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昨冬も豪雪と思ったが、ことしはそれどころではない。
人の背丈の倍以上も積っていて、毎日除雪するから道の両側に盛り上がって、まるで絶壁の峡谷の中を行くようになっている。
上と同じところの夏の風景家から道に出るには、この絶壁を掘り崩すかトンネルをつくらなければならない。
峠から集落を見下ろせば、どこもかしこも神々しいほどに真っ白で、この下に人間の営みがあるのだろうかと、疑いたくなるほどだ。 わたしの仲間が拠点とている民家も、すっぽりと雪の中だ。道路は公共で除雪するが、自分の敷地内は自分で毎日毎日除雪しなければならないが、週末住民住民ではそれも不可能で、雪はどんどんと屋根にも庭にも降り積んで、屋根と庭の雪がつながってしまっている。 屋根の雪おろしをしないと、軒が垂れ下がって折れてしまう。現実に昨冬の雪で、物置小屋の軒が折れてしまった。 今年は2月はじめ現在、一部の屋根が抜けたし、部屋の建具が動きにくくなっている。柱が曲ったり梁がだれているのだろう。一部水道が凍結したままで台所の水が出ない。
大学時代に山岳部で深い雪山に行って合宿をしたけれど、それは遊びであって、雪国育ちでないわたしは、毎日を雪の中で暮すことを想像もできなかった。
この集落に来るようになってはじめて知った雪国暮らしのいろいろな智恵に教えられると同時に、冬の生活の厳しさに驚嘆している。 春から秋にかけては、風景といい、気候といい、食べ物といい、そして集落の人たちといい、わたしは大好きである。 それにしても大昔からこのような厳しい気候のところに人が住むということが、いまだに理解できないのが本音である。 おじゃんち冬景色
雪の季節は毎日のように朝から除雪しないと、外にでられないどころか家がつぶれる惧れさえもある。中越大震災から6年半だが、そのときから空き家が増えて、雪下ろしをしないから次第に傾いてやがてつぶれる。つぶれた家、つぶれかけている家をいくつか見てきている。
集落は坂道ばかりだから、外で車の運転も歩くのも怖い。高齢になると外に出ることができなくなる。冬季は市街地で暮し、春から秋にかけて集落暮らしの人たちもいる。 棚田の美味い米は付加価値があるから、けっこう高く売れるのだが、後継者がいない。集落人口は震災前は120人がいて全員が避難したが、復旧して戻ってきたのは80人、その後は出て行く人、亡くなった人はいても入ってくる人はいないから、毎年ひとりふたりと減るばかりである。 50年前の最盛期には600人もいたのであったことを思うと、大きな時代の変化を感じる。 わたしはそれを嘆くことではないと思っている。人間が年取り、日本全体の人口が減少し、社会も成熟した時代になり、ここだけが人口が増えることがあろうはずはない。 農業食糧政策はグローバル時代に難しいことになりそうだが、農村政策は単に振興政策ばかりでは高齢化していく農民に対応することはできない。 高齢を見越してハッピーに農業からリタイアできる政策がもとめられていると思うのだが、現地にみてもそれがないようだ。 団塊世代のリタイア層を呼び込んで農業の振興を図ろうとする政策はあるが、棚田で豪雪の地を選ぶものはかなりの物好きと言うほかはない。農業政策の全般についての知識はまったくないが、農業に突くとしても、彼等は他の条件の良い農村農地を選ぶに違いない。 現地を見ると次第に耕作放棄される田畑が茅や草の覆われてきている。それらをそのままにしておいても豊かな日本の自然はやがて森林になっていく。そこに、できるならば森林と人間のあり方を考えて、放棄田畑の利用方法と自然に戻す不利用方法について、土地のあり方のマスタープランがいるような気がする。 ここで不利用方法と書いたように、かつては土地は利用するものとしてマスタープランを描いたが、これからは自然に戻して利用しない土地政策もいる時代である。 豪雪の集落を現実に見てきて、さらにこのところ豪雪による被害のニュースを見聞きすると、撤退の地域政策も今は必要になっていると、つくづく思うのである。 ●参照→368大雪の賽の神とお茶会 おじゃんち冬景色
真冬の火の見櫓
コウゴさんの家
斉さんの家
ツヨシさんの家 写真はすべて伊達美徳撮影
エッセイ 雪の山村にて 伊達美徳
今日も雪が降っているが、今は小止みになっている。広場の雪の上に、煙と炎と灰が舞い上がった。今しも稲藁で作った高い塔に、しきたりにより年男が点火したのだ。 今年は豪雪らしい。この棚田の集落は山の上だから、背丈以上にも雪が積った。どこもかしこも神々しいほどに真っ白な風景で、点在する大きな家の屋根と防風林の木立が、少しだけ黒くも灰色にも輪郭を見せているが、煙がそれさえも隠すように流れ広がる。 今日は小正月、中越のこのあたりでは賽の神という年中行事である。藁の塔にぶら下げた旧年の神札や注連縄などを焚き上げる。
老若男女四十人ほどが取り囲んで、半分くらいは集落民、半分くらいが今日の行事に雪の急坂を登ってやって来た来訪者である。 まずは集落総代の音頭で、大震災から七回目の無事に迎えた正月を祝って紙コップの冷酒で乾杯、次いで最長老のショウタさんの音頭で祝い歌の天神囃子が始まり、みんなの歌声がゆったりと雪の上を這う。 ショウタさんは九十二歳、血色良い顔でぴんと腰を伸ばしてお神酒のコップを掲げ、通る声をはりあげる。彼は大きな茅葺の家にひとりで暮している。いつも陽気でちょっとスケベで屈託なく、出かけるのも大好きだ。
二〇〇四年十月の中越大地震でこの集落が大揺れしたとき、ショウタさんは裸足で庭に飛び出して突っ立ち、家が左右に大揺れしつつまた元に戻るのを見ていたら、池の水が大波になって芝生に跳ね出してきたそうだ。 かくしゃくとして、息子さんと米つくりをしている。去年のある日、農作業の休憩時に一緒に話していて、太平洋戦争で悪名高いインパール作戦の数少ない生き残りという。 わたしは父親の遺品の戦争日記の解読作業をしていたので興味が湧いて、彼の家に上がりこんでその悲惨な戦場の話を三回延べ七時間も聴かせてもらった。 ショウタさんのどこか楽天的な言動の底には、実は大量の死者を見た者の諦観が潜んでいるらしい。新潟弁そのままに記録して冊子にしてさし上げたら喜ばれた。了解を得てこのオーラルヒストリーを仲間に読ませた。 神社に日露戦争犠牲者の慰霊碑があり、仏壇の上に太平洋戦争の死者の写真をかかげている家も多く、戦争の陰はここにもある。 戦場経験者は今ではショウタさんだけになったが、これを契機に長老達に集落の昔を今のうちに聞いて記録しておきたいと思うようになった。次は誰の話を聴こうか。 この五年つづけて賽の神に来ているが、今年は去年よりも参加者が少ない。陽気で物知りで人気者だったタヨさんが昨暮に急に逝って、恋女房を失ったコウタさんも喪中だから来ない。介護中の父親を連れてふもとの町に引っ越したタカオさんも見えない。わたしたちが米つくりを手伝った長老のカツジさんは、去年からまだ臥せっているそうだ。
住民七十人ちょっと、六割が六十歳以上の超高齢集落だから、毎年のように一人や二人が減るだけでも目立つのだ。 中越地震では道路や家が大きく壊れ傾いて、全員がふもとの町に避難した。二年近くたってどうやら復旧して避難先から戻ってきたときは、震災前の約七割の四十戸、八十人になっていた。五十年前は六百人近く、百四十年前は三百六十五人もいた記録があるのに。 急な坂道を登って山の尾根筋の手前のゆるやかな斜面地に、隠れ里のように森と棚田と茅葺民家の集落がひっそりと広がる。ふもとの町へも隣の集落へも四キロ、鉄道駅のある市街地までは二十キロ、医院も店舗も無い。
わたしがこの山村集落に頻繁に通うようになったのは、震災の次の年から仕事仲間の十数人とともに、震災復興ボランティアを始めたからだ。復旧工事の力仕事は無理だが、その後の復興は何か手伝うことができそうだと、役所や地元と調整して応援に来だした。 それから今日まで五年半、放棄された棚田を再生して米つくり、低調になってきた年中行事の盛り上げ、新しい行事で元気づけ、震災で傾いたまま使う家の耐震調査、花いっぱい運動、インターネット普及研修、米と野菜の直売、農産加工品の開発、案内看板や標識の設置、街の人たちとの交流イベント、集落の共同作業への参加など、何が復興支援になるのか集落民と共同して考えつつ、できることを模索しつつやってきた。 はじめはうさんくさくも思われたようだが、毎週末に仲間の誰かが必ずやって来たし、空き家を買い取って活動拠点としたので、今では半集落民とみなされている。 空き家は震災で増えたが、その後も入ってくる人はいないから増えるばかりだ。昔は四メートル以上、最近でも二~三メートルは積る豪雪地帯である。重い雪を積るままにしておくと、屋根が壊れ家がつぶれる。昨冬は震災後の空き家が一軒ぺしゃんこになった。
道路は雪の朝に集落設置の除雪ブルがまわるのだが、この冬は降り続く雪で、道路の両脇には除けて積みあがった雪の絶壁が立っている。家にはその絶壁を掘り割って入る。 冬は家の屋根や庭の除雪が日常仕事だが、私たちのように週末除雪だと、ものすごい量の雪掻きならぬ雪掘りになって疲れ果てる。板で雪囲いした冬の家はいつも暗い。 わたしは雪国育ちでないので、あまりに異なる豪雪の風土に興奮して冬も歩きまわるが、足をとられ転んだりして、歳だから骨折が怖い。坂道で車運転はもっと怖い。 集落民の冬の生活は、毎日雪掘り仕事があるから出かけられないだろうし、大きな家の高い天井の居間でテレビを見ながら過ごすしかない。冬だけ町暮らしの人たちもいる。 スキーや登山で雪山でたまに遊ぶのと、雪の中の毎日の生活とは大違いである。 冬は大変だが、春から秋は楽しい。
斜面地を階段状に切って作った宅地と棚田、それらをつなぐ坂ばかりの道、針葉樹と広葉樹が混じる森、点在する茅葺屋根民家群が、ほどよい間隔とつながりで広がる。 わたしたちの家の広い庭には、栽培もしないのに季節に応じて出てくるタケノコ、ミョウガ、ウド、ゼンマイ、キノコが食卓を彩り、ユキワリソウ、ミズバショウ、スイセン、ツツジの花が咲く。 水を張った春の棚田はパッチワークの鏡となって茅葺の森と空を写し並べる。ウグイス、カッコウ、ホトトギスの鳴声がいつも流れていて、夏の庭の闇には蛍が光の尾を引く。 秋は森のブナの黄葉と杉の緑がハーモニーを奏で、真っ赤な紅葉をちりばめ、稲穂が黄金のじゅうたんを棚田の雛壇に敷きつめる。 棚田のコシヒカリは、豪雪が沁み込んだ土中からの湧水で育ち、実に美味い。これが高く売れて集落の豊かさの源である。 賽の神で燃やす藁は、朝早く各家から持ち寄ってきた。今は藁加工品は荒縄と注連縄くらいで稲藁はほとんど不要なのだが、今日のためにわざわざ稲刈りのときから保存しておいたものだ。
昔は莚、蓑、袋物、菰、草履、雪沓など必需品を稲藁で作ったが、もう誰も使わずどの家でも屋根裏で埃をかぶっている。ある日、わたしはそれらを身につけて鏡を見ると、知らないのに懐かしさがあった。 わたしたちの家からも、たくさんの稲藁束を橇で運んできた。これは農業継続が難しくなった集落民から相談されて、替わってその棚田で米つくりをしたからである。 はじめは棚田二枚だったが、今では五枚十アールに増えて、ちょっとした百姓である。どうせなら無農薬、有機肥料、手植え、手刈り、天日干しでやることにしたら、除草剤の入らない棚田は雑草がびっしり生い茂った。 田植えや草取りでわが棚田に入り、森からの鳥の声を耳にしつつ働くのは、ちょっと風流なものだが、実は雑草取りは大変な作業である。週末に泥田で四つんばいで這い回って腰を痛めつつきれいに抜き取っても、次の週末に来てみると元の緑のじゅうたん敷きだ。 ところがお隣の棚田には、草などまったく見えず、稲だけが風にそよいでいる。除草剤入りの田圃はまさに米作工場である。自然の多様性の真反対の現象を作る農薬の威力に驚きつつ怖くもなった。 一方、その農薬と農耕機の普及で少数の高齢者だけでも農業が可能になったと知った。それでも高齢化や病気で、放棄田畑は増えて茅が生い茂る。 わたしたちで米つくりをもうすこしがんばるかと、遂に田植え機やコンバインなどを手に入れた。さてどれだけ広げられるだろうか。 一昨年、夕陽を美しく眺める空き地に、小さな茅葺屋根の小屋を建てて、足湯を作った。そばに作った炭焼き窯で湧き水を熱する。
集落民の茅葺職人を仕事の親方に頼み、放棄田に生えた茅を前年に刈ることから始め、わたしたちで設計から施工まで二年がかりの汗と埃の共同作業であった。やってみて、茅、藁、竹、杉皮など地元産の自然素材を生かす巧みな技に驚嘆した。 集落の家はほとんどが茅葺屋根だが、維持が大変なので今ではその上に鉄板をかぶせている。この足湯小屋が集落で唯一の茅が見える屋根の建物となった。 ここで農作業の疲れを癒し、来訪客をもてなしている。楽しい行事や遊び休む施設があれば、孫をつれた里帰り家族がやってくる。孫がやって来ると集落の高齢者たちも嬉しい。 今日は孫世代の幼児や少年たちが火の回りを走りまわり、いつもは聞かない甲高い子供のはしゃぐ声が雪の森に響いている。 二十五年前に閉校するまで集落の真ん中に小学校があって、いつも子供の声が聞こえていた。 太平洋戦争の終戦直後には百五人と最も多かった生徒数は、閉校のときは四人であった。子供の行事もあったのだが絶えてしまった。賽の神の会場はその運動場だったところだ。 藁の塔の竹の心棒が途中から折れて倒れ、塔も崩れてきた。雪が激しい。藁は燃え尽きようとして、このへんで賽の神はお開きである。みんな広場を出て行っている。
来年の賽の神には、子や孫の世代の家族がまた遊びに来るだろう。だが、ここに戻り住んで農業をすることはなさそうだ。 わたしたちも来年正月に来るだろう。だが、わたしたちはいつまで何ができるだろうか、わたし自身はいつまで来ることができるだろうか、この集落はいつまで保つだろうか。 吹雪になった。わずかに黒く見えていた森も茅葺の大屋根も真っ白な闇に消えた。完 |










