前口上
「横浜B級観光・関外の巻」に、ようこそ。 おみ足をおはこびいただき、ありがとうございます。 今日のコースは、みなさまよくご存知の、港とか山下公園とか中華街とか馬車道などがある関内、あちらには全然行きません。 あちらは横浜A級、今日はB級にご案内です。 そう、関外だけです。 関外ってのは、読んで字の如く関内の反対ですね。 関内とは昔々の開港当時に四周に掘割を巡らせた、 外国人居留地の地域です。出入りする時に通る橋に関所を設けたので、その関の内なんですね。 だったら関外は、その外の地域全部ってことになりますが、通常はJR根岸線あたりから西の平地の地区内を言います。 横浜観光というと、港のある関内のほうがいつもとりあげられて、それがA級観光です。 関内観光の基本テーマは「横浜の開港と近代化」って感じですよね。
そちらに対抗するために、 本日の関外ツアーの基本テーマは、「横浜戦後復興の残照」としましょう。 なんでB級なんだ、 どうして残照なんだと、お思いでしょうが、それはひと回りして見れば分かります。 あらかじめお断りしておきますが、わたくしは似非ガイドでございます。 このあたりに住みついて、日頃うろちょろしているわたしの散歩コースを、ちょっとひねってご案内するだけです。 B級の上に似非がつけば、これからの行く先のいい加減さに、あらかじめお覚悟なさっておいてくださいませ。 では参りましょう。
◆横浜B級観光本日歩く関外地区街の航空写真
まずは
寿町界隈
ドヤの街からヤドの街へ 石川町駅ー寿町ー松蔭町ー扇町 ここは根岸線石川町駅、ご存知の方には、あのオシャレな元町商店街への駅でしょうが、今日はそんなA級と関係のないB級にふさわしい北口改札集合といたしました。 ●ラブホテル街
このトンネルってB級SF世界への入り口みたいでしょ。
さて、くぐりぬけて出たところ、ご覧の様なキンキラど派手建物群、そう、ラブホテル街でございます。 いつからこうなっているのか存じませんが、いやあ、すばらしい。どなたがこのようなデザインをなさるのでしょうかねえ、専門の建築家がいらっしゃるんでしょうねえ。 もちろんここは残照よりも、これから日が暮れてからのほうが景観がすばらしいですよ。あらためてお二人でおいでになってはいかがですか。 あ、またあとで別のラブホテル街にもお案内しますから、もう適当に行きましょう。 ●ドヤ街 あの大きな道を渡ったあたりから、寿町ドヤ街が始まります。
ほら、海運関係の看板が多いでしょ、つまりここは横浜港の荷役会社がたくさんあるところのようですよ。寿町に労務者が多くいて、その宿舎のドヤが一杯あるってことは、そういう横浜の港としての歴史があるんですね。 東京の山谷、大阪の釜が先と並ぶ3大人足寄場といわれましたね。 で、このあたりのビル群をご覧下さい。ワンルームマンションみたいでしょ、でもこんなに建てこんで、いかにも日当たりはわるそうです。 これらが現代のドヤ、つまり宿の隠語ですね。正しくは簡易宿泊所です。 中廊下の両側に5㎡、3畳間ひとつの部屋がズラーッと並んでいます。 1泊1200円から2500円、この一帯にはそれが8000室もあるんだそうです。そのうちの6000室ぐらいに常時宿泊者がいるとか。 誰が泊まっているのかっていうとですね、昔は港で船の荷物の上げ下ろしの荷役、その後の景気よか った頃は建設現場の仕事で日雇い暮らしをしてきた男たちだそうです。横浜は港町として発展してきたので、港で働く人たちが大勢必要だったし、特に戦争直後はこれが大きな雇用の場だったのですね。 戦後復興の港は、日本の復興となった朝鮮戦争の兵站基地でもありました。 まさにある時期には、この労働者たちが横浜を支えたのでした。 そのひとたちが、ここで空間も時間も肉体も平行移動して、いまじゃあ高齢独身者の群れになっているのです。 そのうちの8割くらいが、生活保護費を受給しているんだそうですよ。 消えようとしてる残照ですね。先々どうなるんでしょうかねえ。 この町は。不況になるとよそから新たな住人がやってくるし、ほかを追い出された障害を持つ人が来たりして、なかなか難しいことになってもいるようです。 この「さなぎ食堂」は、NPOが経営しています。 なんでもどこかのコンビニエンスストアと契約していて、そこでの期限切れちょっと前の売れ残り食品を入れてもらい、再調理して出すのだそうです。だから定食350円と450円です。 ●ホステルビレッジ あ、どうです、今晩ここに泊まっていらっしゃっては、。
「横浜ホステルビレッジ」といって、このドヤ街の3つのドヤビルの空き部屋を改装して、1泊3000円でホテルとして提供している会社があるんです。ほら、ここがその共同フロントですよ。
わたしは一度だけですが泊まりましたよ。こちらの林会館というドヤビルの最上階でね、5平米の部屋にテレビとエアコンと布団だけで、シャワーと便所は共同でした。
実はわたしはここから300mほどのところに住んでましてね、なにを物好きなってことですが、そう、物好き友人たちと体験しました。そのときも今日のようにB級似非ガイドをしました。実はこれで似非ガイド4回目なんです。
●普通の街へ そのホステルビレッジってのは、もとはNPOの地域支援活動から出発したのでした。そのリーダーたちはこういっていました。
「多様な人が今の寿の町の良さを残しながら、何かを排除してのまちづくりではなく、懐の深い街として、現生態系を残しつつ、街の元気さを取り戻してゆきたい」 ちょっと言い回しが硬いけど、アメリカの大都市のようなジェントリフィケーション、つまり貧乏人を追い出して金持ちだけが住める街にするって、あれじゃないやり方で、町の再生をしようってことらしいです。 事実、その運動の若者たちの活躍で、この4年くらいで街は見た目は清潔になってきましたね。 歴史を知らない外国人バックパッカーは、平気で泊まり歩きまわるし、ときにはスポーツ少年団がとまったりすることもあるそうです。 そうするとあまりほかと違わない街になってきて、近所の人たちも、以前は駅に行くのに遠回りしていたのが、今では通り抜けるとか。 さて、この大きな建物の上は市営住宅、下は福祉センターなどの公共施設です。ここの広場はきれいになっていますが、つい数年前までドヤにも泊る金の無いホームレスの人たちが焚き火をして暮らしていました。 今は、あそこの屋根の下にドヤにさえ泊まれない人がダンボールで暮らしています。あ、じろじろと見に上がっちゃいけません。 ●場外ギャンブル
あ、そっちの暗い路地には入らないほうがよいですよ、私設場外馬券売り場らしいですよ、その筋の経営の「ノミ屋」さんね。わたしは地元の方に連れられて通りましたが、なんだかコワイような。
このあたりで派手な格好で歩く女性の方は、その筋のご関係者のアネゴと思われるかもしれないとか。 あちらに大きな白いビルがあるでしょ、 あれは 「ボートピア」といって公認のばくち場、場外舟券売り場です。 2009年にできましたが、これでここの何軒かのノミ屋さんがなくなるのかと思ったけど、いまだ健在ですね。よくわからないけど、仕組みが違うんでしょうね。 あ、こっちの大ビルディングの工事は、ドヤの新築らしいですね、まだ需要あるんですねえ、不景気が続いている証拠ですね。 さあもう、次に行きましょう。 ◆寿町のことは次を参考のこと ・B級横浜観光で見たことhttp://homepage2.nifty.com/datey/kotobuki.htm
つづいて 真金町界隈
遊郭から下町住宅街へ 長者町二丁目ー山田町ー永楽町ー真金町ー横浜橋商店街 ●長者町再開発
寿町を出て扇町、道路を渡ると翁町、そこから先は長者町、なんだかおめでたい名ばかりですね。
このへんは江戸時代まで海がずっと入り込んでいた湾でして、そこを19世紀半ばから埋め立ててつくった土地ですからね、どうせならオメデタイ地名をつけようってことだったのでしょうかね。 不老町、千歳町、永楽町、真金町、黄金町、福富町などなど、これから通りますよ。何か良いことがあるかもしれませんね。 ここは長者町1丁目の交差点です。向うは長者町2丁目で、この角の汚れきった4階建ての建物は、上は共同住宅、1階の店は全部閉まっています。 もう2年も前から建築お知らせ看板が出ていて、建て直すらしいのですが、いまだに動きそうにないのは、まだ住んでいる人が数名いるからのようです。 この建物は、1958年に建った地主と県住宅公社との共同ビルです。実はこの隣にも同じようなものがあったのですが、2年前にあのように高層共同住宅ビルに建て替えられました。 交差点の斜め向かいのビルも見てください。この白いビルも同じ頃に建てられた戦後復興のビルですね。下が店舗、上に集合住宅で3~4階の建物ですね。 このような一見なんでもない建物を、これからたくさん見ることになりますので、ご注目ください。 ●占領と復興
太平洋戦争が終わっても、この横浜都心部の大部分は、進駐してきた米軍に占領され接収されたままでした。
都心部のほぼ全域が接収解除になったのは1955年ですから、横浜の戦後はそこから始まりました。 戦災で丸焼けとなり、しかもその後は占領されてすっかり整地されてしまい、そこに米軍のカマボコ兵舎や倉庫群が立ち並びました。なにもない広い空き地には草がぼうぼうと生えていて、関内牧場と自嘲的に揶揄していたとか。 ほかの戦災都市と比べると復興が10年は遅れましたね。だから接収解除となって、まちづくりに急いでとりかかったのです。それもきちんと計画的に街並みをつくろうとしました。 ![]() そのひとつがこのビルです。当時はモダンな都心居住団地だったでしょうね。これも戦後復興の残照ですね。 これらは防火建築帯といって、連続的に3階以上の鉄筋コンクリートの建物を建てていって、防火性があり、しかも整った景観の街並みを作っていきました。 この交差点のななめ前の、あの4階建ての建物もそうらしいですね。 老朽化してきてだんだんと建替えられつつありますが、中には権利が複雑になっていて、建て直すのが難しい建物もあるようです。 ・横浜都心戦後復興に関しては「関内地区戦後まちづくり史」参照http://homepage2.nifty.com/datey/kannai200609.pdf
●山田町再開発 では長者町通りを渡って、このあたりは山田町です。特におめでたい地名じゃないですね。なんでも山田さんて方が住んでいたそうです。
このあたりの高い共同住宅ビルは、どれも神奈川県住宅供給公社の山田町住宅です。
じつはこの山田町には、先ほど見たような4階建て県公社住宅が5棟も建っていました。1階が店舗、2,3,4階が住宅です。それを県住宅供給公社が200年ごろから建て直して、高層3棟の新たな1階に店舗付きの賃貸住宅にしたのがこれです。上の写真が建て替え前、下が建て替え後の今の姿です。戦後復興の街から約半世紀を経て、次の世代の街に交替した見本ですね。
このような都心の公共賃貸住宅をもっと建てるべきとおもうのですが、今の日本の住宅政策は持家ばかり優遇です。 分譲マンションは、神戸の大震災で復興が実に大変だったから、共同住宅の分譲方式は禁止して賃貸借方式にするべきとわたしは思っているのです。
こんど関東大震災が来たら、ものすごい数のマンション難民が出るでしょうね。日本人はあの大震災の教訓を忘れたのですかね。
●永真遊郭跡
ではもう少し行って、そこを曲りましょう。
なんでもないところに突然にこんな中央分離帯に植樹のある広い道路が出現しました。桜が植えてあって、春はお花見通りになります。 奇妙なことにこの広い道はこの街の中だけで、外に伸びていません。 このあたりは永楽町といって、となりの真金町とあわせて400メートル角ほどのところが、19世紀末から20世紀中ごろまでは、「永真遊郭」という紅灯の巷でした。 この広い道は、両側に妓楼が立ち並ぶ、遊郭のメインストリートだったのです。遊郭ってのは、まあ、性的享楽公認ゾーンで、法で禁止になる1958年までのことですが、警察から妓楼を設置してよいと免許を受けた地域です。 妓楼とは、名目上は娼婦に部屋を貸す飲食店ですが、早い話が娼婦を抱えておいて、客をとらせて儲ける商売の家です。 1933年の資料では横浜には遊郭が3箇所、93軒が営業していたそうです(『日本都市年鑑2』 東京市政調査会= 『花街』加藤政洋2005朝日選書から孫引き)。 戦後はこの永真遊郭には、約190軒が営業、娼婦が700人以上いたのだそうです(『赤線跡を歩く』木村聡2002ちくま文庫)。 ちょっとした町にはどこでも遊郭があったようです。有名なのは東京なら吉原、大阪なら飛田、名古屋なら中村とかね。 遊郭は、芸者さんがやってきて粋な歌や踊りで遊ぶ「花街」とは違うのだそうです。純粋に性の享楽地なんですね。 と知ったかぶりいっても、わたしは本当のところはよく知りませんがね。 この道の両側には紅い灯のつく妓楼が立ち並んでいて、桜や柳の下をぶらりぶらりと遊興客が娼婦を選びつつあるいたそうです。 戦前は立派な建物もあったようですが、戦災で丸焼けになったので、戦後は歌舞伎に出てくる吉原みたいな街並みじゃないことは確かです。 「戦後50年 横浜再現」(奥村泰弘 ・常盤とよ子 1996平凡社)という写真集があります。ここには1950年代の横浜都心の風景とともに、黄金町の娼婦たちの生態を描いていて興味深いものです。 ●遊郭の名残
あ、ラブホテル街です。これも機能的には遊郭の名残といえなくもない。
古典的なつくりのお風呂屋さんが2軒もあるし、婦人科診療所があるのも名残かもしれません。
横浜遊郭は最初はどこにあったご存知ですか、そう、横浜スタジアムのある横浜公園のところだったのです。幕末に開国して外人の居留地を作るときに、遊郭も作ったのだそうです。なんどかあちこち移転して、1882年にここにきたのだそうです。当時は町外れですね。
遊郭は1958年に法律で禁止、廃業になり、今はご覧のように普通の住宅街ですね。その残照はほとんどありませんね。
当時の僅かな名残は、区画割と道路だけですが、特にこの真ん中に木が植わった道は、遊興のメインストリートの遊歩道だったのです。
こんな道が3本この地区にあります。昔の地図を見ると、そこの先辺りに大門があったようです。
このあたりは今は集合住宅街ですが、おかしいのは永楽とか真金とか名をつけているものはひとつもありません。マンション大通り公園南なんてのはまだよいけど、ずっと向うの伊勢佐木とか、ここは関外なのに関内とかつけています。
●大鷲(おおとり)神社
ここを曲っていくと、突き当りが大鷲(おおとり)神社あるいは金毘羅神社ともいいます。毎年11月の酉の市のときはこのあたりはものすごい賑わいになります。
一帯は自動車交通止めになり、道にはずらりと屋台が建ち並び、縁起物の笹飾りを売る手拍子が響き、昔懐かしい祭の夜店の風景が立ち現れるのです。ぜひおいでになってください。これは遊郭の残照といえるかもしれません。
この神社も多分、遊郭の繁盛を祈るために建てたのでしょう。ここの石の玉垣の柱に、桂歌丸って大きく彫り込んでありますね。
●青線と赤線
青線とか赤線地帯とか言いますね、ここは赤線です。
どこが違うかというと、戦前はお上が売春を許可する公娼制度があって、その公娼の営業地域が遊郭ですね。例えば江戸の吉原なんてのが有名ですが、ここの永真遊郭もそうですね。
無許可営業は私娼といって、その営業エリアを私娼窟といました。永井荷風が好きだった玉の井がありますね。
1946年にGHGの命令で公娼制度が廃止となりました。しかし、しばらく特例措置として、遊郭や私娼窟だった地域に限って特殊飲食店街という名で、警察がそれなりの許可 したのです。その範囲を警察の地図に赤い線で囲っていたので「赤線区域」、これが赤線のもとです。青線は無許可の営業地域ですね。
なんにしても1958年には売春防止法で廃業です。そのあとは非合法営業だけですから、場所によっては検挙と再開のいたちごっこが続いたところもあり、それが、この後で行く黄金町です。
●横浜橋商店街
そこの路地を入って抜けて、ここが横浜橋商店街です。
地方都市の中心商店街がシャッター通りになっていますが、ここでご覧のとおりに昼真っから賑やかなものです。夕方になるとものすごい人通りになります。 下町らしい市場の雰囲気を持っていて懐かしいですね。 魚屋、 八百屋、肉屋と生鮮系店舗の勢いが良いですねえ。 ナムル、チジミ、キムチなどの店がけっこうありますね。あ、買い食いしますか、食い歩きも楽しいですよね。 どうしてこんなところに突然にこんなににぎやかな商店街があるのでしょうか。不思議ですが、多分、戦前から遊郭があることで共に繁栄してきたのでしょうね。 ●大通り公園
でも東のほうのタイル敷き詰めたかんかん照りの公園よりも、こっちの楠や樫などの常緑樹の緑に覆われた公園のほうが、わたしは好きです。
この公園は昔は川でした。川と言っても埋立地ですから運河ですね。だから昔は遊郭を伊勢佐木町のほうから見て川向こうと言ったそうです。廓(くるわ)とは、周りを堀や塀で囲われているものなんですね。
今は、川は埋め立てられて公園となり、地下に電車が流れています。この辺に横浜橋がかかっていたんですね。
では道路になった横浜橋を渡っていくと、この大通りが国道16号、鎌倉街道です。昔は市電が走っていました。
◆永真遊郭や横浜橋商店街については次を参照
お次は 黄金町界隈
青線街からアートの街へ 曙町ー伊勢佐木モールー若葉町ー黄金町
道の北側が曙町って、これもおめでたい名前ですが、ここも昔から下半身系の遊びの町で、最近はごらんのように新たな風俗営業系の店が増えてきています。
この国道に連なる堂々のフーゾク街並みをごんらん下さいませ。上から下までフーゾクビルまでありますよ。 昔は裏通りが風俗街だったのに、いまや表通りまで進出して生きています。
では国道を渡ってその裏通りです。この国道に平行して一本北にあるこの裏路地は、「親不孝通り」って言われたらしいですよ。青線街として親を嘆かせるアヤシイ商売が連なっていたのです。永真の赤線街とセットだったんでしょうね。 そういう伝統ある界隈として、いまも風俗店が軒を並べています。
ほらそこんこと、1階の入り口あたりに緑色のモザイクタイルを貼った丸い柱があるでしょ、これがかつてはその手の店のデザインボキャブラリーだったのです。
●B級化進む伊勢佐木モール
これから横切るのが横浜1番の商店街だった伊勢佐木モールです。
伊勢佐木町は、関内駅近くの1丁目から始まり7丁目まであります。その中心軸の伊勢佐木モールは、関内駅に近い東のほうがメインで、このあたりは6丁目になるとなんとなく残照感が漂います。 真っ赤なパチンコ屋さん、夕陽に映えて隣もピンクに染まっています。 しかし、最近は東のほうも怪しくなってきていて、むしろこちらの西のほうが、かつての伊勢佐木の雰囲気を保っている感じもあるような、 、 。 このあたりは古書店もけっこうあって、わたしはよく巡っています。面白いのは東から西へと場末に来るにしたがい、エロ系古本が多くなるってことです。 「ブックオフ」ってのが3年前にでてきて、古本屋のくせにイラシャイマセ~コンニチワ~って、居酒屋みたいに黄色い声をしょっちゅう聞かされるのは、ありゃ万引き対策なんですかね。うるさくも不思議な気分です。 でも、あそこは本の目利きがいないらしく、ものすごく広い105円棚に意外な掘り出し物があって嬉しいですね。 「ブックオフ」ってのが3年前にでてきて、古本屋のくせにイラシャイマセ~コンニチワ~って、居酒屋みたいに黄色い声をしょっちゅう聞かされるのは、ありゃ万引き対策なんですかね。うるさくも不思議な気分です。でも、あそこは本の目利きがいないらしくて、ものすごく広い105円棚に意外な掘り出し物があって嬉しいですね。
●若葉町の映画館
では伊勢佐木モールを横切って北に行きましょう。
あれっ、このあたりに横浜日劇って映画館が建っていましたが、 なくなっちゃいましたね。 CINEMASCOPEって入り口の上の大きくネオンサインがあって、なんていうか、映画全盛時代の風景でしたね。これも写真だけ見てください。 この近くに「ジャックアンドベティ」って映画館が、なかなか面白い企画の映画をやっています。映画館街でもあった伊勢佐木町の残照ですね。 そうそう、進駐軍が接収していた頃、このあたりに飛行場があったらしいですよ。接収図(15ページ)を見ると、東西に長いところがあるのはそれですね。 ●消滅した青線街
では、大岡川の末吉橋を渡りましょう。
さてこの辺りが、かの有名だった黄金町界隈です。 なんで有名かって、ええ、このあたりの川沿いや京急電車の高架の下などに、特殊飲食店街っていうか、例のあの生身下半身商品の実物現地直売の生き残り店舗が栄えていたのです。 でも見たところでは、商品はラテンアメリカとか東南アジア系からの輸入が多いようでしたね。 通称「チョンの間」っていって、ちょっとの間であの用事を済ますって意味でしょうか。ほらそこにある赤いテントの庇がいくつも出ている、2階建てアパートみたいな建物がありますね、あれがチョンの間の市場でしたね。 あのようなのがガード下やガード裏路地あたり に連なっていたようです。 赤線も青線も1958年に消え去ったはずなのに、その後も250軒くらいあったそうです。 なんで生き残るかって言うと、そりゃ需要と供給があったことがいちばんでしょう。警察が手入れしても手入れしても、しぶとく再生していたってことで、いたちごっこですね。 だから「有名」て言うのは「悪名高い」ほうです。 ![]() ところが2005年、神奈川県警が徹底的な取締りをはじめて、毎日24時間おまわりさんが六尺棒持って見張っています。 あちらさんも、さすがにいたちごっこ再生は不能になったのですね。 最近とうとう交番が建ちました。 ●白昼の娼婦
今は川沿いの道もきれいに整備されていますが、これもこの3、4年のことで、その前は薄汚い町でした。
わたしが関外に住むようになったのは2002年からですが、その前からちょくちょく新聞に「黄金町また手入れ」みたいな記事が載っていて、はて、どんなところだろうかと気になっていましたが、わざわざ見に来るほど物好きでもありませんでした。 関外に住むようになって、 ある日の昼頃、散歩がてら来てみて驚きましたね。 赤いテントの庇ごとに、きれいなおねえさんが立ち並び、通る人に客寄せの声をかけているのです。超ミニスカートでね。 まだ太陽は真上にあるんですよ。さすが夜には来ませんでしたが、朝方の散歩でも同じでしたね。聞きしに勝るとはこのことか。どうも写真を撮るのはためらいましたね。 間口1間、奥行き3間半ほどの店が連なる共同店舗です。 この建物自体にもこの道の営業ノウハウがありそうです。 後に空き家ちょんの間の建物をアートイベントで公開していたので入って見ました。 1戸が間口1間、1階に飲食店ですって申し訳程度の小さなカウンター、その奥に階段があって2階に上がると、階段を挟んで奥に2畳間でこちらは休憩部屋らしい、表に3畳間があって営業部屋のようでした。 ●三国間貿易
この路地を通る人のなかに目立ったのは、どうも米軍横須賀基地の若い兵士らしいひとたちでした。
立っているおねーちゃんも、どうも日本人じゃなくてラテン系、それも中南米系とか東南アジア系のような風貌がほとんどでしたね。どういうルートでこんなところに来たんでしょうか。 で、その商品とか場所とかの供給をするその筋のほうの日本人が、その中間で手数料とか家賃で儲けるって仕組みだったらしいですね。 つまり日本を舞台にして三国間で貿易が成立している。 『黄金町マリア』(2006年八木澤高明)って、黄金町の娼婦を追うルポルタージュ本があります。そこにはこんなことがかいてあります。 「黄金町には250軒のちょんの間があるといわれ、中国、タイ、中南米、東欧などから来た女性、そして日本人女性も含め、約500人が働いていた」 彼女たちの、販売価格は30分で1万円、娼婦の払う部屋代が1日2万円、ここにきた裏事情には人身売買もあること、などがかいてあります。 ●映画のなかの地獄
黒澤明監督作品の映画に「天国と地獄」があります。横浜と鎌倉が舞台でした。天国とは丘陵上の高級住宅地、地獄とはその下に広がる平地のスラム街という設定です。
そのスラム街の描写のひとつが、戦争直後の黄金町界隈でした。撮影所で制作した映画セットだったそうですが、ものすごい怪しくも暗い世界で、地元からあれほどじゃないよってクレームがついたそうです。
戦争直後は大岡川から南の都心部の大部分が、進駐軍に接収されてしまったので、この辺りから野毛、桜木町にかけてが替わりに大繁華街になったのだそうです。
繁華街といってもその頃は、物資統制時代ですから、ヤミ商品が取引されるヤミ市場が広がっていて、カストリ焼酎の立ち飲み屋台、青線はもとより怪しげな商売がはやり、怪しげな薬も取引されていたのですね。その雰囲気が映画によく描かれています。
●黄金町バザール さて、昔話はおいといて、今の話をしましょう。
ほら高架下になにやら格好よさそうな店があるでしょ。あそこに入りましょう。 そんなイメージの低い街をナントカしようと、2003年から地元の人たちが「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」、NPO「黄金町エリアマネジメントセンター」を作って、地域整備に立ち上がったのです。 2005年に警察の非合法飲食店の徹底的検挙で壊滅してから、イメージダウンしていたこの街を今後どうもって行くかということになりました。 そこに登場したのが「文化芸術のまち」に再生させる試みです。 地元住民や大学、横浜市などが共同で企画して「黄金町アートフェスティバル」、「黄金町バザール」を2008年に開催しました。 そのためにこの高架下には、この格好よい「黄金スタジオ」と「日ノ出スタジオ」を作ったのだそうです。 それから、ほら、そちのガラス張りで何かアトリエみたいに見える建物、あれも実はもとは 「ちょんの間」営業でした。今はアーティストが居ついて制作を続けているでしょうか。 アートイベントは毎年おこなわれるようになっていますが、あちこちに前衛芸術が登場して奇妙な雰囲気です。 猥雑だった街にアートって、考えようではアートも猥雑なものですから、まあよいでしょう。別の形で残照を受け継いでいくかも知れません。 若者たちが地元住民と一緒になってがんばっているようです。 さて、この活動が根付くでしょうか。その行く末が、わたしの散歩の楽しみでもあります。 では大岡川に沿って下りましょう。ご覧のように桜並木が両岸にあります。春はいい景色ですよ。 ◆黄金町については次を参照 「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」、NPO「黄金町エリアマネジメントセンター」
「黄金町バザール」http://www.koganecho.net/
おわりに
福富町界隈
戦後復興の街から風俗街へ
日の出町ー福富町ー吉田町ー都橋商店街ー野毛 ここが長者橋で、突き当りが京急日の出町駅です。この駅前から川ふちまでの一角で、市街地再開発事業の計画があって一昨年に都市計画決定もしたのに、まだ着工しませんね。景気のせいでしょうか。
先ほどからちょくちょく見ている戦後復興の防火建築帯の4階建て建物が、この再開発街区の中にもあります。この次にいらしたときは、この戦後復興残照の建物が、超高層ビルに生まれ変わって朝日に輝いているかもしれません。
●煉瓦蔵
では長者橋を渡って、ちょっとこっちによります。
ほらそこの駐車場の裏の塀の上を見てください。2階建て煉瓦蔵ですね。すごい立派ですが、こんなビル陰にひっそりと建っていて、なんでしょうねえ。
なんでも吉田さんてこのあたりの大地主の方のもちものとか。このあたりで吉田さんといえば、大変なものですね。だってこのあたり全部が吉田新田といって、幕末から海面を新田開発していった、いわばこの町をつくったお方ですね。
いまでも吉田町という地名があります。この蔵は戦前の繁栄の残照でしょうね。
●福富町防火建築帯
ではまた大岡川沿いに下って宮川橋まで、ここで右に行きましょう。
このあたりが風俗街で有名な福富町です。韓国・朝鮮系のお店も多いですね。いまはそうですが、昔は普通の商店街とか問屋街だったそうです。いつごろから風俗街になったのでしょうか。 見ていただきたいのは、この街並みなのです。ほら、端から端まで全部4階建てで、しかも街区ごとにまとまって共同建築です。まさにまちづくりそのものです。 そう、ここも戦後復興の防火建築帯です。その戦後復興の模範とも言うべき有名な建物群で、保存したいくらいの街です。 これまで何度も話にだしたので、ここで防火建築帯のことを話しておきましょう。 1952年に耐火建築促進法ができて、戦後復興は燃えない町をつくろうということになりました。横浜では都心部が接収されていましたが、それが1950年頃から順次に返還されてきました。 そこに勝手に建物を建てるのじゃなくて、耐火建築促進法を使って燃えないきれいな街並みを作ろうということになったのです。 この法律にもとづいて幅が8m以上の道路沿いは防火建築帯として、高さが3階以上の(増築予定2階建ても可)不燃建築にしなければならないと決めました。そしてその建て物を建てるなら、公的助成金を支給し低利融資も斡旋することにしました。 その推進役として県住宅公社や市建築助成公社が、地主や民間企業と協力したのです。そうやって1950年代から60年代にかけて横浜都心部の街並みを復興して行ったのです。 福富町は1956年11月に返還されました。そのまえから地主さんたちは、共同ビルで復興しようと話し合いしていたのでしょうね、翌年の11月にはこれらのビルができたのです。 敷地はそれぞれ持っていて、境界線上の壁と柱を共有している共同建築ですから、 お互いに協調して立てる必要があります。 そこで建築基準法にある建築協定という制度をつかいました。横浜市では初めてで、全国でも2番目という例です。 全国各地で防火建築帯は建設されましたが、ここほどきちんとした街並みなっているところは珍しいといえます。 あのころの横浜商人たちの復興にかける意気込みが見えます。 ちょっと裏通りも見ましょうか、防火建築帯の建物の裏側を見ると、生活観があふれ出ていてちょっとすごいですよ。風俗街の裏通りってのもなかなかなものです。戦後復興の残照をしっかりと鑑賞できますね。 ●伊勢佐木モール 今日はB級探検ですから、A級の伊勢佐木モールは行かないつもりでしたが、最近はこのモールもB級化する傾向があるので、通ってみましょう。伊勢佐木町は戦前は賑町といわれたくらい繁華街でしたが、戦後は都心が進駐軍に接収され、主な店も接収されたのでどうにも駄目になったようです。1955年にほぼ接収解除されてからが横浜の戦後でした。だから他の戦災都市より10年復興が遅れたのでした。 そして防火建築帯で街並みをつくっていきます。今もその当時1950年代から60年代にかけての建物があちこちに健在ですよ。 伊勢佐木町が伊勢佐木モールとして、 アーケードを取っ払い、歩行者専用にしたのが1978年、このころからが横浜いちばんの繁華街だったようです。それが横浜駅周辺にしだいに客をとられていくのですね。 この数年、ユニクロとか靴のナントカって安売り店、ゲームセンター、パチンコ、チェーン店、コンビニエンスストア、回転寿司などが増えています。 B級の極め付きは、場外馬券売り場ですね。松坂屋百貨店西館が閉店したときにやってきました。この馬券売り場の建物は、はじめは松屋、次に野澤屋、更に松坂屋と なりましたがずっと百貨店でした。 東京の銀座にある松屋百貨店は、 実は横浜が発祥地なのです。野澤屋は地元百貨店として栄えたのですが、松坂屋に吸収されて消えましたね。建物だけはギャンブル場として生き残って、残照を見せています。 先ほど寿町の舟券、この馬券、そして桜木町駅前には競輪の車券売り場がありますから、「関外ギャンブルタウン計画」ってのがあったとしたら、完成しましたね。 こちらのゲーム・パチンコビルは、3年ほど前まではカレーミュージアムをやっていましたね。まあ、B級グルメですね。 。
●不二家と松坂屋
あ、こっちの建物が不二家です。アントニン・レーモンドという建築家の設計で、1938年に建っ この不二家も野澤屋も、戦争直後から進駐軍に接収されて米軍専用の店舗やレストランになり、ようやく1955年に返還されました。
老舗は次第に姿を消しつつあり、決定打は2009年の松坂屋百貨店の閉店です。この建物は野澤屋だったが松坂屋に代わり、いまやその残照の輝きも消えようとしています。さてどうするのでしょうねえ。 老舗の有隣堂書店ががんばっているのがうれしいですね。
●吉田町防火建築帯
ここも防火建築帯が4棟並んでいます。なかなかにメンテナンスも良いようです。この通りは楽器屋さんと画廊があってジャズと絵画の街として売り出しています。ほら、ジャズが流れていますでしょ。
これまであちこちでご案内した防火建築帯は、横浜の復興に賭けた地域の人々の努力の結晶なのですね。
確かに老朽化しましたが、その当時の人たちの努力をなんの評価もしないで、単にボロビルだからと建て直されていくのが寂しいですね。
●都橋商店街は川の上
ではまた大岡川をわたります。この橋は都橋といいます。
都橋のたもとから隣の宮川橋のたもとまで、川に沿って湾曲した2階建て建物があります。 見てください、川の上にせり出していて、堤防の上に建っています。1階は道路に面して商売、2階は川の上の廊下に向って戸口がある飲食店街です。 これは都橋商店街といって、普通の土地じゃなくてなんとまあ川と道の上に建っているのです。ちょっと超法規的な措置で建ったらしいのです。 1964年に東京オリンピックがありました。野毛地区には闇市時代の延長で、道路の上でたくさんの露天商が商売をしていました。 オリンピックで外国人が来るとどうも恥かしいし、交通の邪魔だってことで、立ち退きをさせることにしました。 ただ立ち退けってのも難しかったようで、どこかに代替の土地でも用意したいがみつからない。そこに知恵者がいたのでしょうか、この半分は川で半分は道路の上の細長い場所を確保して建物を作って収容しちまえって、ここに移らせたのでしょう。 道路や河川に私有の建築を建てられないのが原則ですから、横浜市建築助成公社が占有許可をとって建設し、これを地元の商業協同組合に貸しつけ、組合は組合員に転貸するって仕組みだそうです。 ![]() 東京オリンピックの残照です。 こんな超法規的なものでは、上野の西郷さんの銅像の下、つまり公園の下のレストラン、商店ビルがそうです。あれは戦後復興の土地区画整理事業で、東京都に石川栄耀という知恵者がいました。 ●野毛大道芸
さあ、もうここからは野毛の飲食店街です。戦後の闇市がこのような形で今の繁栄になっています。
毎年、春には大道芸大会の催しが街一杯に広がって、楽しいですよ。わたしは60年ぶりくらいで、蝦蟇の油売りに出会って感激しました。昔は怪しげな薬を本当に売っていましたが、今は見世物なんですね。
以前は野毛も伊勢佐木町も吉田町も、同じ日に大道芸やらジャズやらの野外イベントをやっていましたが、最近は大賀川のこっちと向うで別の日になりましたね。分裂したのかしら、それとも別の日にしてイベントを長引かせるほうがよいと判断なのかしら。
そこにあった有名なジャズ喫茶「ちぐさ」は、共同住宅に建て換わってなくなりましたね。
あそこに、「横浜賑わい座」という寄席が再開発ビルにできています。月の前半は落語など演芸をやっていますからおいでください。
ではこれで横浜B級観光似非ガイドのお役目は終わりでございます。B級の意味がお分かりになったでしょうか。
関内地区が、日本の開国からはじまる戦前時代の栄光の横浜の雰囲気を伝えているようですね。
ということで、横浜の戦後復興の残照を、じっくりと味わっていただけましたでしょうか。
さて、わたしは飲み屋、食い物屋のことはよく知らないので、今日の仕上げのB級グルメ宴会は、どなたかよろしくお願いいたします。
え、鯨料理、とんかつ茶漬けですって、おお、いかにもB級にふさわしいですね、行きましょう行きましょう。そういえば、野毛では鯨を美味い名物にしようって動きがあるとか、。
後は飲むだけ、もうひといきです。あ、お帰りの方は、そこをずっと行ったところが地下鉄とJRの桜木町駅です。お気をつけて。(2010.04.30)
◆B級観光の勧め
横浜の都心である関外に住みだしたのは2002年からである。
それまでは鎌倉の緑深い谷戸の中に住んでいた。しかし、年とると空気が良いとか緑が多いとかよりも、買い物や病院に便利、飲み屋に便利なほうがよくなる。 そんなことで横浜都心に引っ越した。 住みだしてから、ご近所探検と称して、うろうろとあたりを徘徊老人よろしくうろつくうちに、いろいろと発見をしている。 横浜の都市観光の宣伝場所は、山下町や山手などの近代史にまつわるあたりと、ちかごろは新開発のみなとみらい21地区あたりで、なかなか格好の良い写真で紹介される。 よそ目にはそれでよいのだろうが、その近くに住む身になってみると、別の視点が出てくる。 よそから大勢の人がやってくる非日常の観光ではなくて、日常性の中にある観光もあるように思っている。有名観光地に行って、有名な場所の裏あたりをぶらぶら歩くと、生活が溢れていてその日常性がよそ目には面白いということが多々ある。 横浜都心でも関内がA級観光地ならば、関外にはよそからの観光客には面白くもないが、実は住んでいるものだけに分かる日常性に面白い発見があるのだ。 ◆横浜B級観光情報源 ・さなぎ食堂」
・横浜ホステルビレッジ
・B級横浜観光で見たこと
・関内地区戦後まちづくり史
・常盤とよ子の話
・桂歌丸の話
・横浜橋商店街
・ジャックアンドベティ
・初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会、NPO黄金町エリアマネジメントセンター
・黄金町バザール
・横浜賑わい座
・とんかつ茶漬けの店
・横浜あれこれ「横浜ご近所探検隊が行く」
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