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履歴:鎌仲ひとみ講演

市民社会フォーラム共同企画
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「六ヶ所村ラプソディー」「ヒバクシャ」上映&鎌仲ひとみ監督講演会

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開催日 06年6月3日(土)・4日(日)
会場 こうべまちづくり会館(神戸市・元町)
 
【初日(6/3)】 「六ヶ所村ラプソディー」&鎌仲ひとみ監督講演会
 1回目上映・講演 14:00~17:10
 2回目上映・講演 17:40~20:40 
【2日目(6/4)】「ヒバクシャ」上映&鎌仲ひとみ監督講演会
 1回目上映・講演 10:10~13:10
 2回目上映・講演 13:40~16:40

主催「六ヶ所村ラプソディー」「ヒバクシャ」上映&鎌仲ひとみ監督講演・神戸実行委員会
【参加団体】(4/29現在 50音順)



「六ヶ所村ラプソディー」&鎌仲ひとみ監督講演会 抄録
 私はこれまで、核や放射能といった問題は扱ってきませんでした。前作の「ヒバクシャ」を撮る
きっかけとなったのが、98年イラクに抗ガン剤を運んでいる女性と出会ったことからです。その
ときは、まだ映画をつくろうとしたのではなく、NHK番組の取材として、イラクを取材しました。イ
ラクでは白血病などはもちろんのこと、経済制裁のために医療は壊滅的な状態でした。WHO
によると「60万人の子どもが経済制裁が原因で死亡した」と発表しました。しかし、日本のメディ
アはそうしたことに触れず、大量破壊兵器やフセインの独裁政権ばかりがくり返し報道してい
ました。
 帰国後、私がつくった映像は、NHKから「アメリカの見解とあまりにもちがう」「反米的で放送
できない」というようなことを言われました。仕方がないので、いろいろと妥協しながら、なんとか
医療の現状と劣化ウラン弾についてだけは放送できたと思っています。しかし、一番大事なも
のをマスメディアでは伝えられませんでした。その思いから「ヒバクシャ」を制作しました。
 イラクに行く前、「劣化ウラン弾などの放射能兵器を使うアメリカやイギリス政府が悪い」と思
っていたんです。劣化ウラン弾の原料はアメリカの濃縮ウラン工場のゴミです。日本は54基も
の原発を保有していて、その燃料となる多くの使用済核燃料をアメリカから輸入しています。日
本の原発や私たちにも加害性があることがわかりました。劣化ウラン弾が撃ち込まれると、大
地は汚染され、その場から逃れられない人間を蝕みます。「原発は核の平和利用」と言いなが
ら、そのゴミから産まれた劣化ウラン弾が、91年の湾岸戦争に300トン、03年からのイラク戦争
に2000トンも撃ち込まれました。取り返しがつかないことです。
 そして、劣化ウラン弾とはちがったかたちで再利用されるゴミ、使用済み核燃料(濃縮ウラ
ン)の行き先が六ヶ所村です。日本の原発から出された使用済み核燃料のほとんどが六ヶ所
村に運ばれます。使用済み核燃料とは、原発で燃やされた濃縮ウランのことで、燃やされたこ
とで放射能毒性は1億倍にもなります。とてつもなく毒性の強い使用済み核燃料を扱う再処理
工場では、原発から出される1年分の放射能を一日で出してしまうと言われています。

■金と権力潰された声

 しかし、六ヶ所村の村の人から「村は工場と共存共栄していく」という声を聞きます。なぜ村の
人たちは反対しないのか。私は「反核」や「反原発」といったテーマを掲げて取材するのではな
く、再処理工場の推進派も反対派もどちらの声も映像にしようと、取材を始めました。
 六ヶ所村で再処理工場に反対しているのは村民1万2000人中、映画に登場する菊川さんを
はじめ数名です。もちろん、最初から六ヶ所村の人たちが反対していなかったわけではありま
せん。これまでの経過やいかに独裁的なやり方で反対の声が押しつぶされたかは『六ヶ所村
の記録』(鎌田慧著/1991年刊)に描かれています。しかし、そのことを村の人はまったく語っ
てくれません。それどころか、推進派の多くの人は、「再処理工場との共存共栄」という自分た
ちの主張さえ話してくれませんでした。
 取材を続けて、どうやって反対の声が潰されたのかがわかってきました。当時、もっとも反対
していたのが漁師さんたちです。いま六ヶ所村で漁師をしているのは、網元、つまり船を持って
いるだけです。漁の機械化が進んだことで、人手があまり、多くの漁師さんがクビになってしま
いました。その地域で、唯一と言ってもいい働き場が再処理工場の建設現場です。しかし、そ
こで働くためには、これまでの「反対」の声を撤回して「自分がまちがっていた」とわびを入れ
て、職を得るしかありませんでした。
 当時、六ヶ所村では大量の現金が有力者たちを中心に出まわったと聞きます。残念ながら、
証拠はありません。反対派の元区長の話からもそれはあきらかです。元区長によると、当時、
反対派の家には電力会社の人が毎日毎日やってきて説得し、そのうち説明会が開かれたそう
です。その説明会に行くと、パンフレットのなかに現金5万円が入っていました。説明会は4回シ
リーズで、誰でも参加すれば計20万円がもらえます。1980年代の六ヶ所村は、現金収入が少
ない地域でした。まだ物々交換なども可能で、現金収入があまりなくてもそれなりに暮らせても
いけました。しかし、借金を抱えていたり、病人や幼い子どもがいて、苦しい生活を強いられて
いる人も大勢いたそうです。そうした状況での20万円は大金です。そして、それを握った途端、
反対していた人は何も言えなくなってしまう。大勢の人がお金を受け取りました。すると今度
は、逆に村民が反対派に対して「頑固者」とか「国策に逆らう非国民」と言ってくる。反対派は肩
身の狭い思いをさせられています。
 六ヶ所村の推進派も、危険な仕事をしたいとは思っていません。しかし、権力と大手企業が
持ってきたのは、世界的にもほとんどの地域が受け入れない再処理工場です。誰にとっても生
活は大事です。再処理工場を支えなければいけないのは、生活があるからです。菊川さんの
ように信念に従って反対できる人もいます。でも、誰も彼もそんなことができるわけじゃない。そ
の人間の弱さ、個人の弱さを責めてもしょうがない。六ヶ所村が特別な地域だったとも思いま
せん。どの村でも同じような状況は考えられます。じゃあ、どうしたらいいのか。私たちはまだ、
なす術を見いだせていないような気がします。
 また現在、六ヶ所村には新しい工場建設の計画が立ち上がっています。再処理工場はプル
トニウムをつくる工場ですが、プルトニウムを使う原発が日本にはありません。高速増殖原型
炉もんじゅ(福井県)がそのタイプに当たりますが、95年の事故で中断されています。そこで濃
縮ウランにプルトニウムを混ぜ込んで、これまでの原発で使おうというのが「プルサーマル計
画」です。ただし、このプルトニウム混合燃料は、これまでの燃料と比べて、とくにメリットはない
んです。国際的な政情から、何トンものプルトニウムを保持することが問題だから、使おうとし
ているだけです。その濃縮ウランとプルトニウムを混ぜる施設が新しい工場計画です。
 何兆円もかけて再処理工場を建て、放射能をまき散らし、現段階ではつくっても意味のない
プルトニウムをつくり続けているわけです。
 マスメディアは、こうした状況をまったく報道をしません。私が劣化ウラン弾のドキュメンタリー
をつくった際も「おまえはサダムフセインの回し者か」と言われました。なぜ、マスメディアは報
道しないのか、それはマスメディアにも電力会社と日本原燃のお金が染み渡っているからで
す。だから私たちが本当に知るべきことが知らされない。それをささやかにでも伝えようとつくっ
たのが「六ヶ所村ラプソディー」です。
 いろんな人に見ていただき、再処理工場と「共存」しなければならない村民の切なさ、声を押
しつぶされた悲しさにも共感してもらえれば、と思っています。(抄録)
 
 

「六ヶ所村ラプソディー」「ヒバクシャ」にみる鎌仲氏の戦略
松尾教史

 「六ヶ所村ラプソディー」は、原発のごみである、放射性廃棄物の再処理施設建設にゆれる
青森県六ヶ所村に鎌仲さんが入って、原発を推進する科学者、原発の幹部、原発で働く労働
者、地元住民(それも、反対する人、賛成する人、傍観する人様々)などへのインタビューでつ
づったドキュメンタリーである。
 さらには、再処理施設を請け負っているイギリスなどでの取材なども行われている。 
 ここでは、六ヶ所村で、花畑を経営しながら、反原発の活動をつづける菊川さんという女性が
一つの核になっている。僕が共感したのは、菊川さんの運動のやり方と、それを追いかける鎌
仲監督の視点だ。 
 菊川さんの活動は、長く、持続的に運動がつづけられるような形を模索している。彼女は、自
分の花畑をきっちりと守りながら、運動は、楽しそうに(本当は様々な思いがあるのだろうが)、
市民に語りかける。 
 彼女は仲間の運動家と語り合う。論点としては、市民の中には、経済効果とか、国の発展と
かいう論理があって、なかなか自分たちの主張が入っていかない、というものだ。菊川さんは、
それに対して、このままでは、将来の世代が暮らしていけなくなってしまってはいけないのだ、と
いう。 
 むろん、施設が作られてしまったら、まさに住民は危険、そして死と隣り合わせになるし、未
来のこの地域も展望はなくなってしまう。彼女は、現在と未来を統一的に見つめて市民にはた
らきかけようとするのだ。 
 もう一つのポイントは、鎌仲氏の姿勢だ。彼女は自分自身でもおっしゃっていたが、反対派の
みの映画はつくらないということだ。原発に賛成する人々にも、その人たちの人生がある。そし
てその人たちの経済的な事情などがある。また原発でもうけている人にも、その人たちの自負
はある。原発が社会の役に立ってきたという誇りとかもある。 
 そういう人たちの中にも入っていって、再処理施設の建設を取り巻く、様々な人の心、状況の
変化、そして人々の心の変化などを立体的に把握することができるし、私たち自身も、この問
題に対して、深く、そして多面的に知ることができるのだと思う。また、運動する側にもこの映画
は教訓を与えているのではないかと思う。「賛成派をないがしろにする運動は成り立たない」
と。 
 ヒロシマ、ナガサキに生きる被爆者を追った「ヒバクシャ」も、上記のような鎌仲氏の映画の
作り方、視点がにじみ出ている。 
 なかなか衝撃的だったのは、アメリカのある地区で(ちょっと名前は忘れましたが)核兵器が
国を守っているのだという認識が広く住民にも広がっているのだ、ということです。また、ある飲
食店のメニューにならぶ商品名が「プルトニウム」とかだったりするのにもびっくり(ビールとか
の名前なんですよ!)。また、その店の店員が「本物(のプルトニウム)は入ってないですよ」な
んて軽口をたたいている。 
 また、そこで反核運動をしている人が、戦後アメリカが被爆者の被害調査、研究をしていた
(治療はしていない)ABCCの実態をほとんど知らないで運動していたのにもちょっと驚いた。
やっぱりほとんどアメリカ政府は伝えてないんだな・・・。 
 また、かなりおもしろかったのは、原子力産業に携わっている研究者が、自分の行っている
ことに、ものすごい誇りをもっていることを話していたことだ。「六ヶ所村ラプソディー」にも、日本
の原発賛成の学者が出てきたが、日本の学者のほうは、単に安全性を訴えるだけだが、こっ
ちは自らの絶大なる誇りを表明している。 
 これに対しても、冷静沈着に鎌仲氏はインタビューしている。それに対して、その学者の必死
さ。このコントラストがおもしろい! 
   鎌仲氏は、原発とか核兵器とかに賛成している企業とか、その幹部にたいして「賛成して
いるなら、なぜそうなのか、賛成している側の誇りとかもあるはずなのだから、きっちり映画に
出て、こたえてほしい」と、言っているらしい。 
 それで、断るならば、かえってその人はやましいことをしていると思われるわけだ。 
 しかも、彼女の映画のすごいのは、反対、賛成両方がでているからといって「両論併記」には
なっていないことだ。なぜか? 
 まず、賛成する人の中にも、生活苦のために、金で心がおれてしまった、とか、既成事実に
負けて、絶望したとか、構造的に賛成に追い込まれている人がいる。そういう人の姿を真摯に
追いかけている。また、確信犯的に核兵器や原発を維持しようとしている人間の誇りとか、論
理とかを、反対派や構造的な賛成派との関係で映し出すことで、見ている者が、彼ら自身の論
理や誇りの「質」を、社会構造の中で、把握することができるようになっているからだ。 
 彼女は、様々な立場の人に対して、誰に対しても真摯にむきあうことで、起こっている問題の
背景、構造をむき出しのものにさせている。そして同時に、構造的に賛成に追い込まれた人た
ち(この映画を見ている人も含めて)に、この社会の現在のあり方や未来について考えさせる
余地を与えている。 
  彼女の映画の取り方、インタビューの仕方から、彼女の問題意識、現実への姿勢、そして戦
略が読みとれる、極めて質の高い映画である。 

 
感想
「六ヶ所村ラプソディー」「ヒバクシャ」における鎌仲氏のポジション

 これら映画の中で鎌中氏は、どのようなポジションを占めているのか。 
 まず、ナレーション。これはフィクションの映画や小説や劇にたとえるならば、他の出演者を
動かす、神にも似た存在なのだろう。 
 そして、彼女は映画自体にも出演する。もちろんナレーションとは違う、一人の出演者として。
だけど、出演者としての鎌仲氏は、他の出演者とは違う。 
 彼女はすべての出演者の間をかけめぐり、彼らの、世界に対しての役割を明らかにする役
割を担っている。 
 そして、そこでは当然、彼らとの交渉がある。問題はその交渉の仕方なのだ。 
 責めることはまずしない。そして、必要以上に同情するわけではない。それは原発や核兵器
に構造的に賛成するものに対しても、反対するものに対しても、また積極的に賛成するものに
対しても。 
 かといって傍観しているわけでもない。 
 傍観しているのでもなく、賛成や反対を誰かと叫ぶわけでもない。ある意味、彼女は「孤独」
な存在といえなくもない。 
 ちょっと中條百合子の『貧しき人々の群れ』の「私」に似てなくもない。 
 「私」は確かに地主階級なのかもしれないけれど、かといって慈善事業に関わる他の地主階
級のご婦人方とも違う。だけど貧農でもない。そんなポジションの中で彼女は戸惑い続ける。 
 「私」は傍観しない。誰かに関わろうとしている。そして交渉をもつ。けれど、僕はどこかしら、
読んでいて「私」の「居心地の悪さ」とか「なじまなさ」を感じずにいられない。 
 映画の中の鎌仲氏も、そんな宙吊りのポジションにいるのではないだろうか。だからこそ、す
べての演者の間を交渉しながら歩き続けている。 
 だが、違うとするならば、『貧しき人々の群れ』の「私」は傍観者でいられない、という強い決意
のもと、その決意が彼女の行動を強く締め付ける形で、「私」の行動規範をつくっている。私
が、中條のこの作品を読んで、感動を覚えたり、胸をしめつけられるとしたら、それは彼女のポ
ジションを選び取ろうとする苦しい葛藤に対して、なのである。 
 しかし、それに対して鎌仲氏は、(監督としては、様々な思いが交錯し、怒りを感じているのだ
ろうが)、少なくともすべての出演者の間を歩く鎌仲氏は、決意が全面にでているのでなく、むし
ろ、飄々とした顔で出演者と交渉する。だから私が見た映画の中の鎌仲氏から、胸が締め付
けられる思いを感じ取ることはない。 
 そして、飄々と出演者の人生、立場、境遇を明かしていく。しかし、追いはぎのようないやらし
さ、残酷さは微塵も感じない。むしろ、その飄々とした振る舞いが、映画の中で社会の矛盾を
解き明かす原動力となり、そして、それぞれの立場で生きる人々の姿を、しっかりとつかむこと
につながっている。 
 また、飄々としているからこそ、彼女の作品からは言い知れない怒りや、恐怖を感じ取ること
ができるのである。 
(松尾教史)