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もうひとりのハンス      大視症、被監視、誰かがいる

 遍在する窃視に呼び出される、ということは、「私」というものを代表する「自由、孤独、思考」を剥奪され、被監視の状態になること、コレガオマエナンダゾという鏡像でしかなくなることである。「公」というものは、こうした監視された鏡像、「自由、孤独、思考」を剥奪される限りで正当なもの(正と不正の程度の勾配のどこかに位置するもの)となった鏡像である。従って、監視とズーム・アップの中心を占める、この「公」というものを第一人称すなわち「私」を以て語り出すことは、「自由、孤独、思考」とその剥奪とが二重になって葛藤することになる。「私」は縮小すると同時に拡大し、神託に於いては、「私」というものは遍在する窃視そのものである。
 猖獗を極める疫病の蔓延を惹き起こした、その犯人を捜すオイディプスの覗き穴が盗まれている限りで、オイディプスは被監視の状態になり、罰じるしを刻印されて捨て子として流された、その身体を模写する。自ら目を潰すことは、危機に於いて強迫的に出現するこの相同的な模写反復の標識であり、罰そのものではなく、「自由、孤独、思考」を剥奪された被監視の状態をなぞるのである。覗き穴の向こうに潜む悪意と陰謀は、流されたオイディプスに疚しさとなって潜伏している、自分ハ悪クナイ、という叫び(命令)が、良心の声、目に変じ、更には、展開して包囲する脅かしにすがたと大気を変えたものである。王としての身体が捨て子としての身体に不断に監視されているように、罰じるしのついた身体は駄目(境目)を身分が曖昧なままに彷徨いながら不断に監視されたがっている。これは、精神分析されたがっているのである。
 スフィンクスの出現は、そうした監視の相同的な模写反復(あるいは方解)のシリーズのひとつである。その問いかけは、一貫して何か不動なものがあるのではないか、と暗示するが、それは、人というよりは「私」というもの、「私」というものというよりは流された身体なのである。オイディプスは、危機の諸段階でそれを乗り越えたのではなく、変わっていく身分にこの流された身体を繰り返し複写、体現して来たのである。流された身体のシリーズの間に出現するものこそは、オイディプスの魂なのである。この魂が「自由、孤独、思考」の剥奪であることの、更には、流された身体を複写しないではいられないように駆り立てる力によって滅ぼされることの痙攣性は、神託が脅かしであると同時にすくいであることの戦慄と共振する。
 オイディプスの話は、父殺しや近親姦の禁止をそれと知らず破っていたものの話というよりは、流された(罰じるしのついた)身体と被監視の話である。犯人を捜す王が実は犯人であるという思いがけない逆転は、覗き穴が盗まれて窃視の能所が逆転することを通して、王としてのオイディプスが流された身体を思いがけなく複写するのであるが、それが思いがけないのは、オイディプスの覗き穴の獲得は、実は、監視するスフィンクスが消滅したのではなく、覗き穴の向こうの荒野そのものに膨れ上がって姿を晦ましていたからなのである。つまり、この潜伏は喉元まで上り詰めている予期であるからなのである。国土が疫病によって荒れ始めた時、すでにしてスフィンクスの息は洩れ始めている。オイディプスは退行し出すのであり、その徴候こそは、悪疫の流行が父殺しや近親姦の禁止を犯したものがいるからだという図式にあっさり説得されてしまうことなのである。オイディプスはもはや単なる流された身体というだけでなく、神経の衰弱体である。その失明の発作は、総掛かりで包囲する悪意と陰謀に暗示をかけられているのであるが、この盲目の衰弱体は、つけ狙い、行く先々で待ち伏せるスフィンクス(荒野)を遍在する窃視に変換し、「私」を以て物語り出すように(病を癒すのにその病を以てする同毒療法として)その幽霊性が変態するのである。
 ウェストウェスト伯爵領(「城」F・カフカ 以下引用は新潮文庫 )に測量師としてKは、「年の市で運勢占いのおみくじをカナリアを使って任意に引かせるのとおなじようないいかげんさで」呼び出されるのであるが、狡智をめぐらした意図に基づいて何もかもが配置され、割り当てられているように当局の注意がKに向けられ、知った人も隠れ場所もなく、所領にあってしかも境目を身分が曖昧なままに彷徨い、なぶられることになる。成り行きに面して、それが仕組まれていたかのようであるために、Kとしては「あくまで抵抗したのか、それとも、屈伏したのか、どちらともわからない」のであり、現れて来る誰もが「はるかな未知の領域から任務を言いつかっていて、そのとおりに動いているのかもしれない」のである。こうした暗示にかかった底なしの疑念がすでにして「自由、孤独、思考」を剥奪された衰弱体の症状である。Kは、縉紳館で覗き穴を通して、その遠くかけはなれた未知の領域を代表するクラム氏を見る。城からKに届いた音信に署名のあった、そのクラムである。「小さな覗き穴は、あきらかに隣室の様子を見るためにくり抜かれたもので、ほとんど部屋全体を見わたすことができた。部屋の中央におかれた仕事机をまえにして、快適そうな、まるい安楽椅子に腰をかけ、眼のまえにぶらさがった電燈の光にまぶしいほど顔を照らしだされているのが」まさしくクラムで、「中くらいの背たけをして、ふとった、鈍重そうな男で」、顔にはまだ皺はないが、頬はいくらか弛み、黒い口ひげはぴんとはねている。鼻眼鏡の反射に眼は隠れていてよく見えないが、顔がすっかり見えたのは、Kの方に身体を半分以上向けていたからである。膝の上においた右手にはヴァージニア・シガーまで見える。ところが、クラムの外貌の多数の目撃やうわさから浮かび上がって来るクラム像には食い違いも多く、クラム自身も別人のように変わるらしく、このようにクラム像に矛盾しない無数の解があるために、クラムの在村秘書であるモームスこそはクラムであるといううわささえあり、下っ端の役人に身を窶しているのかもしれなく、クラムは遍在的なのである。クラムは早々とKの眼前に覗き穴を通して現れたのにすがたを晦ましてしまっている。クラムとKの間に使者(伝声管)として介在するバルナバスが、クラム像を保持しているのに、あれがクラムだと指さされてもそれと見分けられないのは、クラムの一般性が保持されない失語状態にあるのではなく、バルナバスが単にKの器官の延長であるだけでなく、Kの面影(流された身体)であるからである。バルナバスの家族も被監視の状態にあるのである。Kは、城を眺めていると、そのようにぼんやり前方を見やっているKの様子を誰かがうかがっている気配に気づく。自分は独りきりで誰にも観察されているはずはないのにそうではなく、するとKの目は焦点を定めることができなくなり、城が、あるいはクラムが、見分けのつかないものになっていく。つまり、覗き穴が盗まれたのである。クラムは、「おそらく叫び声をあげるとき以外はだまったままでいる。」しかし、この叫び声は、伝声管を通して、自分ハ悪クナイ、という(疚しさとなって潜伏している)叫びが谺したものである。城でのバルナバスは、クラムが見分けのつかないものであるだけでなく、あるとも知らない規則を知らぬ間に破ってしまっているのではないかと、取り憑かれたように怯えあがってしまうが、こうした猜疑の苦悶が、被監視の効果である。どのクラムも本当のクラムではないのではないか、といった(現実や真意に何か届かない)底なしの疑似奥行と猜疑は、本当のクラムが余計なものであることに盲目であるが、それは、測量の需要などない伯爵領にあくまでも測量師として留まろうと踏ん張るKこそが余計なものであることを知ろうとしない衰弱の、失明発作である。誰と話してもつい論破しないではいられないKの、その単に説得されまいとする屈折した悪癖も、神経の衰弱の徴候ではあるが、疑似奥行を打ち消そうと抵抗しているのでもあり、しかし、論破が実は誘導された屈服ではないか、というように疑似奥行はふくらむのである。それがKの測量である。クラムはその仕事(疑似奥行の増幅)に満足する。クラムとは、Kが不随意に負う瘤(流された身体)が、その見分けのつかない輪郭を探して、贅肉となって彷徨うのではなく、互いに余計なものである双子の片割れとなって彷徨うことであり、クラムが見分けのつかないものになっていくのは、その出自が領土ではなく荒野であるからである。それは、K自らは見ることのできない(しかし目をみひらいた)奇形嚢腫であり、分類と分業から除かれた余計なものの棲処であるが、それが外部に谺して顕在化すると、それは、眼状紋となって脅かすか(おどしつけるように説得するか)、誘惑するか、いずれかである。どちらであれ、Kはなぶられる。Kの苦行としての奇行・蛮行は屈服しまいとするのではあるが、知らぬ間にけしかけられ誘導されているのであり、決定的に覗き穴を盗まれて、さらしものになっているのである。この責め道具に身体をかける衰弱体がカール・ロスマン(「アメリカ」F・カフカ 以下引用は角川文庫 )に変態するとすれば、それは、責め道具に盲目の身体をかけるのではなく、身を委ねるというように、優越の衝動の屈折(幽霊性)が変質するのである。クラム長官からKに宛てられ、バルナバスを通して届いた二通の手紙と、カール・ロスマンが街角で見かけたいんちきくさいポスターは次の通りである。
「拝啓。ご承知のとおり、貴殿は、伯爵家の勤務に召しかかえられることになりました。貴殿の直接の上官は、当村の村長であります。貴殿の仕事ならびに労賃に関するいっさいの詳細は、村長が貴殿にお伝えするでありましょうし、貴殿のほうでも、村長に報告・説明の義務があるものとご承知ください。しかし、小官も、貴殿の動静にたえず注意をおこたらない所存であります。本状の伝達者であるバルナバスは、ときどき貴殿のもとに参上し、貴殿のご希望や要求をうけたまわって、小官に伝達することになります。小官は、可能なかぎり貴殿の意にそう心づもりをしております。労働者として満足していただけることこそ、小官のなによりの念願であります」
「橋屋の測量士どの!あなたがこれまでにおこなった測量の仕事を、わたしは高く評価している。助手たちの働きぶりも、賞讚に値する。あなたは、彼らに仕事をさせるすべを心得ておられる。今後とも彼らの熱意が低下しないようにしていただきたい。仕事を最後までやりとげていただきたい。未完成のまま中断されては、わたしの不満を招くことになるであろう。とにかく、安心されるがよい。あなたの仕事が完了したときに支払われるであろう報酬に関しては、近く決定される見込である。わたしは、あなたをつねに見まもっているものである」
「本日、朝の六時より真夜中にいたる間、クレイトン競馬場において、オクラホマの劇場つき座員を採用する!オクラホマの大劇場は諸君を呼んでいる!本日かぎり、ただ一回の募集、このチャンスを逸する者は、永遠にチャンスを失う者だ!前途の希望に生きんとする人こそ、われらの同志である!なにびとたりとも、歓迎!芸術家志望者は申し込みたまえ!われらの劇場はあらゆる人士を必要とし、各人を適材適所に活用せんとしている!われらに共鳴、参加の決意をせられたる人に、われらは即刻この場にて、祝辞をおくる!しかし、真夜中までに面接を受けられるよう、急ぎたまえ!十二時かぎり、あらゆる門戸は閉ざされて、もはや開くことなし!われらを信じない者に呪いあれ!さぁ、大急ぎで、クレイトンへ!」
オクラホマ大劇場に、時限つきの座員募集のひな型があって版を重ねているであろうように、ウェストウェスト伯爵領には、余計なものを呼び出しておいて、総掛かりの配置とシナリオを以て余計なものの神経を衰弱させる手引きのようなものがあるのではないか、といった疑念が涌いたとしたら、それはすでにしてKが、危機の諸段階に於いてその流された身体を伯爵領のしきたりから逸脱した奇行・蛮行を以て模写するように暗示をかけられ、導かれてしまっているのである。第一の手紙に関して村長の解釈は、それが測量士としての雇用を決裁した公文書ではなく、雇用について何の証拠にもならない単なる私信に過ぎない、というもっともなものであり、そもそも所領に於いて測量の需要はない、と断言さえしている。こうした事情を踏まえてKが、第二の手紙から、瘴気のようにたちこめる悪意ではなく、正当にも何かの間違い、誤解といったものを読み取ろうとする冷静は、しかしかえって、その態度が打ち消した悪意の思う壷になってしまう。すでに陰謀に巻き込まれているのに、引ずり込まれまいとして足掻く沈着な態度は、実はシナリオにちゃぁんと(狡猾かつ巧妙に)書き込まれていたものなのである。被監視の状態にかけられたKの、その「自由、孤独、思考」の縮小は、取り憑かれる、ということであり、責め道具にかけられ余計なものとして排除される衰弱に向かって誘導されているのである。大掛かりに展開しているが全貌をあらわさないオクラホマ大劇場の呼び出しと誘導も、朝目をあけてみると昨晩あったものがそのままにある場所にいることに面してそのことは単に確信に過ぎないし、何もかも知っているものがいる、といった懐疑と「自由、孤独、思考」の衰弱に於いて、ウェストウェスト伯爵領と変わっていない。しかし、何かが変質している。疑似奥行が消退し、覗き穴は盗まれているというより、被監視の状態が日限や時限に緩和され、この時限装置を通して「自由、孤独、思考」が回復している。だがその途端に、「なにびとたりとも」という呪文をふっと吹きかけられ、覗き穴の位置が収斂してしまう。Kを脅かす疑似奥行の地盤があやふやであるのは、個別化すると同時に一般化するという(つねはそれと知らず使いこなされている)裂目が剥き出しになって分類や発信と受信の分業が失効している、というのではなく、個別化と一般化が両極端に走って分類(あるいは同等化)や発信と受信の分業が麻痺しているからである。覗き穴が盗まれ「自由、孤独、思考」が剥奪されるということは、実は、この麻痺のために確信が訂正できない硬直状態なのである。責め道具にかけられた、この流された身体の硬直が、委ねられた身体に変態するのは、カール・ロスマンを「私」を以て物語り出す、その幽霊性の変態によってである。この変貌は、悪い事態は何も変わっていないのに試練(と呼ばれる図々しいユーモア)に包まれて毒性を超越してしまうことに似ている。というより、このユーモアは、「私」が遍在する窃視そのものになる、同毒療法なのである。

 註1 流された身体であることを複写する
 流された身体であることを複写することは、概して拡大(劇化)である。
 1 肉体の変調となって劇的に転写されるヒステリアは、肉体のどこかに特権的な場所を探し索めて彷徨い、失調や弱点の極端な拡大を以て突出する。不随意の擬傷としての失明や記憶喪失の発作など。
 ヨーゼフ・K(「審判」カフカ以下引用は岩波文庫 )は、屋根裏の裁判所事務局の奥深く分け入るにつれ「まるで船に酔ったようだった。難航している船に乗っているような気がした。波が壁板にぶつかり、廊下の奥からは、打ちかぶさる海水の音のように、ごうごうというひびきが聞こえ、廊下はぐらりぐらりと横ざまにゆれ、両側にならんで待っている被告たちが上がったり下がったりしているようだった。それだけに、自分を連れてゆく娘と男のおちつきはらった態度は、どうにも理解に苦しむものだった。自分は彼らの手に引き渡されており、もし彼らがつっぱなしてしまえば、木ぎれのように倒れてしまうにちがいない。二人の小さな目からは、鋭い視線があちこち走り、Kは均整のとれた二人の歩調を感じたが、こちらは一歩一歩運ばれてゆくようなものなので、とてもこの歩調にあわせるわけにはいかなかった。二人がなにか話しかけているのにやっと気がついたが、なんのことやらさっぱりわからなかった。ただ騒音だけが聞こえ、この騒音ばかりがあたりいっぱいになり、そのなかを貫いて、サイレンのような一本調子の高音が、耳にひびいてくるようだった。」二人は十分大きな声で話しかけていたのであるが、それがやっと言葉になって聞き取れたのは、「目の前の壁が裂けたかのように、新鮮な空気が流れてきた」そのときだ、「はじめはあんなに出てゆきたがり、こんどはここが出口だよと百ぺん言ってやっても、動こうとしないんだ」。この、自由の前触れのあと、Kの身体に俄然起こった変化は過激で、Kは階段を駆け降りるどころか、大きく飛んで降りさえした。「体のやつが革命でもひき起こし、自分が古い訴訟に苦もなく耐えたので、なにかまた新らしい訴訟をしかけてこようとでもいうのだろうか?」つまり、この混乱した呟きやあの(聞き漏らさなかった)非難は、新鮮な空気が自由の前触れなどではなく、出口のないままに交替する躁鬱のように、被監視の状態に囚われたまま身体が急激に変化しているに過ぎないことを漠として捉えているのである。Kに向けられた二人の非難は、単に口に出して言っているだけで、その口は、Kの声の変換・拡声器もしくはKの気の翻訳器である。
 細部や変な位置取りを耳目が捉え、奇妙な思念が頭に浮かぶ、そうした、衒奇ともいえる拡大、言わば局所的な大視症も、ヒステリアがあちこち尋ねて歩くというようで、外部の肉体化というようなものがあるかの如くである。「この男はふかぶかと、しかも軽々と、ひじかけ椅子におさまり、線のするどい仕立ての、短い上着を幾度となくひっぱり、一度は両腕をあげて、関節のところでぐらぐらするその両手で、なにかを描いてみせようとするのだった。(これは、最初ちょっと見ただけで、彼がなんの話をしているのかわからないでいると、噴水のなかに水が落ちているしぐさのように思えるのだった。)Kは前かがみになってその両の手から目を離さなかったが・・括弧内著者によって抹消された部分 」
 Kは仕事のすんだ夕方、疲れきったとき、事務室の長椅子の上に横になり、頭のなかで観察に観察を重ねていると、その日のうちの取るに足りない、どうにでも解釈できることの意味が度を越して拡張し、裁判所が自分を被告にするためにだけ機能しているかのような気がして来る。家の前の通りを、一人の兵隊が歩哨のような規則正しい力強い足取りで行ったり来たりしているのを見ては、見張りが立つことになったのかとも思うし、グルーバッハ夫人の下宿人たちは「口をあけて頭と頭をよせあいながら、告訴をするコーラスのように立って」いる。疑似奥行の「そのなかにビュルストナー嬢をさがそうとすれば・・突然二つのまったく見知らない目が、彼のほうに向かって輝きでて、彼をとらえてしまう、・・そうなると、ビュルストナー嬢は見つからない。しかしそのあと、どんなまちがいも避けようとして、彼がもう一度さがしてみると、彼女の姿がちょうどグループのまんなかに見つかる。腕を、かたわらにいる二人の男にまわしているのだ。」この光景は、「ビュルストナー嬢の部屋で見たことのある海水浴場の写真の、消しがたい記憶であるにすぎない」。つまり、その光景は、Kをグループから追い払うために(あるいは、このグループを通してもKを監視するために)あらわれてきたのである。二つの見知らぬ目や、この光景は、盗まれた覗き穴を暗示する。Kは、そこから追い払われた疑似奥行にたびたび戻って来て、大股で裁判所の建物のなかを、縦横に走り回るが、それは「自然法則に従うように」走り回るだけで、「自由、孤独、思考」は剥奪されている。「いつでも、部屋の様子は、みんなよくわかっていた。今まで見たはずのない、人気のない廊下が、まるで昔からの彼の住まいであるかのように、住み馴れた感じだった。細かな一つ一つのことが、痛いような明確さで、たえず脳髄のなかに入りこんできた。たとえば一人の外国人が、控えの間を散歩してあるいていたが、これは闘牛士に似た服装をした男で、胴のところはナイフで切ったように切りこまれており、こわばった感じで体をつつんでいるひどく短い上着は、糸の太い黄色っぽいレースでできていた。この男は一瞬のあいだも散歩をやめないで、たえずKの驚きの目を身にあびているのだった。腰をかがめてKは彼のまわりをそっとあるき、苦労して目を見はりながら、その姿を驚き見つめるのだった。彼はレースの網目模様をぜんぶ知っていたし、欠陥のある房もぜんぶ、上着のゆれかたもぜんぶ知っていたが、それでもなお見あきることがない。いやむしろ、彼はもうとうに見あきていた。いやもっと正確に言うなら、彼は一度も見ようと思ったことはないのだが、なにかどうしても目をそらせないのだ。」Kがかけられている、こうした強制、既視感、嫉妬は、媒体性を説明するのであるが、細部の茶目っ気、分業に富んだ「仮装行列」といったものが感じられるとすれば、それは、陰謀が目配せに変態しかけているのである。軽やかで引きさらわれるような運動は、「これまでの低い生活のものではない」。

 * 奇行としての、「痛いような明確さ」で剔出される細部、「難航している船」に乗りあわせているような位置取り、頭に浮かぶ思念
 「幅も長さも、ここでは大股で二歩以上はなさそうだった。床も壁も天井もみな木造で、角材のあいだに細いすき間があった。Kのむかいの壁ぎわにはベッドがあり、色とりどりの寝具がつみあげられていた。部屋のまんなかの画架の上には、一枚の絵がのせてあり、ワイシャツがかぶせてあったが、そのワイシャツの袖が床までぶらさがっていた。」
 「彼らの眉毛は、植えつけられたようで、あるくときの体の動きとは無関係に、あがったりさがったりしていた。」
 「聖物納室には、Kが持っているのよりももっと小さなランプが燃えていた。これもひどく下のほうにさがってかけてあり、ほとんど聖物納室の床だけを照らしていた。そしてその聖物納室はといえば、なるほどせまくはあったけれど、恐らく聖堂自身とおなじくらい天井が高かった。」
 「机は、ほとんど部屋の長さいっぱいを占めて、窓のそばに置かれていた。この配置だと、弁護士は背中をドアのほうに向けてすわり、訪問者はまったくの闖入者として、部屋の幅いっぱいを横切ってからでなければ、弁護士の顔を見ることができないわけであった。」
 「門の前までくると、すぐに彼らは奇妙なやりかたで腕をからませてきた・・肩を彼の肩の後ろにぴったりとくっつけ、腕はまげないままで、上から下までKの腕にからみつかせるのに使い、下のほうではKの両手をつかむのだったが、これがまた教えられたとおりの、訓練の行きとどいた、抵抗しがたいつかみかただった。Kはしゃちほこばって、二人のあいだにはさまれて歩いていったが、こうなると三人がまったくの一体となっていたので、一人がうちのめされれば、三人ぜんぶがうちのめされてしまうほどだった。ほとんど無生物だけが形づくることのできる統一体だった。」
 Kは「安楽椅子にすわりこんで、その椅子をできるだけ近く支店長代理のところに動かし、すぐに机から必要な書類を取りあげて報告しはじめた・・Kの書きもの机の表面は、低い木彫の飾り柵でかこんであった。机全体がすばらしい出来で、この飾り柵もしっかりと木にはまり込んでいた。ところが、支店長代理は、ちょうど今そこにゆるんだ個所を見つけた様子で、それをなおそうとして、人さし指で飾り柵を打った。Kはそれを見て報告を中断しようとしたが・・支店長代理は今度はナイフを取りだして、Kの定規をてこに使い、飾り柵を持ちあげようとしているのだ。恐らく持ちあげておいてからもっとたやすく、したがってもっと深く、押しこむようにするためなのであろう・・二、三度彼は、書類を読みあげているあいだに、あいているほうの手で、安心させるように飾り柵の上をなでて見せ」、飾り柵の修繕から手を引いてもらいたいのであるが、「飾り柵の一片が、今はほんとうに引き上げられており、今度は小さな支柱をまたそれぞれの穴へ入れこむ段となっていた」。これはそれ迄にやったことよりもむずかしかったので、「支店長代理は、立ちあがって両手を使いながら、飾り柵を机の面に押しつけなければならなかった・・そのためKも立ちあがって、ある数字の下に指を押しつけながら、書類の一枚を支店長代理にさし出した。しかしその間に支店長代理は、両手で押しただけでは足りないのを見てとって、いきなり決心をすると、全身の重みで飾り柵のうえにのしかかった」が、「急に押しこんだために、一本の支柱がぽきりと折れて、その場所で上に渡っている平ぶちが、二つに折れてしまった」。「悪い木だ」と支店長代理は腹立たしげに言う。
 「支店長代理は、すぐに部屋にはいってくると、ドアのところで立ちどまって、最近になってはじまった習慣のとおりに、鼻めがねをふき、まずKを見つめてから、Kの相手をつとめるのがあまり人に目だたないようにするため、部屋全体をも念を入れてながめわたすのだった。まるで、この機会を利用して、自分の視力をためしているような風情である。」

 2 社会的な負の逸脱(その擬態としての正の逸脱(昇華)、正と負の中間に彷徨う零の逸脱(内蔵や覆蔵、秘蔵や死蔵といった保持))
 3 他の誰かの身体への転写
 覗き穴が盗まれた被監視の効果によって、焦点が合わなくなって見分けがつかなくなる「城」のクラムの位置に、「審判」の「その建物」の報告に於いては、ビュルストナー嬢がはめ込まれていることからして、ビュルストナー嬢は、荒野そのものとなって潜伏していたものが、脅かす形ではなく誘惑する形に偏移したものであるのだろう。この誘惑に面しての失明は、海水浴場の写真の記憶によって埋め合わされつつ、Kの母のつぶれかかった目(Kにとってはおぞましい信仰の盲目性と重なりあった目)に転写される。この誘惑する形がけしかける形にずれ、被監視の状態のおぞましさとかけあわされた交雑種が、仮装の粋を極めた闘牛士のような服装の異国の男の、その潜在内容であるはずである。ところが、この、けしかける異人性が、視れども見えずではなく、視ずとも見えてしまう、その強制と逆転に直面して、Kは当惑してしまう。この食い違いを複合を以て調整することを通して、屋根裏部屋の裁判所事務局の、その漠とした警告の端末であるティトレリ(屋根裏部屋に流されているが、法制に寄生もしている乞食画家)がKを兼務してあらわれてくる。誘導され、けしかけられ、気をつけているのにひっかかってしまい、なぶられてしまう被監視の状態がティトレリの身体に転写されているのであり、したがって、Kの「屋根裏部屋」に疚しさとなって潜伏している命令(眼状紋)から分岐した、おどしつけ、けしかける誘惑と被誘惑との能所の収斂が、その能所に分岐した先で(ティトレリの方の屋根裏部屋で)再生していることになる。「ティトレリは・・Kを抱きかかえると、ひきさらうように走ってゆく・・あっというまに彼らは裁判所の建物に着き、いくつもの階段を走って越えてゆく。しかし、のぼるばかりでなく、のぼったり降りたりするのだ・・水に浮かんだ軽いボートのようにかるがると・・そして、Kが自分の両足をながめて、こんなふうなすばらしい運動は、もうこれまでの低い生活のものではありえない、」という結論に達したとき、頭の上で激変が起こる。今まで後ろから射し込んでいた光が突然まばゆく前からどっと流れてきて、Kが目をあげ、ティトレリがKの体の向きをぐるりと変えると、Kはまた裁判所の建物の廊下にいる。つまり、Kを曲芸的に兼ねている「ティトレリ」の、その複合の説明としての「すばらしい運動」が跡形もない「これまでの低い生活」に戻ってしまう。出口はない。「私」を代表するペルソナが顔面に肉附きになってどうにも剥がれなくなっている鬱に対して躁が、「私」というものの内在に何の根拠もないことを発見し、外在に逆転してはしゃいでみるにしてもペルソナの肉附きが解消されるのではないように、Kの「屋根裏部屋」も内在が不動の位置取りであるのではなく、その遍在的な外在に面して、その逆転は体の向きを変えれば光が射し込む方角も変わるぐらいのことに過ぎず、「難航している船」からの脱出であるはずもない。「廊下の一方の壁には、大きな窓がいくつもあけられていたが、その廊下のすみに、彼はまえに着ていた自分の服が、かためて置いてあるのを見つけた。黒い上着、くっきりとした縞目のズボン、そして、その上には、ワイシャツが袖をふるわせながらひろげられていた。」つまり、これは脱皮したというのではなく、「これまでの低い生活」で、流されている身体が寄生していた服が「痛いような明確さ」で捉えられているのは、一番下の引き出しにしまい込まれているからである。そこにしまい込まれているものには、ティトレリの描いた三枚の荒野の絵もあり、それは、ティトレリの、大股なら二歩で突っ切ってしまいそうな狭くるしい屋根裏部屋の、何のためかと思うようなもう一つのドアからベッド越しにKが出ようとして、その向こうにもう一つの裁判所事務局があるのをしてやられたように発見し、そのようにして、またしても誘導にひっかかってしまった日にティトレリにまとめて買わされる羽目になったものであるが、こうしたことが、Kを兼ねている「ティトレリ」の出現に材料を供給しているのである。「ティトレリ」とは、流された身体が寄生する領土であり、荒野は領土と対立するために、領土の境目に寄生することによって領土を限定する。領土が明確であるために、荒野はそのように眩惑的に振舞う。ふくれあがると同時に面積のない輪郭線になってしまう。一番下の引き出しにいつの間にかしまい込まれているものが、ふくれあがることによって姿を晦ますか、あるいは極端に収縮することによって消失するかであるのは、荒野というものの、その谺である。実は、「これまでの低い生活」の、その身分を代表する衣裳が廊下の隅にくっきり浮かび上がった(すなわち、視ずに見えた)のは、極端な収縮によって消失してその衣裳を抜け殻にしたものが、その抜け殻によって逆に限定されたのである。
 カール・ロスマンの「屋根裏部屋」は、蝙蝠傘を下の船室に置き忘れて来たことに気づいたカールがトランクの番をこの航海で馴染みになった顔に頼み込んで、大急ぎで下へ降りてみるが、近道になる通路がすでに閉鎖されているのに気づく、「こうなると、次から次へと連結している階段をいちいち探して降りなくてはならない。さかんに折れ曲がる通路をたどり、事務机ひとつ置きっぱなしになっている無人の部屋を通りぬけたりしているうちに」、とうとう、道に迷ってしまい、誰にも出会わない、「ただ頭の上の方で多くの人数が床をひきずっている靴音がひっきりなしに聞こえ、それと、すでに運転を停止された機関の最後のあがきが遠くの方から吐息のようにかすかに感じられるだけ」で、うろうろした末にふと出た目の前のドアを気が狂ったみたいに叩きだす、すると、中から大きな声がして扉が開き、「どこかにある上からの採光窓から、すでに船の上層の方でさんざん使いよごされて薄濁った光線がさしこんで、ベッドと戸棚と椅子がひとつずつ置かれ、それらと一緒にごちゃごちゃ閉じこめられたみたいに窮屈そうに男がつっ立っている、みすぼらしい船室をぼんやり照らし出してい」る、というふうに、汽船の底で質料化する。雨傘とトランクの喪失(局所的な失明)と引き替えに、カール・ロスマンが発見する「火夫」と呼ばれる「アメリカ」の細部は、序列への配慮を怠ったためにあるいは単に動作がのろのろで鈍重なために船から追われる憂き目をみることになった「火夫」に、カールの、その流された身体が転写されている局所的な大視症である。十六才のカールが女中に誘惑されるというような図らずも共謀的な暴挙から子供までできてしまったことは、カールがその後新大陸に島流しになって行方知れずになってしまうことの発端ではなく、すでにして流された身体が、昇華ではないが零の逸脱でもなく複写されている奇行、蛮行なのである。地下の石炭貯蔵室や屋根裏部屋に女中が絶やすことなく匿っている男というものの身代わりとしてカールをヨハンナ・ブルンメル(三十五才位)が嗅ぎつけていたように、女中ヨハンナも「火夫」の身代わりとしてカールに嗅ぎつけられていたのである。カールが航海中ずっと油断なくへとへとになるまで目を光らせてトランクを見張っていたのは、その中身を代表するヴェローナ産のサラミ・ソーセージを盗まれないためではなく、「ヴェローナ産のサラミ・ソーセージ」というような細部が不釣り合いに拡大される偏執(大視症)が暗示するように、秘密としての流された身体が詰め込まれていたからである。身代わりがあらわれてくるのは、このトランク、それまでの警戒が何だったのかと言いたくなるほどやすやすと盗まれた(というより、蜥蜴の尻尾のように劇的に切り離された)トランクが、放浪するのである。身代わりは奇行としての細部として発見されるということからして、実は流された身体が他の誰かの身体に転写されることもヒステリアなのである。身代わりの二重指示性は、放浪する子宮(ヒステリア)の妊娠状態であり、この行方知れずになっているトランクが繰り返し祟ることが、カール・ロスマンの流転なのである。身代わりの出現は、「屋根裏部屋」の神託が伝聞、告白に分岐して、その説得法の葛藤が物語る推進力になる。カールがさあ上陸だという段になって大切なものを(ここではトランクを)うっかりしかし劇的になくしてしまったり、うとうと眠り込んでしまったり、わざとではないかのようにはぐれてしまうことは、渡河地点を水の底の魚にきいてみる不随意の儀式であるが、プロットの水準では、移民の尋常な理由を以てカールを尋常に下船させるわけにはいかない。火夫を拡大鏡にして、いまは上院議員である伯父にカールが発見され、拾われることになった段で、「この人にあの火夫の代わりがつとまるだろうか」、とカールが問うのは、むしろプロットが危ぶむことを、すなわち、流転が停滞してしまうのではないかという危惧をカールが口に出したのである。差し当たって、伯父の出現は、未知の大陸の岸壁に到着していよいよ移民になっていく身の上を忘れ果てうとうとしてしまいそうなほど居心地のいい火夫から切り離す催促、「部屋の外のどこか遠くの方から、いままで完全に静まりかえっていた室内で、まるで子供たちの足音みたいな、低くて短い物音がひびきだし・・だんだん高まりながら近づいて来る」、結局、それは大の男たちのひっそりとした行進で、狭い通路にふさわしく一列になって進んで来て、「武器でもがちゃがちゃ鳴るみたいな音」の、その隊列の先頭がドアのすぐ前まで達してしまう、というような急き立ての合図に過ぎない。実はこれは、プロットの水準での転位の挿話の導入である。火夫を拡大鏡にして、伯父ヤーコブの一番下の引き出しに収縮、監禁されていたものがカールの身体に転写・拡大されて発症する挿話の合図なのである。伯父ヤーコブにとって甥カールがはるばる渡海して到来することは、甥の身体に世代交替するように転写された誘惑され易い傾向を告発すること、しかもそれが伯父の一番下の引き出しから遠い記憶のように出て来ていることを告白することである。地下が三層ある伯父の家の六階にカールが割り与えられた部屋には父がずっと欲しがっていたような机があって、その書類棚には、様々に分類できるように棚の側壁や底や天井が出て来たり引っ込んだりする調節器がついていて、そのクランクを廻しさえすればよい仕掛けになっていたが(それは、国にいたころクリスマスの市で子供たちに覗かせては目を見張らせた、キリスト生誕の人形芝居の、その仕掛けのようで、「カールもまた、冬支度に着ぶくれて、何度もその前にたたずみ、老人があやつるクランクの廻しぐあいと、それにつれて小さな舞台に起こる変化とを目をはなさずに見比べたものだった。クランクがまわるにつれて、あの東方の三博士が前進をとめ、星は輝いて空に昇り、あの聖なる馬屋における感動的な場面を見せてくれる。だが、彼のうしろに立っている母親の方は、そんな出来事をいつも上の空でぼんやり見すごしていたようだ。そんな母親を彼は自分の背中へ体がふれるまで引っぱりよせ、大きな声で呼びかけては隠されてあるものを指さしたりした。おそらくは一匹の小兎のようなものだ。前の方の草の中にいて、ときどき後足で立ちあがり、それからまた駆け出すかっこうをしてみせる、あれだ、しまいに母親は彼の口に蓋をして、また自分は前のような上の空にもどっていく。・・」そういったことがありありと思いうかぶのであったが)、伯父ヤーコブはその調節器を試してみることの禁止を以て誘惑し、そのように甥カールを試すことを以て一番下の引き出しの中身を洩らしているのである。それは、負の逸脱の擬態としての昇華のためにはどこかに押し込んでおかなくてはならないものであるが、ここでは、告発を通してその秘密が浮上、更新されるのであり、告発と告白とが葛藤することになるのである。それが、プロットの水準では禁止と誘惑の葛藤に化け、カールは仕掛けられ、易々とひっかかってしまうが、その被監視の状態は時限装置(真夜中の十二時までに、という思いがけない警告)によって緩和されていて、陰謀の水準の、その疑似奥行(すなわち、訂正・調節の余地があることそのものである奥行の基盤の、その揮発)はなんとか食い止められている。しかし、陰謀(あるいは試練)の、見逃せない暗示がある。「伯父」から「ニューヨーク近在の田舎屋敷」へと誘導されるカールは、クランクを試してみることによって伯父ヤーコブの地下室や古い屋敷の屋根裏部屋に入り込んでゴシック的なものに呼び出しを食らうというのではないが、そうした場合と同じように「自由、孤独、思考」を剥奪され、「クランクがまわるにつれて」草の中に隠れている小兎が後足で立ち上がり、駆け出すかっこうをしてみせたように、その流転に向かって飛び出そうとしているかっこうなのである。伯父から、真夜中の十二時までにカールが伯父の意に反する傾向を封じ込めない場合にグリーン氏を介して伝達されることになっていた袂別の通告の核は、「おまえの一族からは、碌な者は出て来ない」であるが、この、おどしつけるような説得すなわち伝聞と告白の中間、告白と告発の中間がカールの流転(追放と失踪)の、そのプロットの通路になる。火夫を拡大鏡にして伯父ヤーコブの一番下の引き出しから甥カールの身体に転写された蜥蜴の尻尾が切断されて元の引き出しに姿を晦まし、火夫が切り離されることを通してどうでもいいぐらいに行方知れずになっていた蜥蜴の尻尾はトランクの形態を回復して手元に取り戻される。振り出しに戻ったのである。火夫は単にトランクと雨傘を届けてくれた一等汽罐士シューバルにしぼんで「火夫」ではなく、もはや拡大鏡でもなくカールも収縮する。しかし、振り出しの地点には、トランクが、その、故郷で兵隊が入営するときに持っていくという由緒以上のものにふくらんで、浮力を増幅している。
 「おまえの一族からは、碌な者は出て来ない」ということは、流転の履歴がヒステリアの軌跡である限りでは、カールの行方に碌な者は現れてこないということにもなる。一緒くたにごちゃごちゃ詰め込んだトランクの一番底から、カールの一族を代表する写真が突出する。「小男の父がしゃんと真直につっ立ち、母親の方はすこし屈みかげんになって父親の前の肘掛椅子へ腰をかけている。片方の手を父親は椅子の背中のよりかかりへのせ、もう一方の手は握りこぶしをつくって、彼の脇にある華奢な飾りつきの小机の上に開かれて置いてある、絵入りの本の上へのせている」。父親の視線をかっちり受けとめようとカールは蝋燭をいろいろな位置に立てて見かたを変えてみるが、父親は生き生きとなってはくれない。「水平にぴんと張った太い鼻下ひげが、まったく実物に似ていないのだ。」母親の「口もとは、悩みの種があるのに無理に微笑しようとしているみたいに引きつっていた。」ちょっとの間、カールは写真から目をそらし、それからまた視線を戻して眺めると、母親の手が「椅子の肘掛けにそって前方に、もうキッスしたいほど」カールのすぐ目の前に垂れている。こんどは、この大切な写真が、眠気に襲われたカールの手から滑り落ち、そのままいつ紛失したかも分からずに行方知れずになる。不随意に渡河地点をききだそうとするに当たって、この写真は、対立する二つの系列に分岐する。グレーテ・ミッツェルバッハ(ウィーン生まれ、カールの故郷ボヘミア、プラハの、ヴェンツェル広場の「金の鵞鳥」で働いていたこともあるというオクシデンタル・ホテルのコック長)、そしてそこへつながるその秘書テレーゼ(不幸な生い立ちの娘)の系列と、仕事にあぶれたドラマルシュ、ロビンソン、そして巨漢の歌手ブルネルダへとつながる系列、それは、勤勉、地道、道具になる傾向と、放逸、早道、貢がせる傾向とであるが、ブルネルダからドラマルシュ、ロビンソンへと下る序列に於いて、奴隷状態にあるドラマルシュは実はブルネルダを通して(ブルネルダを道具として)貢がせ同じようにロビンソンは実はドラマルシュを通して貢がせるように、その差異は程度の差でしかなく、しかも、うわべの差異であり、その下では、太っているが動作は機敏な(夜にはそれが不眠症に化ける)グレーテ・ミッツェルバッハと、飽くまでもけだるく極力動こうとしないが贅肉となりまくって輪郭を探しているブルネルダとの、二種の彷徨と二種の不眠症が隠れている。あぶれた(溢れた)余計な身体にとって、どちらの彷徨が渡河地点なのか、それをきき出そうとしてカールに、「ラムシーズへの道」「オクシデンタル・ホテル」「ロビンソン事件」「隠れ場所」と続く大視症が降りかかるのである。カールの父はブルネルダの系列に属するのではないだろうから、写真から(一族から)貢がせる傾向が分岐するためにはブルネルダは小人であってはならなかった。しかし、ブルネルダの贅肉が不眠症であるように、カールの父の「自由、孤独、思考」も不断に縮小する方向で不眠症なのである。写真の父の身じろぎは、この縮小に対して知らず知らず抵抗しているのである。母の引きつった微笑は、太っているのに俊敏に動く痙攣性に転写されている。カールは、グレーテ・ミッツェルバッハの系列には特別扱いされ、ブルネルダの系列には奴隷扱いされる。カールの意志は、この二つの扱いの間で宙吊りになっている。というより、宙吊りである限りで意志は顕れる。それは、選択の余地があるという苦行なのである。選択の余地がある限り、どのように生きる傾向も生きる実験であり、その心細さの埋め合わせに太るどちらの不眠症も道連れを欲しがる。カールがグレーテ・ミッツェルバッハに特別に目をかけられ拾われたのは、浮浪する溢れた身体から同じ母国の水音がきこえてきて共鳴したからでもあるが、しかし、この特別扱いの効果である拡大によって、カールの負の面、通念や規則からのほんの瑣細な逸脱や違反も監視の網の目を擦り抜けられなくなり、誤解と邪推、容疑と拘禁と取り調べになぶられることになる。まるで泥棒扱いでオクシデンタル・ホテルを(あたかも予定通りではないかの如く)追われる。というのも、カールに疚しさとなって潜伏しているのは、奴隷状態で貢がせる、奇妙に曖昧な傾向であり、それはすでにして女中を孕ませたとも女中を孕ませられたともつかぬ事件となって発芽しているからである。ブルネルダ、ドラマルシュ、ロビンソン、そしてあふれんばかりの品物とが一緒にごちゃごちゃ詰め込まれた(屋根裏部屋のような)高所の部屋に本格的にカールが監禁された日の真夜中、隣の部屋のテラスにでて勉強している学生の舌を通してカールに思いがけない忠告が届く。ぜひともドラマルシュのもとに留まって召使いにでもなんにでもなれ、というのである。大きな暗闇にとりかこまれ、机上の燈火に照らし出された、その「大学生の声よりもっと深味のある、だれか別の人の声でそう言われたかのように」。学生はもう本の上に頭を傾けていて「いま一言も言ったりしなかったみたいに・・」。この声は、ドラマルシュ、ロビンソンを拡声器にして発見され、おどしつけるように説得しかけている。
 4 物語る
 「私」(「自由、孤独、思考」)が縮小、剥奪された「私」(「公」)を、その流された身体の転写を以て拡大、延長する葛藤が、「公」を「私」を以て物語り出す葛藤である。カールが本名を隠して「ニーグロー」という(どこかの事務所でつけられた)あだ名でオクラホマ大劇場に採用されようとしたのは大まじめな奇行であり、採用担当の方もそれをあやしむのでもなく寛容なのであるが、つまり、オクラホマ大劇場にあっては、そんなことは何の逸脱でもないということなのであるが、この「なにびとたりとも」道具になるという公平が命令と服従の分業にも及ぶとすれば命令することも服従の運動であり、媒体であることに留まる。ニーグロー(カール)の、その幽霊性が、コレガオマエナンダゾとおどしつけるように説得しかける二重の鏡像と媒体性(具体に化けることを以てその霊(命令)を映し出すこと)の浮上とかぶるように交叉し、被監視の状態と「誰かがいる」という気配との、かぶるような間に宙吊りになる、この宙吊りこそが、遍在する窃視の座である。「ニーグロー」に劣らず「カール」が鏡像であるように「公」と「私」の差異も程度の差であるが、被監視の状態と「誰かがいる」という気配の差異は程度の差なのではなく、「公」と「私」が分岐して擬態であることが秘密になっているか、収斂して擬態が失効しているかの差異である。この分岐の取り消しに於いては、ずれとしての「自由、孤独、思考」がそのまま「誰かがいる」を代表する、その妊娠状態がおどろく。陰謀とその誘導が、プロットになるか、試練になるかの分かれ目は、この代表の様態である。この代表の妊娠状態の眠り込みに於いては、流された身体の転写を以て「自由、孤独、思考」を拡大、延長する葛藤はプロットの展開でしかなく、陰謀に於いては、この(疚しさとなって潜伏していた)代表の妊娠状態は覗き穴が盗まれることに変形して浮上し、試練に於いては、この代表の妊娠状態がおどろくのである。

 「朝の四時から後はすこし骨休めができた。カールはもうなんとしても休息が欲しかったところだ。彼はエレベーターのそばの手すりへ体をすっかりよせかけて、ゆっくりりんごを食べにかかった。最初の一口をやると、もうりんご特有の強い香気がながれ出た。それから、食料品貯蔵室の大きな窓に取り囲まれている、採光用の穴のひとつをのぞきこんだ。すると、それらの窓の向こうの暗いところにバナナの大きな房が下がっていて、ほんのり光っているのが見えた。」
 「だれかがカールの肩をぽんと叩いた。」カールは客だと思って慌ててリンゴをポケットへつっこみ、顔もろくろく見ないでエレベーターの方へ駆け寄ったが、それはロビンソンだった。こうして屋根裏部屋は「オクシデンタル・ホテル」から「ロビンソン事件」を通して「隠れ場所」へ移動する。火夫、伯父がそうであったように、ロビンソンも器官の延長としての拡大鏡である。他の誰かを通して、疚しさとなって潜伏している細部が大視症に包まれるのである。しかし、「オクラホマの野外劇場」に至る途上には、そうした拡大する覗き穴が欠落している。未知の拡大鏡の介在が、カールの足跡の不意に途切れた方角に霧に包まれながらもまるで触知できるかのようなのに、それが見当たらないのは、そこが、カールの覗き穴が盗まれている疑似奥行であるからである。つまり、「城」や「審判」で報告されようとした被監視の状態で、カールは、貯蔵室の「窓の向こうの暗いところにバナナの大きな房が下がっていて、ほんのり光っている」ように、宙吊りになっているのである。
 「オクラホマの野外劇場」の、その末端の出現は、その局所化であり、浮浪するトランク、移動する屋根裏部屋の拡張、韜晦である。流された身体の転写によって増幅して局所的な大視症に包まれることと、疑似奥行と、「誰かがいる」との間に、つまり、身代わりの三つの様態の間に出現するそれは、この世そのものである。この世では、そのようにして「自由、孤独、思考」が失踪するのである。
 裏返しにでもなろうものならそう易々とは起き直れないような毒虫に「変身」したグレーゴル・ザムザの、そのぶざまな失踪は、窃視的な失踪と露出的な失踪の中間で足掻いている。それは、記憶喪失を恐れて肥満が化身に変換され切ることをためらっているが、贅肉の盲目状態に留まることにも躊躇している。そのじたばたした躊躇のために、そのおぞましい毒虫が実はグレーゴルであることを、家族にはすぐ見破られてしまうのである。グレーゴル・ザムザにそれと知らず意図することがあるとすれば、そんなふうにじたばたしてみることなのかもしれないが、肉附きになるほど押しつけられた鏡像を半ば隠し半ば隠さずして失踪することによってこの肥満と化身の雑種が獲得した覗き穴の効果は、家族の生計を担っているというのに実はグレーゴルこそが余計なものであることを逆にくっきり拡大することなのである。つまり、覗き穴は半ば盗まれているのであり、しかし半ば大視症に包まれて、毒虫は裏返しにでもなろうものならば醜い腹から生え出たおびただしいあしをぴくぴくさせるのである。その、思いがけない評価の逆転の効果は、グレーゴルが余計なものの半ば身代わりになることである。評価と鏡像の逆転は、変身に先立つ。だからこそ、その逆転に面して模写発作が起きていても、その毒虫がグレーゴルの成れの果てであると家族のものはすぐ分かるのである。家族のものの悪意は、グレーゴルが半ば被監視の状態にあってどうなるのかを単に(つまり、酷薄に)見届けることである。大視症に包まれてズーム・アップされたゲオルク・ベンデマンを「私」を以て物語り出す、その伝聞
と告白の葛藤が、別の鏡像を索めてペテルブルグに逃れたものの細々と商売を続けているだけの幼友達とゲオルクとの間に転位し、更には父とゲオルクとの間の告発と告白の葛藤に転位する、そのような転位を通してゲオルクに届く溺死の「判決」(以下引用は新潮社版カフカ全集)すなわち、余計なものであることの烙印もそうした悪意である。ペテルブルグに水没しようとしているその幼友達がゲオルクの(その余計なものであることが転写された)双子の片割れであり、化身に変換され切ることをためらっている肥満の、この変形が獲得した覗き穴も半ば盗まれていて、そのために、ゲオルクがペテルブルグに夢遊的失踪をしてはゲオルクに戻るのを父は「待ち伏せ」、毒虫がグレーゴルであることが家族のものにはすぐ分かってしまうように、ペテルブルグの友人が夢想に過ぎないことが父にはすぐ分かってしまうのである。
 流された身体の、その身代わりの三つの様態の間に出現するこの世が責め道具として圧縮され、韜晦した「流刑地にて」の拷問・処刑機械は、その流刑地の前指令官の亡霊の如くであり、その精神は衰弱してとっくに零度を下回りいつ崩壊してもおかしくない形骸なのであるが、崩壊の切っ掛けとしての何か衝撃のようなものを欠いたままにそれはもちこたえている。寝台とか図案家、馬鍬といった愛称で呼ばれるしかし酷薄な部分からなるこの機械に不断に「待ち伏せ」を食らっているのは、上級審のない判決を下すだけでなく執行もし、頑迷に跪拝するかわりに熱烈に機械を整備し説明する士官であり、それは、亡霊を映し出すだけでなくその器官の延長でもあるクランク付き機械に呼び出しを食らっていることであるが、この亡霊と士官の間には学術探検家が催眠術にかかっているかのように介在している。しかし、このことは士官の身体に霊媒性として転写されており、「自由、孤独、思考」の縮小、剥奪を他の誰かの身体に転写して通り過ぎる「自由、孤独、思考」の拡大、延長が学術探検なのであり、つまり、学術探検とは大視症に包まれて物語ることなのであり、「しかしその後、彼は、何事も起こりはしなかったかのように、いつもの仕事に戻った」と最後を締め括ることにでもなるのならば、それは、被監視の状態と「誰かがいる」との間に宙吊りになっている遍在する窃視の座に、その座から身を乗り出していた大視症がその目を括弧つきで戻すのである。この鳥瞰がとらえる海の広がりがそのまま重波寄せる悠久に化す限りで、大視症に包まれた「自由、孤独、思考」は生贄に変わる。「流刑地にて」では、スピリットの二重の変奏を通して、士官が拷問・処刑機械にかけられる。物語る衝動が学術探検を駆り立てる精神に変換され、士官を駆り立てる亡霊の生贄となるのである。しかし、学術探検家は、その士官の死体に流された貴種(生贄)のしるしを見ない。鳥瞰の、その二重性(重瞳)が解けてただ単にむごたらしい死体が大視症に包まれ返したのである。こうした抵抗は、律法である「父」としての責め道具にかけられる「判決」の最後の場面で、近づいて来るバスを見ながら橋の手摺りの鉄棒につかまった手を離す「その瞬間に、橋の上を文字通り無限の雑踏が動いて行った」と締め括る報告からは検出されない。「磔刑」の如き「その瞬間」に通り過ぎる無限の雑踏は、減速撮影された映像が一気に圧縮される効果に包まれているだけでなく、「何事も起こりはしなかったかのように、いつもの仕事に戻った」ということの変換であり、「何事も起こりはしなかったかのように」大視症が覚醒したままに眠り込み、国境を越えようとする難民の群や強制収容所へ陸続と行進するユダヤ人のように連綿とつづくものの、その果てしなさは、重波寄せる悠久の変形なのである。
 鶴女房が被監視の状態になる瞬間、その盗まれた覗き穴の向こう側に回り込んで、その化身を解いて尾羽打ち枯らした異類の姿を大視症で包む窃視、被監視の状態と大視症に包まれることとの中間に彷徨い出た窃視は、被監視の状態と「誰かがいる」との間に宙吊りになっている遍在する窃視ではない。それは、あの早逝しなかった小説家が市ケ谷駐屯所の一部を占拠し、首を打たれて生首となった(すなわち、単に胴体と首が切り離されるのではなく、質料を残らず使い果たして生首に化身した)瞬間、その生首を大視症が包む被監視の状態の如くである。この宙返り、このアクロバットに潜むかのようにかかっている霊は、転写・拡大されながら剥奪された「自由、孤独、思考」を「私」を以て語り出す葛藤である。ところで、「私」を以て語り出す「学会への報告」(「田舎医者」)を作成した「自由なる猿」が、ハーゲンベック商会の狩猟探検隊に生け捕られて、その監禁状態から脱出するための出口として見出したものとは「人間」になることであったが、それは、握手や酔っ払ったり煙草をふかすしぐさ、言葉を発することなどを真似るようなささやかな芸に留まるのではなく、野生の出自や青春を封印して擬態としての「私」というものを装着すること、野生というもののその媒体性を眠り込ませ、擬態であることを秘密にして「自由、孤独、思考」を鎧うことであった。しかし、これは出口ではない。眠り込んだのは、「自由、孤独、思考」が剥奪されたくぐつ状態なのであるから、「自由なる猿」のその「自由」というものがあやふやに韜晦した(「藪に分け入った(姿をくらました)」)ことになるのである。宙に吊り上げられている「私」というものの、その曲芸性は「最初の悩み」(「断食芸人」)として空中曲芸師の額に刻まれたように「自由なる猿」の額に刻まれる。空中ブランコの、どう使いこなされていようと何とも頼りないその止まり木が二枚に増えたところで頼りなさが増幅して際立てられるだけであるように、「私」というものを代表する「自由、孤独、思考」もすがるには何とも頼りないものである。「自由なる猿」がその大いなる歩みに於いて次に学ぶ曲芸は、「審美感覚や正義感、習慣、伝統、希望」といった要請の姿をとって「小さい女」(「断食芸人」)を悩ませる。こうした要請(価値)は、生動の源泉としての魂ではあっても何も根拠がないために強調したり儀式を踏んだりして拡大しておくほかないものであり、この価値がいくら普及したところで何の拠り処にもならないのに数的優位に基づく正当性めがけて盲目に身を寄せ合おうとしたり、或いは、その要請(価値)に従わないものを不寛容に弾劾しようとしがちなのである。しかし「小さい女」が痙攣的に日々苛立っているのは、野生ではない諸々の要請、すなわち「小さい女」の使いこなされた「審美感覚や正義感、習慣、伝統、希望」がそれにもかかわらずどこから来たとも知れなくなった強制になっていること、このことが責め道具にかかっている如くはたらくからである。「断食芸人」の痙攣的な衰弱もこれに似ている。空中高く浮揚した或いは地中深く沈み込んだ飽くなき断食芸の強行と持続の源泉は、「誰かがいるはずだ」という記憶じみた予期と信頼である。しかし実はこれは野生の要請であり、哺乳の相をとって、或いは眠らせる大きな顔、名を呼ぶ声となって現れる。食べたくなるものが見つからないから断食するのだ、という抑え切れない告白に苛立ちや疚しさが蔓植物のようにからみついている断食芸とは、この予期と信頼の変形であり、この変形した「誰か」が出現しないのは責め苦であるにしても、先ずは伸びて来て鎌首を擡げるその原初の野生の要請(呼び出し)が責め・責め苦なのである。これは、誰に届くというのでもなく、それどころか誰にも届かないでいるのに物語り続ける苛立ちや疚しさにも変形する。この奇妙な衝動は、呼び出され鏡像となって宙に浮いている「私」を、すなわち、転写・拡大されながら剥奪された「自由、孤独、思考」を「私」を以て語り出す、といった二重の宙返りである。「プリマ・ドンナ・ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」の場合、ヨゼフィーネが言い当てあぐねているのは、その希有な傷つき易い曲芸である鼠鳴きが、音楽にではなく、物語ることに転位しようとしていることである。ヨゼフィーネが気難しいというよりは、この曲芸の変形を追跡してそれと指摘することが困難を極めている。この変形・転位は突然変異的であるが、ヨゼフィーネはミュータントなのではない。差し当たってヨゼフィーネは、貧相と区別のつかないそのか細さを以て二十日鼠族を代表するが、二十日鼠族の多産性、踵を接して世代が重波(しきなみ)のように続く悠久性を欠くために種族を代表しない。洪水や侵略、疫病といった危機に面して、蜥蜴の尻尾のようにヨゼフィーネは切り離されるかもしれない。しかし、ヨゼフィーネが、その曲芸の変形・転位を以て藻掻いているのは、蜥蜴の尻尾の如き生贄になるために保護されている(飼われている)ことではなく、危機に面してマリアの如く人柱になるために捧げられていることを二十日鼠族に悟らせることである。その分かりにくい部分こそは、恐らく「コロラトゥーラ」なのだろう。ヨゼフィーネの絶唱の効果は希有であるとしても、「コロラトゥーラ」は受胎告知に昇華していない。ヨゼフィーネは「受胎告知」を物語れないでいるのであり、「コロラトゥーラ」は「神を孕む話」にはならず、何だか分からないものに留まり、せいぜいのところヨゼフィーネは蜥蜴の尻尾のように切り離されて行方知れずになるのである。しかし、「コロラトゥーラ」が言葉として二十日鼠族に届いたということは、二十日鼠族が「受胎告知」を漠としてしかし光のように予感しているということである。それが、ヨゼフィーネの鼠鳴きのふしぎな効果の源泉である。ところがこのことは、ヨゼフィーネを躓かせる。「受胎告知」の覚醒とは、一度も離脱したことのない媒体性につれもどされることだからである。「コロラトゥーラ」とは、「私」というものを擬態とする媒体性を「私」を以て語り出す二重の宙返りである。ヨゼフィーネ(の曲芸)は、特別なものであろうと執着する限りで蜥蜴の尻尾であるが、ヨゼフィーネが行方知れずになったのは、そのためではなく、「自由、孤独、思考」が大視症に包まれることと疑似奥行と「誰かがいる」の間に失踪し、大視症と被監視の間に彷徨い出ていた窃視の座が転位して、被監視の状態と「誰かがいる」の間に宙吊りになったからである。
 「父の気がかり」とは、「私」というものを擬態とする媒体性を「私」を以て語り出す二重の宙返りそのものであり、しかも、この「父の気がかり」を更に「私」を以て語り出す、というように括弧憑きになり、この父が「私」を擬態として語り出しているのに、しかもまるで、子孫としての「私」が語り出しているかのように窃視の座が宙吊り(括弧憑き)になっているのである。オドラデクは、媒体性を位格(ペルソナ)の分岐を以て説明しようとする際に顕れる、こうした、何だか分からない混乱や曖昧性の刻印である。「それは一見したところ、偏平な星形の糸巻のように見え、また事実、糸が巻きつけてあるようでもある。それにしてもどうやら、古い切れはしをつなぎ合わせ、それがまたこんぐらがった、種類も色もおよそてんでんばらばらの糸であるらしい。ところでこれは、ただの糸巻ではなく、星の中心から小さな棒が突きだし、この棒にはもう一本の棒が直角に取りつけてある。一方ではこの直角の棒を支えとし、他方では星の稜の一つに支えられて、全体は二本の脚で立つことができる。」この代物は、もとは何かの道具であったが、その一部がとれてしまったり破損してしまっている、というふうなのではなく、それなりに完結しているが、すばしっこくて手に取って見ることなどできない。屋根裏にいたかと思えば階段に、廊下にいたかと思えば玄関に、といった具合で所在が知れないこともたびたびであるが、階段の手摺りにもたれているときなど、つい話しかけてみたくなる。余りにちびなので「子供なみにあしらうことになる。「名前は何ていう?」とこちらがきく。「オドラデク」と彼がいう。「うちはどこ?」「きまっていない」と彼はいって、笑う。」しかしそれは、肺がなくても洩らすことができるような笑いでしかなく、落葉がかさこそと鳴るのを、ふと耳にしたような気がする。父の気がかりは、オドラデクに意味や死というものがそぐわないために自分より長生きして、子孫の足先で糸を引きずりながら階段を転げ落ちたりすることになるのではないか、という「ほとんど悲しみに似た心地に」包まれる。オドラデクが、何だか分からない分類し難いものの刻印であるだけでなく、何か喪失と麻痺の刻印でもあるのは、しかも漠として光のように届いているのは、この父にカメラ・アイのように潜り込んでいた「私」がカメラ・アイのように向き直る鏡像の効果(覗き穴が盗まれる効果)に於いて、「私」というものが失踪して「自由、孤独、思考」の、その擬態性に面してしまう(その擬態性が秘密ではなくなってしまう)からであり、しかも、この、「私」というものを擬態とする媒体性は何か光であるからである。それは、「自由、孤独、思考」が代表する「私」というものによって打ち消され、疚しさとなって潜伏している隠し抽斗の底で水音のように発光しているが、それが秘密ではなくなるということは、妊娠しそうになること、「私」というものが自明ではなくなり、妊娠したように何かが膨らんでくること、鸚鵡貝の目の気配、頭足類のような頭部の位置異常の気配をシャムの双子のように孕むことである。誰もいない間にもう一度覗きに来て顔を入れたいような小さな闇がよどむ場所で、子供たちはひとつの秘密をもつ。「屋根裏部屋の、奥まった片隅に、百年以上にわたってできたがらくた道具が積みあげられ、大人ではもう手探りもできなくなっていたが、弁護士の息子ハンスが、そこでひとりの見知らぬ男を発見したのである。男は、縦にして壁に寄せてあった木箱に、腰を降ろしていた。」見知らぬ男は、もうひとりのハンスだった。ハンス・シュラークといい、バーデン地方の狩人で、ネッカール河畔のコスガルテンの出身というのだった。つまり、ハンスは「自由、孤独、思考」が剥奪される間道を見つけたのであり、ハンス・シュラークと仮初めに呼ばれるものは一尺ほどの身の丈に縮んで、エコーしながら体を踏み出すと、ハンスと仮初めに呼ばれるものや肖像の奥地へ赤方変移して消える、つまり、ハンスとなって映し出される。ここでも、どこか呪術的に名前を尋ねているが、それは、「私」というものを自明ではなくする秘密な気配(「誰かがいる」)をまるで他の誰かから剥ごうとするかのようである。このように、もうひとりのハンスがハンスの秘密になる、というように秘密な気配が転位してオドラデクも出没する。オドラデクが忽然と出そうな場所は、もうひとりのハンスが忽然と出そうな場所であり、そこでは、ありふれたハンスと分類を拒むオドラデクの見かけの程度の差異や位格の差異は取り消され、大視症と時間の極端な拡大に包まれて出て来たその静止画像は、すなわち、疑似奥行(被監視の状態)と時間の極度の圧縮を通して「手に取って見ることなどできない」タイム・スリップする鏡像でもある。つまり、この秘密は、オマエノコトナンダゾ と、しかし変身を通して(鏡像であることが隠されて)、おどしつけるように説得しかけている。ハンスはもうひとりのハンスになり、父はオドラデクになる。この変身は、「父の気がかり」の、その裂目(その二重の宙返り)に面して、その秘密な気配の転位と取り返しのつかない次元に失われることを以てする模写発作である。従って、変身は、沈黙する、というのではないのである。子供たちがどこともない昼間の奥地で龍に呼び出しをくらう話の系譜のどこかで、子供たちはまた進化論を一つの秘密としてもつ。龍の出そうな場所に秘密な気配は転位し、何よりもゴシック的な霧を吐く進化の話の、その窃視の座は、大視症と被監視の状態(疑似奥行)の中間に、時間の極端な拡大と時間の極度の圧縮の中間に、宙吊りになって、おどしつけるように説得(恐喝)しかける。進化のどこかで生物がその進化の痕跡(記憶)のようなものを振り返ることが薄気味悪いのは、振り返ることそのものが薄気味悪いのではなく、薄気味悪く迫る気配に振り返るのであるが、そのようにして、個体発生に於いて系統発生が圧縮・反復される図は、子供たちの気がかりを発作的に、饒舌に模写するのである。
 同じようにして、子供たちは釘附けの磔刑の十字(三位一体)を一つの秘密としてもつ。



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koshiro kusamori,
2009/12/20 4:29