるそうです。クラスとはべつにワークショップもしばしば催していて、例えば私がくる直前にはフォーサイスの基で働いていたダンサーのワークショップがあったそうです。 パフォーマンスは友人の韓国人のパフォーマンスと、次のパフォーマンスを観ました。 Monday Match -dance & music impro lab @The Bimhuis Terence J. Roe(acting), ViolettaPerra, Lilly Klara(dance), Rozemarle Heggen(bass), Paul Pallesen(guitar, banjo), Joost Buls(trombone, lapsteel) 川に浮かんだ巨大なコンサートホールの中の一部屋で、インプロパフォーマンスが行われました。とても美しい部屋で、舞台奥が全て窓になっています。背景にアムスの夜景と、行き交うトラムや列車が見通せました。動き続ける列車は、舞台空間だけに留まらず、パースペクティヴとしての世界観を提示していて、劇場に足を踏み入れた瞬間にハッとさせられました。ミュージシャンとダンサー、俳優によるセッションです。どの出演者にもとても良い印象をもちました。 これを見た前の週にTheaterschoolにて学生が行うジャムに参加したのですが、とても違和感がありました。学生たちは、学校やまたその他の場所で多くのテクニックを習ったり見聞きすることで既に知っています。ところがジャムでは彼らの多くが、まるでそうしたテクニックを迂回する様に何か別なものを提示しようと必死になっているように見えました。テクニックをただフレーズとして連続させることは確かに他者や空間との交通を遮断することになり、インプロヴィゼーションの自由さ、ラディカリズムから離れることになりますが、かといって既に知っているもの・ことからわざわざ遠回りすること、知らぬ振りをする彼らのありかたも、わざわざ不自由を持ち込んでいることになっているような気がしました。 対して、この作品の出演者たちは、より自由に表現していたように感じました。インプロセッションの中で、アクターが、振るわせるように指を操っているとき、それはダンスとしての洗練されたものではないのだけれども、彼の身体の上でとても率直なものとして生まれでてきたものであるように見えました。彼の運動には気取りや気負いも感じられなかったのです。それはいつか岩下さんがダンスセラピーの現場のビデオを見してくれたときに拝見した、鬱病の方が、突然踊りだした瞬間の感覚に似ているように思います。
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