過越しの祭りの週(後に受難週、Passion Week とよばれます)のはじめの日、キリストはロバに乗って、エルサレムの城門に入っていきました。ロバに乗って入っていったのは、救い主はロバに乗って来
るという預言を成就するためです。神が約束した救い主が、エルサレムに入ってきました。 キリストはエルサレムの王としてふるまいました。まっすぐに神殿にいき、縄のむちを手にもって、鳩、羊、牛を売る者たちを追い出し、両替する者たちの机をひっくり返しました。エルサレムの権威者たちは、商人たちと手を組んで、神殿を金儲けのための場所としていましが、キリストは権威をもって彼らを排除しました。エルサレムの権威者たちはキリストに反感を持っていました。 キリストはエルサレムの権威者たちと議論をして彼らの偽りを暴きました。律法学者であるパリサイ人の偽善を激しく攻撃しました。多くのたとえ話をとおして、イスラエル民族の不正を指摘しました。 エルサレムの権威者たちは過越しの祭りが終わってエルサレムが静かになり、キリストを支持するものが少なくなるまで我慢していました。彼らがキリストを拒否したため、神の裁きにより、エルサレムの町は40年後ローマ軍によって滅ぼされてしまいます。住民は虐殺され神殿は破壊され炎で焼かれました。そしてイスラエル民族は世界中に散らばり、約 1900年間、放浪の民になってしまったのです。ユダヤとイスラエルを参照。 過越しの子羊が殺されるべき日の夜が来ました。 その夜、イスラエル民族の各家庭では、過越しの食事を食べることになっていました。律法によれば、その食卓には、種な しパン、苦菜、過越しの子羊の肉が出される。その食事をしながら、一家の家長は、家族に、イスラエル民族がエジプトから救い出された物語を語るのです。 その年の過越しの祭りの中で、キリストは自身を子羊のいけにえとして捧げようとしていました。そうすることにより人間が、罪の世界から救われると考えたのです。 キリストとキリストの弟子たちと過越しの祭りの食事をしました。その食事がキリストにとって最後の食事でした。食卓にはパンとぶどう酒がありました。 キリストはパンを割いて弟子たちに与え、これはわたしの体ですと言って食べさせました。次に、ぶどう酒を取り上げて、これはわたしの新しい契約の血です。 罪を赦すために流されるものですと言って飲ませました。そのパンが十字架の上のキリストの体を示しており、ぶどう酒は、十字架の上で流されるキリストの血を 示していました。それがキリストの弟子たちに与えられた新しい契約のしるしでした。新しい契約とは、主イエスを信じる者が、すべての罪を赦されて神の国の民となるという神の約束です。後に、この儀式は聖餐式として教会に伝えらることになりました。 イスカリオテのユダは、過越しの食事の途中でキリストを裏切るために出ていきました。ユダは大祭司のもとに行き、キリストを銀貨30枚と引き換えに引き渡してもいいといいました。 キリストとキリストの弟子たちは、食事の後、賛美を歌いながら、祈るためにゲッセマネの園にいき、キリストはそこで悲しみもだえました。キリストはイスラエル民族の苦しみと人類の苦難を思って悲しみに打ちひしがれたのです。天の父は、神の子が十字架の苦しみを受け入れなければならないことを定め、イスラエル民族が苦難の歴史を負わなければならないことを定め、全ての人間はそれより長く苦しみの中を生き続けなければならないことを定めていたのです。 キリストの弟子たちは疲れて眠り込んでいました。キリストの祈りが終わったとき、キリストは逮捕され、大祭司の下で極秘の裁判により有罪となりました。神を冒涜した罪です。キリストは自分は神の子だと言ったのです。 キリストは、ローマの総督であるポンテオ・ピラトのもとへ送られました。そのときの罪状は「自分をユダヤ人の王と主張する反逆者」と捏造されていました。ピラトはキリストに死刑を宣告し、兵士らに引き渡しました。キリストは十字架をかついで、ゴルゴダの丘まで引かれて行き、十字架に両手と両足を釘で打ち付けられ頭には茨の冠が置かれました。キリストの頭上には、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」と記され罪状書きが置かれていました。キリストは王として死ぬのです。キリストは過越しの祭りの中で、過越しの子羊として、そしてイスラエル民族の王として最後を迎えようとしていました。 昼の12時過ぎ、全地が真っ暗になった。天の父と神の子を結んでいた愛の交わりが断たれました。午後3時、 キリストは「完了した。」といいました。神の子が地上でなすべきことはすべて完了したのです。キリストは静かに息を引き取りました。そしてサタンに勝利したのです。そのしるしとして、それまで神と人間を引き離していた神殿の幕が、 上から下まで二つに裂けました。 後にイスカリオテのユダは自分の行為を悔い改めて銀貨30枚 を大祭司に返しにいきましたが、受け入れてもらえず、その銀貨を神殿に投げ込んで首を吊って死にました。神に逆らう罪は悔い改めれば赦されるが、聖霊に逆らう罪は悔 い改めても赦されないのです。イスカリオテのユダの罪は聖霊に逆らう罪でした。聖霊は、地上に来た神の子に付き添い、神の子と一体になっていまし。神の子を裏切ったことは聖霊を裏切ったことでもあったのです。 キリストが十字架の死を受け入れたことの意味は、アダムの原罪をあがなうということです。、これにより全ての人間の罪は正当に罰せられ、信じる者の罪があがなわれたことになります。サタンはキリストとの戦いに敗れたのです。アダムの原罪は取り除かれ、サタンが企てた計画は全て崩れ落ちました。 そして、弟子たちにキリストが予め伝えていたとおり、キリストは3日後に復活しました。 |

ローマ 6:3
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
ローマ 6:4
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
ローマ 6:5
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
ローマ 6:6
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
ローマ 6:7
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
ローマ 6:8
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
ローマ 6:9
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
ローマ 6:10
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
ローマ 6:11
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ガラテヤ 3:6
アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
ガラテヤ 3:7
ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
ガラテヤ 3:8
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
ガラテヤ 3:9
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
ガラテヤ 3:10
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
ガラテヤ 3:11
ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。
ガラテヤ 3:12
しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。
ガラテヤ 3:13
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
ガラテヤ 3:14
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
1ヨハネ 3:5
キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
1ヨハネ 3:6
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
1ヨハネ 3:7
子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
マタイ 10:38
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ 10:39
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。